脳死と臓器移植の問題

 日本で脳死状態での臓器移植が可能になったのは1997年。日本国内でも臓器移植のドナーを増やす必要があると議論されてきた。

 脳死と臓器移植の問題に関しては、「医学的に死である」という言葉が何度も使われましたが、「医学的死と宗教的死とは違うのかどうか」ということも問題になると思います。

 いわゆる西側陣営が共産主義圏との冷戦に勝ったため、1990年代に入るとマルキシズムに基づく唯物論というのが思想的にはかなり衰退してきたように見えます。しかし、「戦後日本を幅広くおおった唯物論は、いま別なかたちで頭をもたげてきているのではないか」と考えられております。それが「唯脳論」です。「人間の本質は脳にある。脳こそが人間の本質であり、脳が機能しなくなれば人間は死体も同然である」という考え方です。これは古くからある人間機械論の焼直しと言ってもよいと思います。

 こうした医学的唯物論、医学マルキシズムともいわれるものは、マルクス的唯物論に代わる新しい唯物論だと思いますし、臓器移植法案をめぐる議論においても、その背景に「唯物論」対「あの世を信じる宗教観」という戦いがあると言わざるを得ないのです。

参考

 臓器提供を望む人は、他の人の死によって初めて臓器を得ることができます。医療技術の発達が、そうした欲望を大きくしていることに問題があります。この点に関する日本の議論は、西洋の生命倫理学者が気づかない多くの大事な視点を与えてくれており、注目に値します。

 「この世は仮の世である」という仏教的観点から、臓器の提供を受ける人の執着が問題ということでしょうか。

 問題は、デカルト以降の近代社会が死はすべての消滅であるという幻想に支配されていることです。東洋の仏教は西洋の宗教に比べ、生と死に関する智慧をよりよく保ってきました。その智慧を拒絶したところに、生命への強い執着が起こってきます。現代人は他人の臓器を取ったり遺伝子を操作したりして生命を引き延ばすことができますが、その結果、「死は医学の敗北」と考えられているのです。

 霊がいて霊の世界である「あの世」(死後の世界)がある

 世界各地で起きている臨死体験は、あの世の霊人たちが企画して行っていることなのです。彼らは、『あの世の世界や魂がある』ということを教えるために、それを行っているのです。人間は、肉体が滅び焼かれ、そして地上を去ったのちも、生前と同じように個性を持った考えができ、それぞれの思いを出すことができる。

 したがって、『心の働きは脳の作用ではない』ということなのです。脳の作用は、心の働きをより円滑に正確に迅速に伝えるための一種の『通路』、あるいは『道具』にしかすぎないのです。

 脳が異次元空間とつながっているかのように振る舞うことが分かってきたのも、脳とは霊的存在である「心」の働きを肉体に伝えるための「通路」であると考えれば説明がつく。

 欧米の医療がスピリチュアリティを前提とし始めた中で、日本は唯物論的風潮や宗教への偏見から後れをとってきた。だが今や、幸福の科学大川隆法総裁が霊界の徹底証明を試みていることもあり、日本でも死後の世界や霊の存在を認める医療者が出てきている。

 これからの医学や医療は、幸福の科学が明かしている霊的知識に目を開くことで、唯物的医療の限界を突破し、本当の意味で患者を救うことができるようになるに違いない。

 唯物論に基づく現代医学は、「人間の本質は肉体に宿る魂だ」という真実を見落としている。これが現代医学の治療に限界をつくっていることは否めない。あくまでも肉体を「物」として捉えているため、それを治療するのに手術や薬など物質的な手法に頼らざるを得ないのです。過剰な治療の背景にはこうした考え方の行き詰まりもある。

 一方、宗教は心の持ち方という内側からのアプローチで病気を治すことを試みる。ならば、外側からの物質的なアプローチを中心とする医学が宗教と協調し補完し合えば、治療効果が高まる。その意味でも、医学自体が霊的真実に目を開くことが求められる。

 かつては、「唯脳論」と称して人間の意識は脳の産物にすぎないという考え方が流行ったこともある。ところが今や、脳科学や測定技術の進歩により「脳があの世と関係している」ことが分かってきた。

 「人間は脳で考えているのではない」 死んで火葬場にて焼かれた人が、そのあとも生前とそっくりの癖や個性を持った思想を展開できるということ、死後もそうした能力を持っているということが厳然たる事実なのです。

 脳というものは、コンピュータ的機能、管理機能を持っているところであり、いわば管理室なのです。そのため、脳という機械が故障した人は、考えや思想を外部に発表したり、身体で表現したりすることができなくなることがあります。しかし、それは機能における障害であって、実際は考える力や意思を失ったわけではないのです。

 これが脳死において最も根幹をなす議論ではないかと思います。すなわち、「人間は魂、霊体の側に考える中枢を持っている。それは肉体の生死とはかかわりなく存在するものである。この魂こそが人間の本体であり肉体は乗り物にすぎない」ということです。

 ちょうど、肉体は自動車で魂はその運転手のようなものなのです。自動車が故障しても、それは運転手が死亡したことにはつながりません。自動車は故障すると進まなくなり、外見からは運転手が機能を停止したようにも見えますが、それは運転手の生存とは別です。魂と肉体の関係は、これとよく似ていると言えるのです。

ほんとうの脳死とは

脳死状態でも、家族の声が聞こえる

 もうすぐ死ぬ人がいて、もう一方には、臓器の移植を受ければ、まだ何年かは生きられるかもしれないという人がいるとき、「もうすぐ死ぬ人、数日以内で確実に死ぬ人の臓器を取って、まだ何年かは生きられるかもしれない人にそれを提供するのは、比較衡量からいっても価値があるのではないか。長く生きられる人を優先するべきではないか」という考え方もあると思います。もちろん、そうした考え方は充分ありうることですし、しかも、それが愛の思いから出たならば、一定の犠牲的行為として評価できる面もないとは言えません。

 しかし、脳死の状態においては肉体と魂とはまだ分離していません。人間における死とは、「肉体からの魂の離脱」以外にはなく、これは、医学的死と宗教的死とに分けられるようなものではありません。肉体から魂が離脱することが死なのです。  

霊子線 ☜クリック

 死後わずかの時間で離脱する人もいますが、たいていの人は自分の肉体に執着しているため、肉体からなかなか離れようとはしません。死後 2、3時間であれば、まだ肉体を出たり入ったりして、肉体に取りついている状態が普通です。

 遺族が集まり、お通夜や葬式をして、本人に「あなたは死んだのだ」ということを自覚させ、肉体から魂を離脱させるという儀式が古来から続いていることからも分かるように、通常、死後数時間から丸一日、魂は肉体の周辺に漂っていると言ってよいのです。

 「まだ心臓が動いており、血流があって、身体の温かい状態においては、魂はまだ肉体から離れておらず生きようとして努力している」というのが真相なのです。

 交通事故などによって脳に障害を受けた人も多いと思いますが、そうした人は突然事故にあったため、「自分がいまどのような状況に置かれているのか」を充分に理解していないことが多いのです。そのため、医者が脳死を宣言し「死体になった」と言っても、大多数の人たちは「自分が死んでいる」ということを納得してはいません

 脳に反応がない場合、その人には考える力がまったくなく、まわりの人の言葉も聞こえないのかといえばそうではありません。霊体というものは、耳の機能を通さなくても、まわりの人たちの考えを読み取ることができます。それも、声に出して語っていることだけではなく、心のなかで考えていることをも読み取ることができるのです。

 したがって、病気の末期にある人でも、まわりの人たちの言っていることや考えていることが手に取るように分かります。そして、自分がいま何をされているかを明確に知っているのです。

ほんとうの死は心臓停止の後にやってくる

臓器移植が「祟り」を起こす

 問題なのは、死後の世界や魂の存在を認めていない人が、まさに肉体的な死に至らんとするときになって、「自分は自己を認識できる。自分は考えることができる」ということを根拠に、「自分はまだ生きている」と思ってしまうことです。

 死後の世界や魂の存在を認め、「霊体と肉体とは違う」ということを明確に認識している人には、「いま自分の肉体は死につつあるが、霊体は生きている」ということが分かります。

 しかし、霊体と肉体との区別がつかない人は、肉体ではなく霊体が考えているのに、「自分はまだ生きている」と信じ込んでいるのです。これが重大なポイントです。これは、戦後の唯物論教育と重ね合わせて考えなくてはならないことだと思います。

 彼らには、ベッドの近くにいる肉親たちが、自分に呼びかけている声も聞こえています。また、自分では返事をしているつもりでいるのです。しかし、口は動かず、「自分の返事が肉親には聞こえないらしい」というのが非常にもどかしくて困っているのです。

 この段階において、医者がメスをふるい、心臓や肝臓などの臓器を取り出して移植を待つ患者に移植するとどのようなことが起きるでしょうか。死に直面している人は非常な驚愕を覚えるのです。

 「臓器をもらえばまだ生きることができるという思いは、よく分かるけれども、まだ死んでいない。人の臓器を取ってまで生き延びようとするのは、やはり、生への執着ではないのか。それは一種の欲望、あるいは、この世的、唯物的な生存への執着ではないのか」と言わざるをえないと思います。

 「この世でまだ生きたい」と思う人の執着「まだ死にたくない」という脳死状態の人の執着とが重なるとき、ここで完全に憑依現象が起き、霊障の状態が発生するということを知っていただきたいと思います。

 現在の日本のように唯物論がはびこっており、「霊もあの世もない。宗教はみな迷信ででたらめである」というような論調が主流であるところにおいては、残念ながら「愛の行為のようにも見える臓器提供であっても、ほんとうの意味において救いにはなっていないことがある」ということを、知らなくてはならないのです。

 もう一つ言っておかねばならないのは、「魂の機能において、脳も重要な中枢の一つではあるが、心臓もまた非常に重要な中枢である」ということ。ここに心というものの正体が潜んでいます。

 臓器は単なる物質ではありません。それは意識をともなっているものです。臓器にも霊的意識があるのです。

 人間の魂はアメーバのようなゼリー状のものが一様に存在しているのではありません。魂は複合体として二重三重に出来ており、魂という全体的統一の霊体のなかには心臓の意識や肝臓の意識といった臓器の意識もあります。魂は複合体として存在しているのです。

 心臓は主として人間の意思や感情をつかさどる霊的な中枢です。この心臓の部分を本人が充分に納得していない段階で取り去り、他の人に移植すると、霊体の一部も他の人に移植されることになります。

心臓移植は古代の宗教儀式の「復活」 

 本人が自分の死を承認していない段階において、その心臓を他の人の身体に移植すると、霊的には いわゆる憑依現象というものが起きます。

心臓移植により拒絶反応

 その人の魂は、自分の心臓に吸い寄せられるようにして、新しい肉体に移動してしまい、憑依現象が起こるのです。

 これは、移植を受けた人の魂とその人に憑依した魂とが共存状態に入ることを意味しています。その結果、拒絶反応などが起きるのです。過去、臓器移植にともなって拒絶反応が起きた例が数多く報告されています。

臓器移植で連鎖した「悲劇」

 さらには、臓器移植にともなう憑依現象によって、あの世への旅立ちを妨げられた霊たちは、たいていの場合、不平不満やこの世への執着などから、不成仏霊といわれる存在になっています。

 彼らは、さまざまな障り、悪い出来事を起こす力を持っているので、臓器を移植された人の家庭のなかで、次々と不幸が起きることになります。これは、古代から「祟り」といわれている問題です。いわゆる祟り霊が生じるということです。これが霊的な側面からの実態なのです。

本人が望んでいない臓器摘出が行われたら

 人間は死後、肉体を離れてあの世に旅立ちます。その際、とりあえずは、「幽界」「精霊界」といわれる四次元世界に行き、そこで生前の延長のような霊的生活をします。さらに、その一段上には、「善人界」といわれる五次元世界、いわゆる天国があります。この四次元や五次元の世界において生存している霊たちは、この世における機能をそっくりそのまま持っていると言えます。

 たとえば、彼らが自分自身を見ると、指には爪が生えていますし、その爪には半月の模様まではっきりと出ています。また、胸に手をあててみると、心臓の鼓動をはっきりと感じることができます。生前の意識をそっくり持ったまま、あの世に来ているということです。

 したがって、死の直前に心臓をくり抜かれた人が死後どうなるかというと、心臓の部分が空洞になったかたちであの世に来ている状況になります。これは、意識としても非常に情緒不安定な状況にあるということです。彼らはあの世での最初の生活にとまどいを覚え、非常に困っています。

 あの世での生活が長くなると、しだいに霊体としての生活にもなじみ、地上界のことを忘れ、肉体意識から遠ざかって霊の意識へと変化していきます。そして、上級霊になればなるほど、肉体的意識から離れた「思い」だけの世界に入っていきます。しかし、通常の人間の場合は、死後数年ぐらい肉体意識とほぼ共存するようなかたちで霊界の生活をしているのです。

 その意味において、脳死状態における臓器移植は臓器の提供を受けた人の霊障を促進することになりますし、そうならなかった場合でも、死出の旅立ちにおいて、臓器提供者に大きなハンディを与えることになると言わざるをえないのです。

 臓器を移植された人の人格が変わるという報告が複数なされている。これは、霊的に見れば「憑依」という現象である。臓器を提供した人が死んだことを理解できず「もっとこの世で生きたい」という執着がある場合、移植した臓器と一緒に移植先の人に取り憑いてしまう。結果、臓器提供者も、移植された人も苦しむことになってしまうのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、法話「仏の教えと時代性」で、改正臓器移植法に関して次のように指摘されました。

「私も、幼い子供たちが新しい命を得て生き長らえ、社会で活躍できるようになること自体は、よいことであると思っています。ただ、人間機械論的な思想が定着したり、『どうせ死ぬのだから、臓器を取ってもよい』という安易な思想が流行ったりすることに対しては、強く反対しておきたいのです」

 私たち自身や家族が移植でしか助からない病気になったら、あるいは脳死状態になったらどうするでしょうか。後悔しない判断をするためには霊的真実を知ることが不可欠です。今、正しい霊的知識の普及と霊界の存在を前提とした医学の進歩とが急がれています。

 「シルバーコード」(霊子線といって、魂と肉体をつなぐ、銀線のようなものがあります。これが切れたときが、正式な意味における死なのです

 これがつながっているかぎり、魂の意識と肉体の意識とは完全には切れていないため、ほんとうの意味においては死を迎えていません。そのため、蘇生する可能性があります。しかし、シルバーコードが切れた段階で、再び生き返ることはできなくなります。

 したがって、「肉体機能としての死においては、医者ではない素人にも認定できる心臓停止の段階が医学的に死と認定されることが妥当ではないか」と考えていますが、「ほんとうの意味における死は、心臓停止のしばらくあとにやってくる」ということなのです。

 肉体における死の段階では、魂がまだ肉体から離脱しておらず、あの世から、先に亡くなった父母や祖父母あるいは天使たちが迎えにきて、本人を説得するという状況がしばらく続いています。そのために、お通夜や葬式という儀式があるのです。

 臓器提供を望む人は、他の人の死によって初めて臓器を得ることができます。医療技術の発達がそうした欲望を大きくしていることに問題があります。この点に関する日本の議論は、西洋の生命倫理学者が気づかない多くの大事な視点を与えてくれており、注目に値します。

 「この世は仮の世である」という仏教的観点から、臓器の提供を受ける人の執着が問題ということでしょうか。

 問題は、デカルト以降の近代社会が死はすべての消滅であるという幻想に支配されていることです。東洋の仏教は西洋の宗教に比べ、生と死に関する智慧をよりよく保ってきましたが、その智慧を拒絶したところに生命への強い執着が起こってきます。現代人は、他人の臓器を取ったり遺伝子を操作したりして、生命を引き延ばすことができますが、その結果、「死は医学の敗北」と考えられているのです。

 人間機械論は間違い

生命倫理上の論議を呼んでいる分野

 新たな生命倫理を考えていくうえで基盤となる考え方とはどういうものでしょうか。

1 人間には永遠の生命が与えられている

 第一に、人間には永遠の生命が与えられ、霊的存在としてあの世とこの世との間を転生輪廻しているという知識が大前提となる。『神秘の法』では、「人間は、長年、霊として生活しているのであり、それがほんとうの生活なのです。ただ、長年、霊として生活しているうちに、ときどき、地上の世界が進化して変わってくるので、時代が変わったときに地上に生まれます」と指摘されている。

 この「常識」が見失われ、人間機械論や医学上の唯物論が広がっているために、様々な混乱が起きているのです。

2 人は魂修行のためにこの世に生まれてくる

 生殖医療では、命の選別につながる出生前の遺伝子診断や、第三者の女性の子宮を借りて出産する代理母などの技術が論議を呼んでいる。

 人間の誕生を考えるうえで忘れてはならないのが、人は魂修行のために家族や職業、人生上の課題などをある程度計画し、この世に生まれてくるということです。先天性の重い病気や障害をあえて予定している場合もある。ゆえに、こうした生殖医療には許される限度があると考えるべきです。

3 安らかにあの世に旅立つことは人生最大の幸福の一つ

 死とは、この世での魂修行を終え、本来の世界であるあの世へと還ることにほかならない。このため、心安らかにあの世に旅立つことは、人間にとって最大の幸福の一つと言ってよい。

 脳死臓器移植が問題なのは、脳死状態の提供者が手術の痛みに驚愕し、「安らかにあの世に旅立つ権利」が大きく侵害されるためです。

 これからの時代、医療はますます進歩していくことが予想される。それを支え、正しい方向へと導くことができる霊的な知識、宗教的真理こそが、これからの時代の生命倫理を考える上での基礎となるでしょう。

 他人の死を前提とする脳死臓器移植は宗教的にも問題があるが、『永遠の生命の世界』「あとがき」では、臓器移植が仏教的に正しい布施として成り立つための条件として「三輪清浄」の観点から次のように指摘されました。

「臓器提供者が仏法真理を学び愛の心で与えたいと思うこと、受者も深く真理を理解しつつ、感謝すること、臓器取引に違法性や金銭対価を伴わないこと、などを前提として正しい布施が成り立つ」

臓器移植と「三輪清浄」

 死ねばすべてがなくなると唯物論的に考えている限りは、「正しい布施」とはならないのです。

 人の死に関しては、正しい霊的知識を持つことが大切です。人の死は魂が肉体を離れた時点であり、それは心臓が止まってから24時間程度経ってからということが明らかになっている。

 人の臓器を取ってまで生き延びようとするのは生への執着ではないでしょうか。それは一種の欲望あるいはこの世的唯物的な生存への執着ではないのか」と言わざるをえないと思います。

 「この世でまだ生きたい」と思う人の執着と「まだ死にたくない」という脳死状態の人の執着とが重なるとき、ここで完全に憑依現象が起き、霊障の状態が発生するということを知っていただきたいと思います。

 現在の日本のように、まだまだ唯物論がはびこっており、「霊もあの世もない。宗教はみな迷信で、でたらめである」というような論調が主流であるところにおいては、残念ながら「愛の行為のようにも見える臓器提供であっても、ほんとうの意味において救いにはなっていないことがある」ということを知らなくてはならないのです。

 難病の子供たちを救うためには、生きている人を犠牲にする脳死臓器移植ではなく、人工臓器の開発や再生医療技術の確立が望まれる。

人工心臓は脳死臓器移植に代わる医療手段

 再生医療とは一言で言えば、自分の体内から取り出した細胞を培養・増殖させるなどして、傷んだ臓器や組織そのものを再生させるもの。いわば、「自分で自分を治す」医療である。

 不治と言われている病気や怪我も治る可能性が生まれ、複雑な仕組みの臓器再生も、まったくの夢物語ではなくなりつつある。すでに皮膚や骨などの再生は実用化されており、現在、すい臓や肝臓などの再生に関する研究も盛んです。

 再生医療の研究が盛んな背景には、未知の分野への挑戦や患者救済への使命感と共に、脳死臓器移植に対する歯止めへの期待がある

 霊的真実を知らない人が魂が肉体から離れる前に臓器を摘出されると、生きたまま体にメスを入れられるのと同じような恐怖と激痛に襲われ、あの世への安らかな旅立ちが妨げられてしまう。この真実を広め、臓器移植で苦しむ犠牲者を減らさなければいけない。移植を希望するような重病の方のためには、再生医療の技術の確立が必要です。 

 再生医療は、人間の体に眠っているこの力を引き出すもの。しかし、それは科学の進歩だけがもたらすものではない。時代を超えて語り継がれる神話のなかにも、現代人が忘れ去った人体再生の神秘が伝承されてきた。人間の霊的な側面に目を向けたとき、医学は唯物論の限界を乗り越え新たな可能性が開けてくる。宗教と科学を融合させてこそ、人体の神秘の力を引き出す未来の医療が現実のものとなる。

再生医療 詳しく

再生医療のメリット

 ◎主に自分自身の細胞を使うため、拒絶反応が起きない。

 ◎自分自身の細胞が持つ再生力を活用する。

欧米では、霊的知識が不足している

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