転生輪廻と病気

 精神科や心療内科を受診する人は、一般に家族関係が平穏でなかったりすることが多い。子供の頃に親から虐待を受けていたりします。

 どうしてそういう親の元に生まれたかについては、唯物論的な考え方では説明がつきません。「なぜか私だけが、こういうひどい環境に投げ出された」という、実存的な考え方ぐらいしかできないと思います。

 そういう場合に、「転生輪廻」の考えを伝えて、「それは、自分が前世で解き終えていない問題を解いて魂を鍛えるために、自分で選んで生まれてきた環境であり、互いに約束して生まれてきた家族関係なんですよ」というところを理解していただきたいのです。そうすると見方がガラッと変わり、それまでの親への恨みつらみが、「実は私の魂を鍛えるために、一つの菩薩行として、そういう役回りをしてくれていたんだ」という感謝に変わります。そのように患者の心や価値観が変わると、それまでの親子関係がウソのように一気に変わることがあります。何年も途絶えていた親子の連絡が始まったりもするのです。

 医学が霊に関して無知なばかりに、病名をつけられ、隔離されて不幸になっている人が多い。いくら頑丈な車であっても、時代のニーズに合った性能を持つ新車に乗り替えていくのが普通であるように、人間は、新しい魂修行をするために、その時代の人生計画や職業に合った新しい肉体を欲する。

 このように、新しい選択が働くのは一つの幸せであり、その代償として古いものは滅びていく。必ずしも永遠に滅びないものが良いわけではない。

 病気と死は避けがたいものであるが、転生輪廻を含めた大きな人生の真実の観点からは、それ自体が一つの慈悲なのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『超・絶対健康法』で以下のように説かれました。

「人間にとって、「病気を治したい」と願うのは、ごく自然な感情でしょう。幸福の科学でも、治せる病気については、宗教の立場から、なるべくその手助けをしていきたいと思っています。

 ただ、一方では、仏教で説かれているように、「病気と死は、避けがたいものである」ということも事実です。人生の途中でかかる病気を一時的に治すことができたとしても、最終的に、死から逃げることはできません。老衰で亡くなる人もいますが、たいていは、何らかの病気で亡くなるでしょう。それは、人生における運命として受け入れなければならないところがあるのです。その部分だけを取り上げると、悪いこと、不幸なことのように見えます。しかし、「人は何度も生まれ変わっている」という転生輪廻の観点を含めた、大きな大きな人生の真実から見れば、それ自体が慈悲の一つなのだということも知る必要があります。

 もし、「永遠に病気にならない、頑丈な肉体」というものがあったとすると、どういうことになるでしょうか。例えば、二十世紀の初めに、アメリカでT型フォードという車が開発されましたが、もし、その車が百年たった今もまだ道路を走っているとしたら、どうでしょうか。それを考えてみるとよいのです。今は、トヨタのハイブリッド車などが走っている時代です。T型フォードが、殴ったり蹴ったりしても傷まないぐらい頑丈で、いつまでたっても壊れない車だったとしても、やはり、どこかの時点で、「新車に替えたい」と思うのが普通でしょう。世間の人々は、時代のニーズに合った性能を持つ新車にどんどん乗り替えていっています。必ずしも「永遠に滅びないもの」が良いわけではないということです。

 それと同じように、人間は、新しい魂修行をするために、その時代の人生計画や職業に合った新しい肉体を欲するのです。そういう新しい選択が働くということが一つの幸せであり、その幸せの代償として、古いものは滅びていくわけです。

 新車が、やがて中古車になり、廃車になっていくように、肉体も、古くなると、滅びて死んでいきます。 つまでもそのままでは困るのです。人間は、何百年も生きるわけにはいきません。なるべく健康で長生きできるように努力することは、大切な心がけです。ただ、「『いつかは病気になって死ぬ』ということも、大きな計画のなかでは一種の慈悲である」という事実を受け入れることも大切なのです」

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