障害者に生まれたのは?

 魂が悪しきものというわけではなく、「カルマの法則」による処罰というわけでもない。重度の障害を持っている子供は、実は、姿を変えた観世音菩薩であることがある。

 五体満足に生まれることのありがたさを、世の人びとに伝えるために、目覚めさせるために、いわば先生として生まれてきてくれている。愛とは何かを私たちに教えるために。

 幸福の科学の大川隆法総裁は、『心と体のほんとうの関係。』で以下のように説かれました。

「現代の日本には、豊かすぎて、〝贅沢病″にかかり、他の人を見下したり、さらに高望みをしたりして、自分が心の病にかかっていることが分からない人たちが数多くいます。私は、そういう人たちに、人間の原点に帰り、「あるべき姿とは何か」ということを考えていただきたいのです。この世には、恵まれない人たちもたくさんいます。貧しい人や病気の人もいますし、生まれつき障害のある人もいます。かわいそうだと思いますが、そのような人は、世の中の人に対して、「五体満足に生まれたり、裕福な家に生まれたりすることは、どれほど幸福なことか」ということを教える〝先生″でもあるのです。彼らは、もちろん、魂そのものが悪しきものというわけではありませんし、必ずしも、古代インドで信じられていたような「カルマの法則」によって処罰されるために、そのようなかたちで生まれたわけでもありません。豊かな社会のなかにあって、そういう恵まれない人たちは、他の人々が間違わないように、道を外さないように、心の間違いを教えてくれています。不自由な人や恵まれない人は、困っているところを見せることによって、実は、他の人々を導いてくれているのです。重度の障害を持っている子供や、病気が治らない人、生活保護から抜け出せない人など、恵まれない人は大勢いますが、そういう人たちは、実は、姿を変えた観世音菩薩であることがあります。そういう使命を持っている人が、世の中には、たくさんいるのです。そのなかには、ヘレン・ケラーのように、世の中に大きな影響を与える生き方をする人もいます。また、そこまでは行かない、もっとささやかなかたちではあるけれども、驕った人たちを戒め、目覚めさせるために、貧しかったり、苦しかったりする人生を生きている人もいるのです。いまの日本には、そのような人が先生であることに気づかない人が数多くいます。「先生として生まれている」ということを知らずに、見下したり、ばかにしたり、からかったりして、何も感じない人がたくさんいます。恥ずかしいことだと思います。どうか、「愛とは何か」ということを、もう少し具体的に、煮詰めて考えてみていただきたいのです。そして、自分にできることから実践してください」

 小さい子供に何か病気が起きるのは、一般論としては、両親の心のなかに何か問題があることが多い。

 しかし、それとは別に、何らかの使命があって、人生計画として病気になったり障害をもって生まれてくることもある。

 何らかのハンディがある人は、「自分にも、他の人々の救いの光になるという使命がある」と前向きに考えて、人生修行を尽くしていってほしい。

 大川隆法総裁は、『心と体のほんとうの関係。』で以下のように説かれました。

「一般論としては次のようなことが言えます。そういう小さな子供は家庭の状態を反映しています。いちばん近いのは両親なので、両親の心が、そのまま子供に影響します。子供の場合、本人に「自分」という自覚ができて、自己確立がなされるまでのあいだは、両親の影響がかなり大きいのです。したがって、心の問題が問われるのは両親のほうです。子供に何か病気が起きるのは、おそらく、両親の心のなかに何かの問題があります。両親の心の状態が子供の肉体に現れてくることがあるのですね。ただ、個別の問題として考えたときには、必ずしも両親などの問題だとは言えないこともあります。なぜなら、ヘレン・ケラーなどの例があるからです。ヘレン・ケラーは、幼少時の病気が原因で、目が見えず、耳が聞こえなくなりました。しかし、あれだけのハンディを克服してきた彼女だからこそ、「多くの障害者たちに希望の光を投げ掛けた」というところがあるわけですね。五体満足の人間から、「目が見えなくても、耳が聞こえなくても、足ることを知って生きなくてはなりません」と言われると、反発する人は、たくさんいます。ところが、自分の実際の経験を通して、光り輝いてきた人の言葉には、強いものがあるのです。たとえば、心臓が悪くても、「これで私は不幸になりました」と言って一生を終わるのではなく、そういうハンディを持っていながら、人並み以上のことをいろいろと行うと、それが他の人々にとって救いの光になることもあります。そのため、優れた人が何らかの障害を持って生きることもあるのです。そういう手本を見せるために、あえて重度の障害を持って生まれてきたりするわけです。昭和の時代にも、知的障害のある天才画家として、貼り絵で有名な山下清という画伯がいました。彼は高級霊で、菩薩界の人です。光の天使が、障害のある人に勇気を与えるために、ああいうかたちで出たのです。あの世の人たちから見ると、「光の天使が、あんな知的障害になってしまって、かわいそうに」とも思えるのですが、それは、もっと大きなことのためなのです。それは地上の人間には分からないのですが、「障害を背負いながら一生懸命に生きて、他の人の模範となる」ということです。結局、あなたの質問に対する答えは、「人生は一冊の問題集」という言葉に還っていくでしょう。偉い人であっても、そういう病気になることがあります。それは、人々にいろいろな生き方を見せるために、やっていることなのです。したがって、何らかのハンディがある人は、「自分も、そういう使命を持っている」と考えて、頑張っていただければと思います」

 人体というものは本当は奇跡に満ち満ちているのに、それが当たり前ではないことを人々に教えるために、障害を持って生まれる子供もいる。不自由な体で生まれたのに一生懸命に奮闘して生き切った人が一定の率でいることは、人々がうぬぼれて慢心し感謝を忘れてしまうことを戒め、生かされていること自体が奇跡であることを忘れないようにする役割を果たしているのであって、その人は菩薩行をしている。

 転生輪廻のプロセスで、今世の修行課題が与えられて体が不自由になる場合もある。しかし、人体というものは本当は奇跡に満ち満ちているのに、それが当たり前ではないことを人々に教えるために、障害を持って生まれる子供もいる。

 不自由な体で生まれたのに、一生懸命に奮闘して生き切った人が一定の率でいることは、人々がうぬぼれて慢心し感謝を忘れてしまうことを戒め、生かされていること自体が奇跡であることを忘れないようにする役割を果たしているのであって、その人は実は菩薩行をしているのです。

 大川隆法総裁は、『超・絶対健康法』で以下のように説かれておられます。

「体というものは、本当は奇跡に満ち満ちているのです。ところが、それがあまりにも当たり前すぎるため、たいていは感謝する気持ちも起きません。普通に起きることを、「当たり前だ」と思い、慣れてしまっているのです。しかし、「当たり前だと思われていることが、実は当たり前ではない」ということを人々に教えるために、人間は一定の比率で病気をすることがあります。また、一定の比率で、障害を持って生まれる子供もいるのです。『心と体のほんとうの関係。』に書いてあるように、人間は転生輪廻をしている存在なので、もちろん、過去世で体験した、いろいろな事件のつじつまを合わせるために、今世で修行課題が与えられて、そうなる場合もあります。ただ、別の面から述べると、誰もが、あまりにも当たり前に生まれて普通に生活していると、本当に、それが奇跡であることが分からなくなるため、体の機能のなかに何らかの面で標準値から外れた部分のある人、そういう障害を持った人が、一定の比率で生まれる場合もあるのです。そのように、「ほかの人を教える」という役割を持って生まれてくる子供もいるわけです。健常者、体が元気な人には、障害を持って生まれた子供などが非常に気の毒に見え、「なぜ、このような苦しみが、こういう人には与えられるのか」と思うこともあるのですが、実は、本人は菩薩行をしているという場合もありうるのです。そういうかたちで、周りの人に何かを教えようとしていることもあります。これは、ほかの例を考えると、よく分かるでしょう。例えば、「貧乏な家庭に生まれたけれども、努力し、一生懸命に仕事をして、会社を大きくした。そして、大金持ちになった」という人のことであれば、「ああ、そうか。貧乏だったのに大金持ちになったのだな」ということが誰の目にもよく分かり、そういう人は立志伝中の人物のようになります。「不自由な体で生まれたのに、一生懸命に奮闘して生き切った」という人の場合も、これと同じことであり、実は、そういう人が一定の率でいてくださることは、人々が、うぬぼれて慢心し、感謝を忘れてしまうことを戒め、「生かされていること自体が奇跡である」ということを忘れないようにする役割も果たしているのです。

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