大人の「引きこもり」

  (幸福の科学大川隆法総裁の法話から)

組織立った動きの苦手な人が1割以上はいる

 難しいテーマではないかと思います。

 現代は組織社会であり、ストレスの多い社会です。どこも組織で動いているのですが、組織立った動きの苦手な人は、やはりいます。

 いま、どのくらいの率で「引きこもり」があるかは知りませんが、いつの時代も、最低でも一割以上は、組織に合わない人がいると思うのです。「個人でないと仕事ができない」「命じられたり管理されたりするのは嫌だ」という人は、いまでも一割以上はいるでしょうし、昔はもっと多かったでしょう。

 こういう人を組織に組み入れるのは骨の折れることだったでしょう。組織で動くという文化を積み重ねて、だんだん、そのようにしてきたのではないかと思います。

 現在、多くの人が会社に行って仕事をしていますが、これは、昔で言うと、武士が登城するようなものでしょうか。江戸時代に武士が城に行って控えていたことに近いかもしれません。しかし、長い歴史を見ると、どちらかといえば自宅を中心にして仕事をしていたことが多いのです。

 いまは、多くの人が、朝、同じような時間帯に、電車やバス、車に乗って会社へ行き、夕方、同じような時間帯に退社します。また、連休やお盆には、人々が大挙して移動します。「これと同じ動きをしたくない」という気持ちの人が出てくるのは、しかたがないのではないかと思います。

 参考

個人には自分の人生に関する自治権がある

 子供が家に引きこもって学校に行かないのは困るでしょうが、大人の引きこもりの場合は、他の人が介入し難いものがあります。個人には、「自分の人生をどう組み立てるか」ということに関する自治権があるからです。

 基本的には、「だれもが同じでなくてはいけない」という考え方は間違いだと私は思います。それぞれの人に、自分の好きな生き方をする権利があるのです。

 そうは言っても、大勢の人々が一緒に生きている以上、やはり、ある程度、共通の基盤が要ります。すべてを各人の事情に合わせることは難しいからです。

 たとえば、ある人に仕事を頼もうとしても、その人が、午後に出勤の予定であったり、半年間の長期休暇中であったりすると、他の人は仕事になりません。そういう人は、「どうぞ個人で動いてください」と言われるかもしれません。

 きちんと集団で生活をしたり仕事をしたりするのが苦手なタイプの人は、その傾向が、早ければ子供時代に出てきます。

 学校生活に向かない子供は、本質的には、一割ではなく、もっといるでしょう。もっとも、そういう子供であっても、ある程度、教えると、集団での動きができるようになるのですが、「いくら教えても嫌がるタイプが一割ぐらいはいる」と思っておいたほうがよいでしょう。

 「だれもが同じでなくてはいけない」という考え方は、「管理のしやすさ」ということを前提にしたものです。管理する側のことを思うと、その考え方は非常によく分かるのですが、本来、だれもが同じでなくてはならない理由は特にないのです。

 

画家や作家などには引きこもりが多い

 対人恐怖症で、「人と会うのは嫌だ。人前に出るのは嫌だ」という人のなかには、何か才能や目的があって、そうなっている人もいます。

 たとえば、絵画が好きで、絵を描くことに没頭しているため、人と会うのが嫌な人もいます。こういう人を人込みのなかへ引きずり出しても、よいことがないのは事実です。

 作家も、家にこもって本を読んだりすることは多いのです。そういう面のない人が作家になることは、あまりありません。

 作家になった人には、判で押したように、似たところがあります。たいてい、中学二年生あたりで数学ができなくなり、学校が嫌いになっています。そういうことが統計的に言えるのです。

 なぜ中学二年生あたりで数学ができなくなるかというと、そのころに、連立方程式を使って食塩水の濃度を求める問題などが出てくるからです。このあたりから数学ができなくなり、学校が嫌いになって、授業をさぼりはじめます。そして、家で小説などの本を読みはじめるわけです。

 高校生ぐらいになると、本を読むだけでは足りなくて、映画や音楽に没頭したりします。そういう自由人が、どうしても出てくるのです。

 このように、引きこもる人のなかには、何か才能なり目的なりがあって、そうなっている人もいます。

 世間の一般的な学校教育には、子供を将来はサラリーマンにしようとしている面があります。そのため、引きこもる子供に対して、「それではサラリーマンになれない」と言って親は怒りますが、サラリーマンにならない人もいるのです。

 本人の傾向や性格に基づいて、そうなっている場合には、多少、寛容の目で見なくてはいけないところがあるのではないかと思います。

 

人生を無傷で生ききることはできない

 そういう人が傷ついたきっかけは必ずあります。子供時代に、「親の言葉で傷ついた」「学校で友達に傷つけられた」「塾で先生に傷つけられた」など、何らかの原因があるのです。

 異性によって傷つけられる場合もあります。男性なら女性に、女性なら男性に、たいへん傷つけられたわけです。

 ただ、それはよくあることで、多くの人が体験することです。それを乗り越えていかなくてはなりません。船が航海に出れば傷むように、人生を無傷で生ききることはできないのです。

 男性が女性をデートに誘うと必ず受け入れられるのであれば、大変な世の中になります。誘った女性は、みな、ついてきてくれる。食事に誘えば食事に来る。ホテルに誘えばホテルに来る。これは大変な世の中です。誘っても断られることがあるから、男女の交通整理ができているのです。

 ところが、傷つきやすい男性は、最初に出会った女性から傷つけられたら、もう立ち直れません。現代の女性たちは言葉がきつく、相手が二度と立ち上がれないような、きついことを言う人だっています。そういう女性からパシッと言われてしまい、女性不信になってしまう男性がいるのです。

 言葉で傷つきやすい人は女性にもいます。男性には特にセクハラに当たるとは思えないような言葉であっても、それで傷つく女性がいます。

 実は、自分で自分を傷つけるようなことを考えている人が、それと同じような内容の言葉を他の人から言われたときに、感情の振幅が非常に激しくなって、こたえるようです。そういうことが原因で引きこもっていくのでしょう。

 現代は文明の利器が発達していて、引きこもっていても、いろいろな情報を取ることができるので、引きこもりが可能になっている面もあります。

 

 幸福の科学大川隆法総裁は、『青春の原点』で以下のように説かれました。

「「自分の力で生きている」と思っている人もいるでしょうが、自分一人でできることは、ほんとうに少ないのです。「他の人の力とまったく関係なく、一日を生きてごらんなさい」と言われたら、とても生きられるものではありません。自分が住んでいる家は、自分で建てたものではないはずです。お金は自分が出したかもしれませんが、家そのものは、やはり、大工さんか建設業者が建てたものでしょう。  また、家の材料は、日本の各地や外国から来たものでしょう。そして、家を建てる技術は、何十年も何百年ものあいだ、長年にわたって磨かれてきた結果、可能になったものでしょう。さらには、いろいろな人の努力の結果、水洗式のトイレが使えたり、いちいちお湯を沸かさなくても、蛇口をひねっただけで熱いお湯が出たりします。そういう便利なものがたくさんある時代に生きているわけです。それから、家を出てみると、通勤や通学で使っているバスも、自分でつくったわけではないでしょう。バスには料金を払えば乗れますが、バスをつくるのは大変ですし、バスを運転するのも大変です。また、バス会社を経営するのも大変です。電車もそうです。普通の人は、電車をつくったりはできません。電車をつくるためには、さまざまな人の力が必要です。線路を敷く土地も、大勢の人を説得して買ったのでしょう。そして、そこに線路を敷いたり、トンネルをつくったりしたのです。さらには、電気、車両、ガラスなどの発明が必要でしたし、運転技術や電車の性能の向上もあったでしょう。そのように、いろいろな人が百年以上にわたって努力した結果、現在、電車に乗ることができるわけです。そして、一日が終わるまでのあいだに、食事をし、お風呂に入り、テレビを観たり、CDで音楽を聴いたりします。「自分が一日を生きるために、いったい、どれだけの人の手がかかっているか」と、根本から考えると、おそらく、万の単位を遥かに超える人たちの力が加わっているはずです。それだけ大勢の人の努力と汗があって、きょう一日、自分が生かされているはずなのです。そうである以上、お返しをしていかなければなりません。自分もまた、その方の単位を超える人たちに対して、何らかのお返しができる生き方をしなければいけないのです。そうしなければ、もらいっ放しの人生になってしまいます。現代には、「引きこもり」と呼ばれている人たちがいます。外に出ないで家のなかに引きこもっている子供もいれば、二十代、三十代になってもまだ家から出ないで引きこもっている人もいて、問題になっています。しかし、本人は引きこもっているつもりでも、ほんとうは引きこもりになっていないのです。なぜなら、前述したように、人間は大勢の人の力を受けて生きているからです。」

 

病的に引きこもる人は何かで心が傷ついている

 非常に病的な人であって、「絵画などの芸術に打ち込む」「何かを熱心に執筆している」「瞑想などの宗教修行に打ち込む」というようなことではなく、ただただ、「人と会うのが嫌。外へ出るのが嫌」という思いで、どこかに閉じこもっている人もいます。

 そのなかには、明らかに悪霊に憑依されている人もいます。

 こういう人を社会に復帰させるには、どのようにすべきでしょうか。

 こういう人は、基本的に、成長して大人になるまでのあいだに、何かで心が傷ついていて、その傷口がふさがっていないのです。そして、その傷口から膿が出てくるような状態なのです。

 いま、BCG(結核予防のためのワクチン)の接種は非常に簡単になっていますが、昔は、それをされると皮膚に大きな跡ができ、夏になると、そこから膿がじくじくと出てきて痛かったりしたものです。

病的に引きこもる人には、ちょうど、そのような感じで、昔、心にできた傷口があり、外界と接触すると、何かのときに、その傷口が開いてしまうのです。それが嫌で、外部との接触を避けるわけです。

 

絶対的な愛が必要です

 それは、その人に対して、「絶対に悪く言わない。ネガティブ(否定的)なことを決して言わない。絶対に攻撃しない」ということです。そういう人には心を開きます。

 しかし、「相手の行動によって、ほめたり怒ったりする。どちらになるか分からない」という人には、身構えてしまい、心を閉ざすのです。

 すなわち、心が傷ついていて引きこもるタイプについては、「絶対善意の人が出てくれば心を開くだろう」ということが言えます。

 このタイプに対しては、「相手の性格なり言動なりが、現象的には、どれほど悪く見えても、『これは自分自身が既成観念でかなりやられているのだ』と思い、相手のなかから、神の子、仏の子の部分を拝み出して、相手を絶対に責めない、悪く言わない、将来を悲観しない」ということが大切です。

 「この世に生まれてきただけでも、よいではないか。命があるだけでも、いいではないか。何か意味があって、こうなっているのだろう」と思い、相手を排斥しないで受け入れる人が出てくると、その人に対しては心を開くようになるのです。

 

生きていくための力を身につける

 ここで考え方を整理しておきましょう。

 たいていの人は組織立った動きができ、組織の一員として仕事ができるので、そういう目で見ると、引きこもる人のことが、「明らかに異質で、おかしい」と思えるかもしれません。

 しかし、「いや、それは別におかしくないのだ。もともとは、そんなものなのだ」という思いを持たなくてはなりません。

 現代社会は、組織立った動きを嫌がる人を、ある程度、仕込んで、他の人たちと同様に動けるようにしてきたのです。しかし、「どうしても従わない人も一部いるのだ」ということは知っておいてください。

 引きこもる人のなかには、何らかの方面で自己実現を目指していて、そのために他の人と距離を取りたがる人もいます。その事情を俗世の人は理解できないことが普通なので、その人の周りの人は、「世の中には、こんな人もいるのだ」と思ったほうがよいのです。

 また、病的な意味で他の人と接触できない人もいます。そのなかには、霊障と思われる人もいます。

 そういう人に対して、絶対に悪意を持たず、悪いことを言わずに接することのできる人が出てくれば、その人は心を開くでしょう。

 そんな人が出てこなかった場合は、おそらく、その人の世話をするのは身内ぐらいしかいないと思います。

 完全に引きこもって、母親など特定の人以外とは接触しないような人は、身内のだれかに対して無言の抵抗をしている場合がよくあります。何か親子の問題なり兄弟の問題なりがあるのだと思われます。

 そういう人は、母親などが生きていて世話をしてくれているあいだは、引きこもりを続けるかもしれませんが、世話をしてくれる人が死んだときには、やはり自立せざるを得なくなります。やがて、そういう時が来るでしょう。

 引きこもりを事前に防ぐには、どうすればよいかということですが、子供時代に、ある程度、自立訓練をしておくことが大切でしょう。社会に出て自分で生きていけるようにする訓練を早めに開始しておくことです。

 現代社会は管理社会であり、ストレスの多い社会なので、潰れてしまう人がいても不思議ではありません。

 したがって、そのなかで生きていくための力を身につけることが必要です。訓練をして、“黴菌”に勝つ力を身につけなくてはなりません。世の中には、黴菌に対する免疫がなく、抵抗力のない人もいるので、「免疫をつける」ということを考える必要もあるのです。

 

引きこもるかどうかは、最後は各人の問題です

 繁華街などにホームレスの人がいることもありますが、「昔は、仏教の出家修行者も、あんな感じだったのかな」と思うと、そういう人を責める気が起きてこないものです。

 その時代の価値観に合わない人もいますが、価値観の多様性は認めなくてはいけません。それぞれの人に、それぞれの人生修行があるのであり、他の人が窺い知ることのできないところもあるのです。

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