病気をつくる力はある

「逃げ場」をつくるために、病気になろうとする想念が体の弱いところに病気をつくります

 人は、「病気を治す力」はなかなか持てませんが、「病気をつくる力」なら、ほとんどの人が持っています。ガンを治す力は持てなくても、ガンをつくる力は、ほぼ全員が持っているのです。

 無理をしたり、不養生をしたり、ものすごく感情を乱して破壊的な生き方をしたりすれば、おそらくガンができるはずです。

 「体のなかにガン細胞をつくり出す」ということは、本当は難しいことです。そういう悪い方向のことならできるのですが、「ガンをなくす」という良い方向についてはなかなかできないわけです。

 病気をつくることはできるのに、治せないというのはおかしなことです。

 病気を治せないのは、本当は、「病気を治す気がない」ということなのです。病気になると、自分の欲求不満や失望感、できないことの言い訳ができるわけです。

 要するに「病気になれば許される」ということです。

 

心には病気をつくる力も治す力もある

 生活習慣の中でも、見落としがちなのが「心の習慣」です。

 くり返し出てくるマイナスの心が、霊体に病巣を創り出し、それが肉体に表面化する。

 現代人の病気は、生活習慣の乱れが免疫力を低下させたことによるものが多い。特に、悩みがちでストレスを溜めやすい性格など、心の持ち方が与える影響は大きい。そう考えれば、心を扱う宗教によって病気が治るケースがあるのは、当然のことと言える。

 幸福の科学大川隆法総裁は、病気になるメカニズムとして、もう一段踏み込んで「思いの力による創造作用」について指摘している。体をつくっている細胞は、日々つくり変えられており、半年もすればほとんどすべてが入れ換わる。その際、どのような体をつくるのかという設計図を決めているのは、その人の心なのです。病気の設計図は、人間関係の葛藤や不平不満、怒り、憎しみ、自己処罰、不安、自己保身などのマイナスの思いを、くり返し強く発信することでつくられ、それが実際に病気となって現れる。

 病気を治すためには、これとは反対の積極的で肯定的な思いを持つ習慣が大事なのです。

 「自分に、まだ、未来がある。将来がある。希望がある。まだ、やるべきことが残っているんだ」ということで、「自分自身で治していこう」という気持ちを本人が強く持って心に刻印し、医者がそれを手伝うという立場でやれば、病気の治りはすごく早いと思います。

 たいてい、メンタルな面から崩れていっております。それで、簡単に人は死ぬものです。しかし、「まだまだやれるんだ」ということを、教えなければいけません。

 心には創造性があって、ものをつくることも壊すこともできる。人間は自分の心で病気をつくる能力を持っている。

 心が不調和な方向に傾いたときには、体に異変が起き、程度が激しくなると ガン などの病気になる。病気の根本は、心の不調和が体の最も弱いところに出るということである。そして、人間は、それと同じ能力で、病気を治すこともできる。体の細胞で一年前と同じものはなく、全部、入れ替わっているから、体の中の悪いものを逆によいものに変えようと思えば、変えていくことができる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『奇跡のガン克服法』で次のように説かれました。

「心には創造性があるため、心は、もちろん、ものをつくることも壊すこともできます。人間は、自分の心でもって自分の体を壊すことができます。さまざまな不調を起こし、病気をつくることができるのです。体の部分は物質世界にかなり支配されているのですが、心が不調和な方向に傾いたときには、体に異変が起きてきます。その異変は、程度が低ければ、「体調の不良」というレベルで止まりますが、程度が激しくなってくると、病変が生じ、病気になります。それが、あるときにはガンであったりしますし、ほかにも、さまざまな重い病気に変わってくるのです。その病気の出方は、さまざまですが、その人の体のなかで最も弱い部分に病気が出てきます。病気の根本を辿ってみると、実は単純なことであり、「心の不調和が体の最も弱いところに出る」ということなのです。その際、長く使い込んだ体のなかで、現時点で最も弱っているところに病気が出ることもありますし、生まれつき、体の特定の部分が弱く、そこに病気が出ることもあります。いずれにしても、体のなかで弱っているところに、不調和が現象として表れてきて、それが病気になるのです。このように、心は病気をつくることもできるわけですが、これは、本来の創造性とは違い、悪いほうでの働きなので、心の持つ破壊性、破壊力と見てよいと思います。これも、みなさん全員が持っています。みなさんは、ほぼ例外なく、自分で病気をつくる能力を持っています。みなさんは、神の半分の力を持っているようなものです。ただ、肝心の残り半分においても、すなわち、「病気をよくする」という方向においても、力を発揮できなければなりません。病気をつくることができるのであれば、実は、それと同じ能力で、病気を治すこともできなければならないのです。病気といっても、たいていは、内臓の一部か脳の一部、あるいは血管系を悪くするようなことでしょう。しかし、その内臓は、一年間、同じ状態であるわけではありません。一年以内には、全部、細胞が入れ替わっています。骨もそうです。一年間、同じである骨はありません。頭蓋骨でさえ入れ替わるのです。血管も血液も、当然、入れ替わっています。体のなかで一年前と同じものはありません。外側がよく似ているだけで、体自体は、全部、入れ替わっているのです。そのため、例えば、胃ガンの場合には、胃の部分に病巣をつくり続けなければいけません。胃を壊し続けている状態でなくてはならないわけです。そういうことが続けば一定の病気が固まるのです。ただ、そのように、細胞の部分で、悪いものをつくれるのですから、逆に、それをよいものに変えようと思えば、変えていくことができるのです。」

 医学がどんなに進歩しようとも、人間の本質は肉体に宿っている魂であるという真実に変わりはない。人間の肉体を支配しているのは心であるからこそ、いつの時代も正しい心の持ち方を教える宗教によって病気が治る事例が後を絶たない。

 しかし、現代の医者は医療現場でそうした事例に直面しても、偶然か何かで片付けてしまうことが多い。それを追求して世に問う医者もいるが、残念ながら、人間が霊的存在であることを明確に認めている人はまだ少ない。「科学で実証されないものの存在は認めない」という姿勢が、医学の世界では頑強なまでに貫かれている。

 しかし、科学の本来の目的は未知なるものの探究にあるはずです。これまでの学問の前提が崩れるからといって、未知なるものを避け続けてよいのでしょうか。

 大川隆法総裁は、『救世の法』で信仰と科学の関係について以下のように説かれました。

「私たちは科学を決して否定していません。『科学のなかにも、神の真理、仏の真理は流れている。人類を幸福にする原理の一部は入っている』と言っています」

「科学の未来は、実は、この信仰の上に成り立つものです。この信仰があって初めて、霊的存在やあの世の世界の探究が始まります」

 医学をさらに進歩させ、病気で苦しむ人々を救っていくためには、医者はもっと目に見えない世界の真実に心を開いていく必要がある。

参考

病気を起こす想念が「体の弱いところ」を決壊させる

 それは、川が氾濫するときに堤防の弱いところが決壊するのと同じです。

 川の水が増水すると、堤防の薄いところや低いところなど、弱い部分が決壊して水が流れ出しますが、病気を起こす想念が出てくると、体の弱いところを探して、そこを決壊させようとするのです。

 そのようにして、弱いところから病気が出てくるわけですが、その部分を治しても、また次の弱い部分に出てきたりするので、川の氾濫を止める場合と同様に、根本原因のところを直していく必要があります。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『常勝思考』で以下のように説かれました。

「人は、自分の思ったことがズバズバと的中し、道が拓けることをもって、よしと思うかもしれませんが、ほんとうは、いろいろな上がり下がりがあるなかにこそ、学ぶことは多いのです。たとえば健康面をとってみると、いつもパワフルで健康な方もいるでしょう。そうした方は、健康のことを考えるという時間がないかもしれません。ただ、この健康の反対である病気というものは単なる不幸かと考えたときに、「いや、そうでもない。そんな消極的なものではないのではないか」という感じがします。なぜ、あるときに人間は病気になるのでしょうか。病気になるには、その前段階が必ずあります。助走期間のようなものがあります。体のどこかが痛んだり、調子が悪くなったりして、通常どおりの働きができなくなってきます。これは、ある意味で、自然が人間に休養を命じているときでもあるのです。何ゆえに、自然が人間に休養を命じているかというと、健康を当然と思っている人たちは、ほんとうに、病気にでもならないかぎり、休むことを知らないということがあるからです。したがって、ある人がオーバーヒートしたときには、その人の寿命、あるいは天命をまっとうさせるために、自然はその人に一時的に病気を与えて休ませることがあります。その病気にかかることによって、実は寿命を長らえているのです。そうならない場合は、オーバーヒートして、どこかでそのままあの世に還ってしまうことになるのです。その前に何らかの体調の不全を起こして休ませ、強制的に休養期間をつくります」

病気と霊的人生観 へ

「仏法真理」へ戻る