国家のモデル

 減税や規制緩和に対しては、「格差が広がる」という反発が必ず出る。それをトランプ大統領は、「ならばお互い助け合えばよい」という「騎士道精神」で乗り越えようとしている。

 補助金が膨らんだオバマケア(医療保険改革)を廃止する一方、教会などへの寄付を課税対象から外す制度を拡充するなどして「小さな政府」をつくろうとしている。

 日本は社会保障が肥大化した「大きな政府」路線を突き進み、このままでは消費税20%、30%への道が避けられない。

 ところで、宗教などの非営利組織が福祉を担い、「人間を変え、能力や誇り、自立を取り戻す」役割を果たすと予言した。

 晩年に松下政経塾を創設し、さまざまな政治提言も行った松下幸之助氏は、「今の政治には、愛や慈悲が足りない」と語っていた。一見、一人ひとりに優しいように見える福祉国家は、実は冷酷で非情なものだとあきらめ、少しでも「愛と慈悲の国」にならなければならない。

 経営学者のドラッカーは1969年の時点で、『断絶の時代』で「福祉国家は失敗した」と断言していた。宗教などの非営利組織が福祉を担い、「人間を変え、能力や誇り、自立を取り戻す」役割を果たすと予言した。

 「いかに立派な仕事をしていても、福祉国家なるものは、せいぜいが活力と創造性に富む保険会社並みの存在にすぎないことが明らかになった。誰も保険会社のために命を投げ出すことはしない。(中略)福祉国家に期待できるものは凡庸な成果だけである。それさえ得られないことのほうが多い。民間の保険会社なら許しえない仕事ぶりである」

 そして、「19世紀に家族から政府に任されるようになった仕事の数々を、非政府組織に委ねなければならない」と提案した。

 非政府組織というのは、宗教団体や民間の病院、赤十字、ボーイスカウト、ガールスカウトなどをいう。

 ドラッカーは、福祉国家の次の国家モデルのイメージをはっきり持っていた。その後の著作で、政府でも企業でもない非営利組織が、「人間を変える」ことを目的とした「人間改造機関」としてのミッションを果たすべきだと訴えた。

 1995年の『未来への決断』では、このように述べている。

 「今日必要なことは、自立や能力や責任を生み出すように、福祉の方向づけを変えることである。すなわち、福祉は機能しうる。しかしそれは『貧しい人たちにとって必要なものは金である』という考えから、『貧しい人たちにとって必要なものは能力である』という考えに頭を切り替えたときである」

 「福祉を行うべき理由は、今日の福祉国家が当然のこととしているように、能力のない不運な人たちには、金銭的な支援を受ける権利があるということであってはならない。そのような人たちには、能力や誇りや自立を取り戻す権利があるということでなければならない」

 ドラッカーは、今までの福祉国家は「依存、無能、自己嫌悪」をもたらす援助だったと厳しく指弾している。そのうえで、「貧しい者が自らの能力に自信をもち、自らを発展させる力を高めることこそ、豊かな者、すなわち民主主義国家の利益にかなうことである」と力説した。

 具体的にはキリスト教会やその他ボランティア団体が、聖書の講座を開いたり、マイノリティの子供に九九を教えたり、高齢者のリハビリと社会復帰を手伝ったりすることなどが、「自らを発展させる力を高める」活動にあたる。

 新しい国家モデルは、この「自らを発展させる力を高める」ような方法や考え方を教え、導くというところに大きなカギがあるということです。

 

新しい国家モデルは尊徳精神に基づく

 二宮尊徳の「勤・倹・譲」の徳目は、まさに「人間を変える」思想である。

 この「能力や誇りを持ち、自立した人間に変える」「自らを発展させる力を高める」という点では、日本は明治・大正の小中学校の教育で成功した経験がある。

 当時は、国民一人ひとりが勤勉に努力し、近代産業を興し、欧米に侵略されない軍隊をつくるという共通の目標があった。その模範となったのが江戸末期の農政家、二宮尊徳だ。学校では「二宮金次郎のように家が貧しくても、がんばれば成功できる」と教えられた。

 尊徳の銅像が校庭に建てられたのはおなじみだが、小学校唱歌を通しても、尊徳精神が讃えられた。

 「骨身を惜しまず 仕事にはげみ 夜なべすまして 手習い・読書 せわしい中にも たゆまず学ぶ 手本は二宮金次郎

 家事大事に、費(つい)えをはぶき 少しのものも 粗末にせずに ついには身を立て 人をもすくう 手本は二宮金次郎」

 二宮尊徳は農家に生まれながら、小田原藩家老・服部家の財政の立て直しや、荒廃していた同藩の分領の復興に成功した。その手法が農村経営のお手本となり、「報徳仕法」と呼ばれた。

 二宮尊徳が言うところの「徳」はふつうの意味とは異なる。人や物質、自然の中に備わる良さや取り柄、持ち味、長所、可能性だという。

 哲学者のアーレントが主著『人間の条件』で、「人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」と述べていることに通じる考え方である。

 二宮尊徳の思想は「勤・倹・譲」の3語に集約できる。

 天地人はそれぞれの徳があり、人はその恩を受けて生きている。それに報いるためには、一人ひとりが勤勉に働き、各人の良さを発揮すべきである(「」)。

 その結果得た収入をコツコツと貯えることで豊かになることができる (「」)。

 生活に困っている人がいたら、その人の良さを引き出し、世の中に役立てるよう手助けする。その際、必要ならお金を貸してあげる(「」)。

 怠けや奢り、むさぼりの心に打ち克って、「勤・倹・譲」を身につけた人間に成長することを「心田開発」と呼んで、最も重視した。

 「そもそも我が道は、人々の心の荒地を開くのを本意とする。一人の心の荒地が開けたならば、土地の荒廃は何万町歩あろうと心配することはないからだ」と語っていた。

 つまり、二宮尊徳がやったことは、単なる農村経営やその復興ではなく、人間の「心の復興」だった。それができれば、荒地の開墾などいくらでもできるという確信があった。

 新しい国家モデルを考えるとき、この尊徳精神は十分通用するのではないでしょうか。

  今のトヨタ自動車を生み出した豊田自動織機の豊田佐吉や真珠製造の御木本幸吉などは、尊徳精神に強い感化を受け、事業を発展させたのです。

 詳しくは

大減税で「譲」の文化の復活を

 尊徳は、「『譲』に努めなければ人ではない」と言うほど、この徳目を重視していた。「譲」は、簡単に言えば「他の人に分け与えたり、将来のために投資したりすること」。公的な年金や医療保険のない戦前には、ごく当たり前に実践されていた。

 親族や地域の中で成功した人が出れば、お年寄りや生活に困った人たちの面倒を見ていたし、地域に勉強が特にできる子供がいれば、親に代わって援助した。細菌学者の野口英世や、首相・外相になった廣田弘毅なども苦学生で、地元の篤志家の支援を受けて世に出た人たちだった。

 戦後すぐの貧しい時代も、「譲」は息づいていたようだ。保守論客の大御所の渡部昇一氏は、酒田の本間家や鶴岡の酒井家など江戸時代からの旧家がお金を出した荘内育英会から奨学金をもらって、東京の上智大学に通ったという。2ヵ月に1回、荘内出身で東京に住む大学教授の家にもらいに行く仕組みで、人間的なふれあいがあるものだったという。

 この「譲」の文化がなくなったのは、戦後、増え続ける福祉予算をまかなうため、所得税や相続税に「累進課税」が導入されたためだ。最高税率はそれぞれ93%(住民税を含む)、75%という時代もあった。これでは、貧しい人たちを支援しようにも難しい。

 ドラッカーは『新しい現実』で、「税制による所得再配分の試みについては、もはや寸時の執行猶予も与えるべきではない」と述べている。福祉国家が失敗した以上、累進課税による所得再配分も終わらせるしかない。

 所得税は10%程度の一律の税率、相続税はゼロが望ましい。農家・学校への補助金を基本的にやめ、健康保険を民営化し、後述の公的年金の大改革などを実行すれば、農水省や文科省、厚労省の廃止も見えてくる。

 こうした大減税が「譲」の文化を復活させることができれば、ドラッカーが期待したように非営利組織は「人間を変える」ミッションを果たせる環境が整う。

 やはり福祉は、政府を通して名前も顔も分からない人たちを助けるよりも、家族や親族、地域など自分の周りの顔の分かる範囲で助けるほうが、愛情が湧くし、「人道的」です。

 二宮尊徳は、「徳」を生かし神仏に報いる道として、「勤勉に働き、倹約し、弱者を助ける」という「勤・倹・譲」の徳目を唱えた。この「譲」の精神に基づいて日本の社会保障を改革するとどうなるでしょうか。

 今の日本の社会保障は、医療も年金も介護も政府が「全部面倒を見ます」という体制になっている。しかし個人や家族、企業などが「譲」の精神で助け合うことはもっとできる。

 つまり、政府が弱者を救済する「福祉」と、困窮や大病などのリスクをカバーするため民間企業が提供する「保険」と、個人として家族の生活を支える「貯蓄」をきちんと分けるという改革です。

 年金で言えば、老後の生活が厳しくなった人に政府が生活保護を給付するが、それ以外の人は民間の年金保険を買ったり、貯蓄したりして備えるという、当たり前の姿に戻れば、政府の重荷を軽減できる。

 個人や家族、企業、政府がそれぞれ本来の役割を果たすことで、「小さな政府」を実現できるのです。

 

「現代の秩禄処分」は可能か

 

 「巨大な福祉国家」の最大の部分は年金制度です。社会保障費計115兆円のうち半分の56兆円を占める。

 政府を通して、現役世帯から高齢世帯に500万円とか1000万円の無理な「仕送り」をしている状態なので、尊徳の「倹」の徳目に反している。

 もちろん、この制度を甘い見通しとごまかしの説明で築きあげた政治家や役人が悪い。

 仕事はしていないが、政府からの給料をもらっているという意味では、明治維新政府成立後すぐの士族(元武士)や華族(元藩主など)の立場とほとんど同じと言っていい。

 そのため、公的年金の大改革をするとなったら、その方法は、士族などの給料支払いを取りやめた1976年(明治9年)の「秩禄処分」に近いものになるであろう。

 武士(士族)らはもともと藩から給料をもらっていたわけだが、明治4年の廃藩置県後は、明治政府がその支払いを肩代わりすることになった。藩がなくなったからと言って、藩主や武士をいきなり「無職」にするわけにもいかないので、「激変緩和措置」として導入されたものだ。

 しかし、その金額は政府財政の3分の1を占めた。明治維新の目的は、欧米に負けない産業を興し、軍備を整え、侵略を防ぐことにあった。この大目標を実現するためには、元武士らへの給料はどこかで打ち切るしかない。

 そこで明治政府の首脳たちは思案の末に、士族らに数年分の給料に数%の利子をつけた「金禄公債証書」という国債を発行し、「これで何とかがんばってくれ」ということになった。

 士族の多くは、サムライだけあって近代国家建設には大賛成だった。明治政府のこの措置を受け入れ、農家や商人に転じたり、教育者になったりして、自立した生活を築いていった。一方、明治政府はこれでやっと「富国強兵」のための財源を確保できたのだった。

 

「現代の秩禄処分」の3つの段階

 では、この「現代の秩禄処分」、具体的にはどうするか。

(1)自分の収入があったり、老後資金に余裕があって生活を自衛できる層、あるいは、扶養してくれる家族がいる層は、明治期の士族たちのように自立の道に入ってもらう。

 その人たちに対して、政府は高齢者が今まで払い込んだ年金保険料分の金額について「年金国債(永久国債)」を発行する。永久国債は、政府に対して償還を求めることができない国債で、政府の「株式」を発行することに極めて近い。

 通常の永久債や永久国債の場合は、毎年、固定した利息がつくが(利息1%なら100年で元が取れる)、年金制度の破たん処理という性格上、難しい。

 ただ、国民の側のメリットとして、以下の3点がある。

 転売することができるので、市場で当面の資金を手にすることができる。

 子孫に有利な条件で相続できるようにする。

 将来、政府が黒字財政になれば、償還に応じることとする。

 政府が年金事業に失敗した「企業」だとして、その「再建」ができれば、政府の「株主」としてメリットが大きくなるという仕組みだ。

(2)この「年金国債」による政府の「再建」をより積極的に進めるのが、「国家未来事業債」の枠組みである。

 資金的に余裕のある富裕層には、これまで払った年金保険料に上乗せして「出資」してもらい、「国家未来事業債」に組み替えるというもの。例えば、年金保険料を計3千万円払いこんでいたある家庭が、追加して2千万円を出し、合計5千万円の未来国家事業債をもらうという具合だ。

 公的年金の積立金は約130兆円ある。ここに追加して「出資」してもらうことで、リニア新幹線や大都市改造など大規模なインフラ投資を展開することができる。この現代の「富国強兵」によって、経済成長を加速させ、税収を増やし、政府の「再建」を早めるというプランだ。「国家未来事業債」については、通常の永久国債のように利息をつけることもあり得るだろう。

(3)最後に、収入や老後資金が十分なかったり、扶養してくれる身寄りがない層について触れておかなければならない。

 本来、こうした高齢者こそ、政府が助けるべき人たちで、生活保護に近い形の支援をすることになる。ただ、リタイア後も健康が許すならば仕事ができるよう、さまざまなサポートを惜しむべきではない。この分野は、ドラッカーが指摘しているように、宗教団体やボランティア団体が最も活躍できるところである。

 以上、3つの枠組みが「現代の秩禄処分」の大改革である。

この結果、現役世代は「簡単には政府の世話になりたくない」と、貯蓄を増やしたり、民間の年金商品を買ったり、家族・親族との絆を強めるなどして自分で備え始めるだろう。

 政府としては、最低限の民間の年金保険に入ることを義務づけ、老後にまったく備えがない家庭をできる限りなくしていく対応も必要だ。

 この「現代の秩禄処分」の大改革は、制度的な問題よりも、国民の持つ「勤・倹・譲」の徳目や、「能力や誇りや自立」を引き出し、奮い立たせることのほうが重要となるだろう。

 

二宮尊徳の「心田開発」や「隼型」宗教がこれからのグローバル・スタンダード

 二宮尊徳の「勤・倹・譲」の徳目は、欧米的な文脈で言えば「セルフ・ヘルプの精神」ということになるが、それだけでは十分ではない。

 大川隆法総裁は、前出のザ・リバティ2014年7月号の論考「未来への羅針盤」でこのように述べている。

 「でも本当は、セルフ・ヘルプで止まってはいけないのです。そこから、公共心を持って、他の人たちを発展させ、押し上げていく努力をするように、自己成長を目指さないといけません。『セルフ・ヘルプから、さらにもう一段偉大な自己となって、周りの人たちを助けられる自分になりましょう』というところまで押していかないといけないのです」

 もちろんキリスト教圏には、カーネギーやロックフェラーらが「稼いだお金を世の中にどう還元するか」を人生の一つの目標にしたように、富裕層に根づいた寄付文化がある。ただ、ドラッカーが強調したように、「自らを発展させる力を高める」教育の機能については、十分ではない。その意味で、人々を「勤・倹・譲」を身につけた人間に成長するよう教え導く尊徳の「心田開発」のような考え方が、これからの国家のあり方や資本主義のグローバル・スタンダードになるのかもしれない。

 大川総裁は法話『宗教のかたちについて』で、幸福の科学の教えの特徴をキリスト教的な他力信仰が強い「猫型」、仏教のように自力と他力の両方が組み合わさる「猿型」と比較しながら解説した。

 「幸福の科学では、この世での成功の仕方、えさの獲り方も教えています。無常、苦、無我から、ただただ避難し、逃れるだけではなく、えさを獲っていく道、この世において積極的に生きていく道も教えているということです。そういう隼的な訓練もしているのです」

 「幸福の科学では、猫型、猿型だけではない、隼型の、獲物を獲りつつ生きていく道も教えています。これは、『現代において、この世での人間の使命を最大限に果たすためには、どうすればよいか。他の仲間たちを幸福にしていくために、どれだけのことができるか』という思想です。

 そうした繁栄の思想が入っているところに、幸福の科学の特徴の一つがあると言えます」

 幸福の科学の説く教えは「あの世とこの世を貫く幸福」であり、霊界思想が強く出ている一方で、「この世でいかによりよく生きるか」という「発展・繁栄の法」も強いのが特徴だ。「この世でどう成功するか」を教えるという意味では、二宮尊徳の「心田開発」や、ドラッカーの「人間を変え、自らを発展させる力を高める」役割に極めて近い。

 幸福の科学の場合、さらにその先の高みを目指している。

 ザ・リバティ2001年2月号の論考「人生の羅針盤」で、大川隆法総裁は、「一定の智慧を得たならば、あの世で神様になるのです」「智慧ある人は、いろいろな人を教えられるので、神様になるのです」と述べている。

 学び、教えることを通じて、神様に近づいていく道が用意されているのが、幸福の科学の教えであると言える。これもまた、これからのグローバル・スタンダードかもしれない。

経済 へ

「仏法真理」へ戻る