病気には意味がある

 病気にはそれなりの理由がある。文明国における老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病なので、避けるように努力したほうがよいが、どうしても避けられない場合には、自分の「人生の問題集」に、病気という課題が入っているのだから、これを頑張って解く必要がある。 

 病気のときに人は信仰に目覚めることもあるので、それもまたありがたいことである。病気になっても、ならなくても、人は最後は必ず死ぬものだから、悲しい最期になるのならば、その人生のシナリオを受け入れること。

 そして、病気になっても、生かされているかぎりは、どのような心境を維持し獲得できるかという「心の修行」は可能である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『生命(いのち)の法』で以下のように説かれました。

「人間は、病気になっても、ならなくても、死ぬときには死にます。病気になると、闘病生活は苦しいでしょうし、職業を失ったり、仕事がうまくいかなくなったりと、いろいろなことがあると思いますが、生かされているかぎりは、「まだ、この世に使命があるのだ」と思って、自分がやれるだけのことをやり終えてください。それが大事です。「自分は、もう終わりだ」と思うかもしれませんが、そんなことはありません。まだまだ、やれることはあります。今世において最後に残るものは心の修行です。それしかないのです。闘病中であっても、心の修行は可能なはずです。病気をしていても、「自分は、どのような心境を維持し、獲得することができるか」という修行はあるはずなのです。ある人に病気が与えられたならば、それには、それなりの理由があります。もちろん、肉体的な欠陥による病気や遺伝性の病気もあるでしょうが、文明国における老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病です。五十歳を過ぎてからの病気は、ガンであろうと、心臓病であろうと、脳出血や脳梗塞などの脳系統の病気であろうと、ほとんどは生活習慣に基づくものであり、ある意味で自業自得で起きているものです。早めに生活を改善し、健康生活に入らなければいけなかったのに、無理をしたか、運動をサボったか、そのどちらかのために、そうなったのです。避けられるものは避けるように努力したほうがよいと思いますが、最後は、どうしても病気をします。そのときには、避けられない運命として受け入れるしかありません。それも人生の修行課題なのです。あなたの人生の問題集の一章として、「肉体的な苦しみ」という課題が入っているのでしょう。「病気になり、肉体的な苦しみのなかで、どのように生きるか」という一章が、問題集のなかに入っているのでしょうから、その問題を頑張って解いてください。しかし、やがて死は訪れます。一つや二つの病気を克服しても、人は、やがて死にます。現代医学は、人間の寿命を少し延ばすことはできても、死から救うことはできないのです。この世の人生には必ず終わりが来るからです。諦めて受け入れてください。病気も、あなたの人生の一部なのです。したがって、悲しい最期になるのならば、その悲しい最期を迎えなければいけないのです。そのような人生のシナリオもあると言わざるをえないので、そのときは、「自分には、こういう課題が残っていたのだ」と考えてください。しかし、病気のときに人は信仰に目覚めることもあります。もし、信仰に入るチャンスとして病気になったならば、それもまた、ありがたいことだと思うべきです」

病気があるという観念が病人をつくっていることも多い

病気と霊的人生観 へ

「仏法真理」へ戻る