安楽死・尊厳死

 自分の体の自由が効く状態で投薬などにより死期を早めることは「安楽死」とされている。回復の見込みがない患者の延命治療を打ち切ることとは異なる。

 日本では医師の自殺幇助にあたるとして認められていない。アメリカではオレゴン州、ワシントン州、モンタナ州、バーモント州、ニューメキシコ州で医師の診断により死期を早めることが認められており、全米に広げるべきどうかも議論の的になっている。ヨーロッパではスイスやオランダ、ベルギー、ルクセンブルクなどで既に合法である。

 「安楽死」の議論は」、社会のルールとして認めるか認めないかという問題だけで済むものではない。人間とは何かという宗教的な問いに関わってくる。

 人間の本質は魂であり、この世の人生が終わっても永遠に生き続ける存在である。地上での人生は魂の学びを深めるためのものであり、人間は何度もこの世に生まれては、新たな経験を得ている。障害や重度の病気などの大きな課題は、自分自身の魂をより輝かせるためのこともあれば、高次な使命からくることもある。このことを理解せず、「障害や病気を持って生まれることは苦しみであり、早く死ぬことが幸福である」という考えが本人や周囲にあれば、人生の目的と使命に反している。逆に、「とにかく死ぬことは不幸である」として、この世の生命の維持ばかりを求めることも幸福にはつながらない。

 霊的な人生観があってこそ、「死」をどう迎えるかの答えが出る。そして、この世でも、そしてあの世でも幸福な生き方が可能になる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『不成仏の原理』の中で次のように述べている。

「魂修行としての人生を生きてきて、『そろそろ寿命が来た。お迎えを待って、あの世に行かなくてはならない。あまり長く家族に迷惑をかけたくない。家族を早く楽にしてやりたい』という気持ちで、安楽死や尊厳死を望む人もいます。一方、欧米では、この世に執着し、『生きたい。生きたい』と思っているにもかかわらず、なかなか快復しない人に対して、唯物論的な考えで治療行為を打ち切るケースもよくあります。その結果、『殺された』と言って、霊が暴れることもあるのです。」

 魂修行としての人生を生きてきて、『そろそろ寿命が来た。お迎えを待って、あの世に行かなくてはならない。あまり長く家族に迷惑をかけたくない。家族を早く楽にしてやりたい』という気持ちで、安楽死や尊厳死を望む人もいます。a1550_000037

 死期が来ているにもかかわらず、延命措置を続けて苦しみすぎると、死後に魂がその苦しみを持ち越し、心に葛藤をつくってすぐに成仏できないことがある。そうした事態を防ぐために、安楽死を選ぶことは必ずしも悪ではない。しかし、親族が「人間は死ねば終わりだ」と思って安楽死を選んだ場合、本人の「霊」が家族を恨み、やはり天国に旅立ちにくくなるケースが出てくる。また、本人があの世の存在など認めていない状態で、人生を悲観し、「死ねば苦しみも何もかも消えて楽になる」と思って安楽死を選んだ場合は、一種の自殺行為になる可能性がある。一般に自殺した人は、自分が死んだことさえも分からず、長年に渡って地上でさまよう人がほとんどだという。

 このように、生命倫理に関わる善悪は、「どのような動機で行うか」「その背景に霊的人生観があるかどうか」が出発点となる。科学が発達するほど、それに見合った宗教観を持たなければいけない。

 「自分の思う通りに死にたい」という願いに共感する人たちもいるが、尊厳死や安楽死の是非を問うには、人間の本質は魂であるという霊的人生観を踏まえる必要がある。人間はどのような人生を送るのが自分の魂を磨くために最適であるか、生まれる前に予め計画を立てており、その「問題集」の中に病気の計画を入れてくる場合がある。

参考

 また、過去世の問題をカルマとして持ち越している場合、病気を経験することがカルマの解消になることもある。たとえば、霊能者のエドガー・ケイシーは、病気の原因をリーディングする中で、「ポリオにかかり車椅子生活をしていた人が、古代ローマ帝国時代、大競技場でキリスト教徒が残虐に迫害されているところをせせら笑っていた」「目に障害を負った人が、過去世で兵士として敵の目を突いた」などの事例に直面している。本人は病気に苦しむが、実は「他者を傷つけた」という魂の罪悪感を解消していることになる。カルマを解消できなければ来世に持ち越しになり、もう一度苦しみを味わうことになってしまう。

 このように、病気は必ずしも一方的に本人を襲い、害するものではない。人生の問題集の一つとして、必ず大きな意味がある。過去世や来世まで含めて考えれば、原因・結果の法則は貫かれている。また、人間の肉体は機械と違い、病気を治す力もある。余命宣告を受けていても、反省によって心の傾向性が180度変わったり、信仰の奇跡によって回復することがある。

 日本の場合、死期が近づいている高齢者に対しても、点滴や人工呼吸器の装着などを行う傾向があります。一方、諸外国では、こうした医療は患者の苦痛を長引かせると考えられ、必ずしも奨励されない傾向にあります。

 まだ寿命が残っているのに、毒薬などで死期を早める「安楽死」は望ましいものとは思えませんが、濃厚な延命措置を行うことは、必ずしも患者の幸福につながらないのではないでしょうか。

 実際、内閣府の調査によれば、65歳以上で「延命のみを目的とした医療は行わず、自然にまかせてほしい」と回答した人の割合は91.1%という結果が出ています。しかし、日本では、死期が近い場合の医療について自分の意思を尊重してもらう「リビングウィル」に関する法律が未整備で、実際の医療の現場では、「一日でも長く生きてほしい」という家族の意向が尊重されることが多いようです。

参考

 こうした問題の解決には、「人間は死んでも終わりではない」という正しい死生観の浸透も不可欠です。社会保障については、この他にも細かい議論はありますが、「本当に国民の幸福につながるのか」という観点で見直していくことが必要となります。

 尊厳死には様々な考え方があるが、その前提としては、人間の生命に関する宗教的な見方を押さえておく必要がある。人間の本質は魂であり、霊界からこの世に生まれて様々な経験をして魂を磨いている。人生の苦しみである「病気」は、予定として織り込み済みで生まれてくる場合もあるし、自らの心の葛藤や苦しみが現象として現れていることもある。いずれにしても、病気は人生修行の一つであり、本人のみならず周りの人にとっても学びの機会である。こうした霊的人生観を踏まえた上で、死期が近づく中、必要以上の延命治療をしないことや尊厳死を選ぶことは、必ずしも非難されるものではないかもしれない。

 医師の余命宣告はあくまで平均であり、末期がんと診断されて余命宣告を受けても、何十年も生き続ける人もいれば、奇跡的に回復する人もいる。病気の原因になった心の葛藤を取り除くことで、人間は自分で病気を治すことができるのです。

 こうした真実を知らず、人間の魂や霊界の存在を信じていない人が単に苦しみから逃避するために選ぶ死であれば、再考の余地がある。生きること、死ぬことの意味を改めて考えさせられる。

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