自閉症

移りゆく自閉症の概念

 自閉症の診断は難しいとされるが、診断基準自体が、ここ数十年で繰り返し変わってきた。  

 1950年代、自閉症という概念ができてすぐのころは、両親の育て方の問題による子供の精神障害とされていた。これが19860年代には脳の障害であるとされるようになり、1980年代にはアメリカ精神学会によって診断基準が作られた。1987年に、自閉症は子供に限らない「生涯にわたる障害」であると診断基準が変更されている。

 1990年代には、自閉症は「広汎性発達障害」という概念の中の一つに位置付けられた。2013年以降は、重度の自閉症から軽度の自閉症までが連続的に繋がっている「自閉症スペクトラム障害」という概念が新しく設けられ、以前は区別されていた「アスペルガー症候群」などと同じ診断名が出されるようになった。

 このように、自閉症はかなり広義になっている。実際には、医学的にも、うまくつかみきれていない概念となっているようです。

 「自閉症の診断を受けた人に、特有の神経回路の状態がある」ということは、医学的にも重要な発見です。しかし、「特有の神経回路の状態がある人は自閉症である」と言えるのでしょうか。

移りゆく自閉症の概念

 「自閉症の原因は脳にある」と聞いたことがあるかもしれない。しかし、ハーバード大学出版の発行する雑誌Cerebral Cortexに掲載された、イスラエルの研究者シャロミ・ハー氏らの論文によれば、自閉症の人の脳と一般的な脳とでは構造にほとんど違いがないことがわかった。

 これまでの研究では、自閉症の人の脳は通常の脳と比べて、脳梁や小脳、扁桃体や海馬などの構造に違いがあると論じられてきた。しかし、シャロミ氏らが自閉症の人約500人と対照グループ約500人の脳データを調べたところ、有効な違いは見られなかった。500人規模の研究というのは、自閉症研究では非常に大規模だというが、これまでの研究は対象者の数が少なすぎて、科学的な信頼性が低かったのだという。この論文の結論は「脳」に原因を帰す態度を見直すきっかけになることでしょう。

 

自閉症の症状

 「自閉症」の症状には、他者との人間関係を築けなかったり、強いこだわりによって日常生活を送ることに支障が出たりするものなどがある。また、計算や言語力、記憶力で卓越した能力を持ちながら、平凡なことができなくて苦しむ例もある。これらの原因が「脳」にあると考えられていたために、薬物療法なども試みられてきた。

 もちろん、脳の構造が同じでも、自閉症の人が他の人と違う脳の使い方をしている可能性がある。しかし、自閉症を理解する前提として、人間の意識や心の本質は、あくまで体に宿った「魂」であり、脳は情報のコントロールセンターに過ぎないことを知る必要がある。

 周囲の人が自閉症の人の行動をどう受け止め、どう付き合っていくべきなのか困惑するケースも多い。ただ、周囲の人と同じ行動を取らないことをもって、「異常」と捉えたり「障害」というレッテルを貼るのではなく、魂が持つ「強烈な個性の現れ」であると考えることが第一歩となる。

 参考

 自閉症の子供の中には、暴れたり、家を飛び出したりと、抑えが効かなくなるケースもある。こうした行動については、自分の思いや考えを相手に伝わるように上手く表現できないことの苦しみを表している可能性もある。また、家族にとっても、強い個性を持った子供を育てることは、実は魂の器を広げる修行につながる。

 霊的な視点を持ちながら、人と違った個性や長所を認めることが、「自閉症」とされる人々を適切に理解し、支援するための前提となる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著作『じょうずな個性の伸ばし方』の中で、アインシュタインなど歴史上の偉人にも自閉症などの症状がみられることを挙げ、「ある方面への天才性が、他の機能を閉じ込めている場合もあります」と説いている。霊的な視点からは、自閉症は魂の個性の現れと見ることができる。

 大人数の管理からはみ出すような個性の強い人材は、往々にして切り捨てられがちです。しかし、歴史を振り返れば、世の中を変えてきた偉人たちは、同じ時代の人々には理解されにくい強い個性を持っていた。自閉症を安易に病気と考えるのではなく、個性の現れとして生かし合うことで、時代を先へと進める変化を生み出すことができる。

 医者から自閉症児と言われるような子は、強い個性を持っている。しかし、現状を打ち破って変化させるのは、強い個性を持った人間である。強い個性を持っている人間こそが世の中を変えていくのです。

 そういう人は、現代の管理社会において普通のサラリーマンとしては生きにくいかもしれないが、もちろん病気でもなんでもないし、脳に問題があるわけでもない。

 世の中にはいろいろな人がいる。その子の親は、「うちの子は強い個性を持っているのだ」と信じてあげてほしい。そうすれば、その子の個性はよいほうに伸びていく。人間は「信仰心の力」で変わってくるものです。

 大川隆法総裁は、『心と体のほんとうの関係。』で以下のように説かれました。

「世の中には、研究対象を、いろいろと分類し、分析している研究者がたくさんいます。そういう研究者がいること自体はよいことですし、その姿勢自体は、科学的な態度であり、かまわないと思います。ただ、何であれ、色眼鏡でもって見ると、そのように見えてしまい、それが真実だと思い込んでしまう点が、どうしてもあるのです。たとえば、医者から「自閉症だ」と言われたら、そのような気がして、もう、それ以外には見えなくなることがあります。自閉症は、「障害であって病気ではない。障害は病気ではないのだ」と言われてはいますが、同時に、「人間としての機能に何か問題がある。脳の一部に何か問題があるのだ」と言われてもいます。しかし、これは想像にすぎません。医者は、ほんとうのことを何も分かってはいません。「変な行動や奇怪な行動をするので、とにかく手がかかり、親や教師を困らせる」という状態の子供を、医者は自閉症と呼んでいるようですが、この定義はあまりにも広すぎます。「こういう子供が管理社会で生き残るのは、きついでしょう。将来、サラリーマンになるのは難しいですよ」と考えるのは、そのとおりかもしれません。なかなか難しい場合もあるでしょう。ところが、よく見ると、大人になって活躍している人たちは、実際には、みな〝変な人″です。管理しやすいタイプの人は、部下として使うにはよいでしょうが、世の中で、新しいことを始めるような人は、変な人ばかりです。『えらい人はみな変わってはる』という本を出した人もいるぐらいです。エジソンだって変わっているし、坂本龍馬だって変わっているし、私だって変わっています。一定の枠のなかに当てはめられたら大変なことですから、医者の話をそのままでは受け入れられないのです。特に、日本の社会には、他の人と比べて変わっている人、強い個性を持っている人を弾く傾向があります。他の人と同じでなければ駄目なのですね。しかし、強い個性を持っている人間が、実は世の中を変えていくのです。現状を打ち破って変化させるのは、強い個性を持った人間なのです。医者から自閉症児と言われた子の親は、それで悩むのではなく、「うちの子は強い個性を持っているのだ」と信じてあげてください。そうすれば、よいほうに出てきます。その変な子たちのなかに、世の中を変えていく力を持っている人がたくさんいるのです。単に他の人と比べて変わっているだけなのに、それを悪いことのように言う価値観は改めるべきです。世の中には、いろいろな人がいるのです。人間は「信仰心の力」で変わってくるものなのですから、どうか、その子の魂に力を与えてあげてください」

 

自閉症をどう見るかは、人間をどう見るかによって変わる

 「人間の心は脳の中にある」と考えれば、脳に異常があれば、心にも異常があることになる。一方、宗教的に人間をとらえると、人間の本質は「魂」であり、心は魂の中核部分である。肉体は魂を宿す乗り船のようなものであり、脳はあくまでコンピューターのようなものにすぎない。そして、人間の魂は障害のあるなしに限らず、神仏と同じ性質を宿しており、磨けば光るものであるのです。支援を行う際は、「本来、人間の魂は完全で、仏と同じ性質である『仏性』を持っている」という前提に立ち、「障害があるからできない」というレッテルを貼らないようにすることだという。人工知能で脳の回路の状態が分かったとしても、その人の可能性までは見抜けない。「唯脳主義」に基づいた医学の限界に目を向ける必要がある。

 ダウン症や自閉症とは違うが、アスペルガーの子供も、「障害」と呼ばれる特徴や個性を持って この世に生まれてきた。それでも見事に生ききる、あるいは、そうした特徴があるからこそ、人と違う発想や能力を生かして大きな仕事をしていくことは十分に可能である。そして、周囲は彼らを先生役として、人間にはいろいろな違いがあることを知り、だからこそ助け合いが大切なのだということを学ばせてもらっている。そうした観点に立つとき、「障害」や「アスペルガー症候群」は、私たちの目に表面的な理解とは違った意味を帯びて見えてくる。

参考

 大川隆法総裁は、著作『じょうずな個性の伸ばし方』の中で、アインシュタインなど歴史上の偉人にも自閉症などの症状がみられることを挙げ、「ある方面への天才性が、他の機能を閉じ込めている場合もあります」と説いている。霊的な視点からは、自閉症は魂の個性の現れと見ることができる。

 大人数の管理からはみ出すような個性の強い人材は、往々にして切り捨てられがちです。しかし、歴史を振り返れば、世の中を変えてきた偉人たちは、同じ時代の人々には理解されにくい強い個性を持っていた。自閉症を安易に病気と考えるのではなく、個性の現れとして生かし合うことで、時代を先へと進める変化を生み出すことができる。

参考

 仏教の修行も、キリスト教の修道院での修行も、見方によれば、ほとんど「自閉症のすすめ」のようにも見えると思います。

 その意味では、宗教的に見ると、決してそれほど悪いことではないのですが、この世的に、ほかの人と一緒に生活するという場合には、問題があるような言い方をされるわけです。

 しかし、仏教では、むしろ、人とほとんど話をしないことが修行なのです。放っておけば、人間は他の人と話をしてしまいます。そこで、修行者は、「人と話をしていると、雑念がわいてきて、この世のことばかり考えてしまう。だから、人と話をしないようにしなさい」と言われます。そして、何ヵ月も人と話さずに、自分の心の内だけを見つめます。それが修行なのです。

 キリスト教も同じです。修道院では、「人と話さないように。話してはだめです」と言われます。話すと徳が失われるのです。そのため、修道士たちは、話をせずに、いろいろなことをやっています。

 霊的に自分の内を見つめようとすると、どうしても静寂が必要であり、人と離れた場所で、自分独りにならなければいけない面があるのです。

 自閉症と同じではないかもしれませんが、いわゆる引きこもりについてのテレビ番組を観ると、引きこもりは宗教家がやりたくなることではないかと思います。部屋に引きこもり、瞑想をしているような生活を、宗教家は「いいですね」と感じるでしょう。宗教家の生活は普通そのようなものなのです。

 ただ、仏教では、釈尊が修行所をつくった場所を見ると、景色のよい山の上など風光明媚な所が多いのです。霊鷲山もそうですし、石窟寺院なども下の景色が見える見晴らしのよい所にあります。そのような工夫をしていたのです。その意味では、もう少し健康的だったと言えます。

 ところが、日本のある禅寺では、面壁といって、壁に向かって坐禅をします。坐布の上に坐り、数十センチほど前の壁の板を見ています。これは非常に危ないスタイルです。遮断された狭い場所で、そういうものを見ていたら、精神病になるおそれがあります。

 釈尊は、きちんと外の景色が見える場所で禅定をしていました。それは人間の本質に合っています。外の景色などを見ながら禅定するのはよいのですが、何もない壁の板を見つめていると、精神がおかしくなることもあるのです。

 おそらく、達磨大師あたりで修行がそうなったのだと思いますが、狭い所で面壁などをやるのは危険です。

 静かな所で心を清めることは大事ですが、ある程度、目の保養になるかたちでやるのがよいのです。

 自閉症も引きこもりも、この世的には、いろいろな言われ方をするでしょうが、よいところがあればそれを伸ばし、悪いところについては、できるだけ人に迷惑がかからないように考えればよいのです。

 自閉症や引きこもりといっても、宗教の世界では、それに似たことを一生懸命にすすめられ、苦しんで修行している人が大勢いるのです。静かにして心の内を見つめないと智慧が出てこないので、そういう瞬間が必要なのです。

 自閉症や引きこもりは、他の人からは変に見られることもあるかもしれませんが、その人のよさを認めてあげて、よいところを引き出し、悪いところ、人に迷惑がかかるところは、できるだけ少なくしていくことです。

 あとは慣れの問題もあります。苦手なことでも、場数を踏めば慣れるので、やっているうちに怖さがなくなるのです。

 だれであっても、たいてい、よそから見ているほどうまくはいっていないものです。だれもが悩みを持っているものなので、自分の悩みをあまり強く思いすぎないことが大事だと思います。

参考

努力すれば人間は変わる

 自閉症といわれたとしても、ほんとうに病気かどうか、疑ってみてもよいのではないかと私は思います。

 医者はよくレッテルを張るのですが、レッテルを張って分類すると、それで終わったような気になります。

 また、レッテルを張られた人も、自分が何かに分類され、「私はこの病気なのだ」と思うと、それですっきりして、納得してしまうのです。

 しかし、医者が何と言おうと、やはり、人間は人間として生きていかなければならないのです。何かレッテルを張られ、それで解決したような気になってはいけません。

 宗教による救いの対象になるような人も、医学的に分類すると、いろいろと病名がつくこともあります。そして、それがほとんど治らないような言い方をされることもあります。

 しかし、「そんなことはないでしょう」と思います。この世的には、そのように見るのかもしれませんが、人間は変わらないのであれば、私が人々に説法をする意味がなくなります。

 医学的にはいろいろな言い方はあるでしょうが、やはり、努力すれば人間は変わるものなのです。そう思わなければいけません。

 心に関する病気というのは、程度や傾向は違いますが、多かれ少なかれ、だれもが持っています。したがって、それを分類して、それで済むものではないのです。

 自分に「こうしたい」と思う気持ちがあるのならば、努力して、その方向に一歩を進めていくことが大事です。

 人と面談したりするのが苦手という人は世の中に大勢います。しかし、ある程度、場数を踏めば、慣れて楽になります。苦手なことでも、あえてやってみれば、恐怖心がなくなることもあるのです。

参考

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