教育者のあるべき姿

教育の問題

1 愛国心を否定する

 しかし、戦後の学校教育には、大きく2つの問題点がある。

 1点目は、愛国心を否定する教育を行っている点である。

 学校教育で、「日本はアジア諸国を侵略し、苦痛を与えた」「南京大虐殺などで、日本軍は蛮行を繰り返した」などと教わった人は多いかもしれない。しかし、日本は侵略どころか、欧米による植民地支配からアジアを解放させたのです。

 こうした一方に偏った教育では、物事を多面的、大局的に見ることはできず、正しく考え、判断できる人材を輩出することは難しい。選挙でも、マスコミ報道に踊らされ、正しい意思決定ができなくなる可能性が高い。

2 唯物的な価値観に染まっている

 2点目は、戦後教育が唯物的な価値観に染まっている点である。

 唯物的な価値観は、神仏の存在や信仰心を否定し、「人間は偶然に生まれてきた」「死んだら何もなくなってしまう」という人間観や世界観を子供たちの心に植えつける。しかし、人間の尊厳の根拠は、人間は神仏の子である真実に由来するものである。神仏への信仰を失った教育では、自分と同じ神仏の子である周りの人に対する愛や感謝の思い、神仏のつくられた世界を発展させようという自助努力の精神に裏付けられた利他の思いを育むことはできない。 

 こうした間違った教育のもとで育った子供たちが政治参加をするならば、国家も誤った方向に進んでしまう。

 

教育が間違えば国は衰退する 

 教育は国家百年の計と言われるように、優れた人材の育成で国の将来は大きく変わってくる。間違った教育を行っていけば、誰も自分の国のために尽くそうとは思わなくなり、日本は確実に衰退していく。

 若者たちが自分の国を愛し、その未来に責任を負えるようにするためには、教育改革が急務です。

 

「創造性の教育」が資本主義の未来を拓く

 では、次の時代の教育の課題は何か。

 昨今、「資本主義が終わる」と言われることが多い。今までの時代は、「世の中のお金が、成長する産業に投資され、さらなるお金を生み出す」ことで繁栄してきた。しかし、今、先進国を中心に経済成長が止まり始め、お金の投資先もなくなり、世界中の金利がゼロに近づいている。「資本が資本を生む循環」がなくなりつつあるという。

 この問題について、幸福の科学大川隆法総裁は、答えは「教育」にあると分析する。「『どうやって、創造的な頭脳をこの国につくり出すか』ということが大事なのです。

 これをやれば、だぶついている資金の使い道が出てきます。『資金がいくら出ても、それをどう使っていいか分からない』『事業のアイデアが湧かない』『新しい仕事が存在するということが、人々に見えない』『そういう需要が今後まだあるということが分からない』という状況においては、経済の停滞は続くわけです。

 したがって、日本の資本主義が今後も続いていくための一つの手は、『創造的頭脳を数多くつくっていかなければいけない』ということです。その意味で、教育の生産性を高めなければいけません」(『資本主義の未来』所収)

 現在の日本の教育では、答えのある問題に対して、公式通りにミスなく取り組む能力を中心に訓練する。しかし、これは工業生産の時代に適した教育法だったといえる。これからの時代は、こうした基礎的な「処理能力」にプラスして、「新たな需要や」「前例のない仕事」を創造する頭脳がある意味で工場の設備に代わるような時代になる。教育において「起業家精神」的なものを教えなければいけなくなるということである。

 幸福の科学の大川隆法先生は、『教育の使命」で以下のように説かれました。

「教育を通して、この国を発展させたり、各人の人生を成功に持っていったりしようとするならば、やはり、「二宮尊徳的な精神」が要ると思います。それは、「努力を通して、人格や人徳が磨かれなければいけない」ということです。勉強において精進することで、人は立派になっていきます。そして、その立派な人が、よい仕事をなすような社会をつくらなければいけないわけです。したがって、人物として立派になると同時に、よい仕事をする人になるような教育をしなければいけません。そのモデルの一人が、二宮尊徳だと思うのです。しかし、今、学校の先生たちは、上の人に管理されたくないために、「自分たちを管理するな。勤務評定をするな」と言って抵抗運動をしています。そういう先生が、生徒を正しく管理できるかというと、できるわけがありません。生徒のほうも、先生がやっているように、「私たちを管理するな」と言うはずです。「先生が上の人の言うことをきかないで『楽をしよう』としているのなら、私たちだって同じだ」ということで、学級崩壊も学力の低下も、当然、起きてくるでしょう。やはり、生徒は、上にいる先生を見習い、だんだん似てくるものなので、そのあたりが問題なのではないかと思うのです。生徒によく勉強させようとするならば、まず、先生が、自ら「勉強する姿勢」や「学問を愛する姿勢」を見せなければいけないし、その「学徳」が、人格を高め、世の中への貢献につながっていくところを見せなければいけないと思います。そのような先生は、自然に慕われるようになるでしょうが、一生懸命に「労働者の権利」を主張しているような先生には「尊さ」がありません。そういう先生を見ていると、少し悲しい気持ちになるものです。やはり、教師には、「聖職者としての使命」というものがあるのではないでしょうか学校の先生が、自分たちを「一労働者」と規定して、「生徒たちに感化力を及ぼしたくない」という方向を向いているのなら、それは大きな問題です。そういう教育が日本全国で主流となっておりながら、しかも、教育費をタダにしていく方向に進んでおりながら、先生のほうが「教員免許の更新はあまり行われないし、教育の質も問われない」ということであれば、やはり「堕落するな」と言っても無理ではないかと感じます。基本的に、「自分自身で目標を設定し、努力していこう」という気持ちのない人には、指導者としての資格はないでしょう。向上心のない人を指導者にすることはできません。向上心なき者に、人を指導する資格はないのです。「ただただ下がっていく」という感じで、楽をしていく方向に流れていき始めたら、その人は、生徒が手本にするには足りないと思います。したがって、「常に、一歩でも二歩でも自分に磨きをかけようと努力している先生の下には、優秀な生徒が育ってくる」と考えてよいのです」

 教育には、努力を通して人格や人徳が磨かれなければいけないという、二宮尊徳の精神が必要である。

 勉強において精進することで立派になった人が、よい仕事をする社会をつくらなければならず、人物として立派になると同時に、よい仕事をする人になる教育をしなければいけない。

 生徒によく勉強させようとするならば、先生が自ら勉強する姿勢や学問を愛する姿勢を見せなければいけないし、その学徳が人格を高め、世の中への貢献につながっていくところを見せなければいけないから、教師には「聖職者としての使命」がある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『大隈重信が語る「政治の心 学問の心』で、早稲田大学を創立者し、総理大臣まで務めた大隈重信の言葉(霊言)を次のように伝えておられます。

「うーん・・・。それはまあ、何がいいって、「文部科学省をなくすのが、いちばんいいだろう」とは思うがなあ。こんなことを言ったら、怒られるかな。でも、ほんとは、あそこが問題だろう。明治になる前の江戸時代までは、九割もいたかどうか知らないけど、大部分が農民だったし、商人も「読み書きそろばん」ぐらいができりゃ、いいレベルだったし、まともな勉強をしてるのは、学者と武士階級の者ぐらいだったわけだな。そういう時代から見りゃあ、明治の時代に移行していくあたりでは、「護送船団方式で国民のレベルを上げる」っちゅうのが非常に大事なことだったと思う。けれども、日本が、これから、一流国から二流国に落ちず、さらに超一流国に進化していくためには、もうちょっと教育の自由性が必要だな。そういう意味で、「護送船団をつくっていくタイプの役所」っていうのは、やっぱり引っ掛かるよ。まあ、「文部科学省は要らない」っちゅうたら、抵抗されるかなあ。抵抗勢力になると困るけどな。今、文部科学省は、助成金で、学校を全部縛っとるからさあ。やつらは「財政赤字」と言いつつ、自分たちの権力のために助成金をばら撒いていて、学校のほうは、それによって縛られているところがあるわけだな。自由競争をやらせりゃ、いい学校が残って、悪い学校は潰れるんだよ。それは分かってるんだけど、学校を潰さないようにしてるんだろう? とにかく、諸悪の根源は文部科学省だ。まあ、日教組の問題もあるんだろうけどね。あれは、教員の労働組合だよね。ああいう、身内をかばい合うようなものは、小さい団体のうちには機能する場合があるんだよ。だから、「零細のものが、自分たちの職業や生活を守るために、組合をつくって身を守る」っていうことに、私は反対じゃない。「商店街が潰れないように守ろうとしてる」とか、こういうのに反対はしてないよ。ただ、全部を一律の命令で動かすような、全体主義的な組合を全国規模でつくったならば、教育の自由化や、まじめに努力して一生懸命成果を出す人を潰しにかかる傾向が必ず出てくる。彼らに言わせれば、「そういう人が出てくると、自分たちの怠ける自由がなくなる」というわけだ。要するに、「教員にも、『教育する自由』と『教育を怠ける自由』がある」ということなんだよ。

 そして、この「手を抜く自由も大事だ」とおっしゃる人たちによって大きな組織がつくられると、まともに努力している人が、ばかを見ちゃうことがあるんだよ。まあ、善意を信じたいけど、組織が大きくなると、人間はどうしても易きにつくんだよな。ここにも、やはり、手を入れなければいかんでしょうね。官僚制も労働組合も、巨大化すると必ず凡庸性と全体主義性が出てくるんです。そうすると、付加価値の高い教育をし、個性的で将来性のある人を育てることができなくなってくるんだよね。だから、これを打破しなきゃいけない」

 教育政策としては、文部科学省をなくすのがいちばんよい。

 また、日教組の問題もある。全国規模の組合は、まじめに努力して一生懸命成果を出す人を潰しにかかる傾向が必ず出てくる。

 官僚制も労働組合も、巨大化すると必ず凡庸性と全体主義性が出てきて、付加価値の高い教育をして、個性的で将来性のある人を育てることができなくなってくるので、これを打破しなくてはならない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『教育の使命』で以下のように説かれました。

「とにかく、この国の未来を明るくしたかったら、自分たちよりも後に来る人たちが、自分たちを乗り越えていけるような状況をつくらなければなりません。先生というのは、生徒が自分を追い抜いていくことを喜びとしなければいけないのです。そのためには、「後ろ姿」を見せなければいけません。自分が努力している後ろ姿、背中を見せながら、「後から来る君たちは、私を乗り越えて先へ進みなさい。それが、この国の発展につながるし、世界のためにもなるのだよ」と教えなければいけないのです。これは、「自分たちだけの権益を守ろう」などという堕落したスタイルの先生にはできないことです。しかも、「ゆとり教育が大切だ」と言って楽をしてきたツケが、日本の国際競争力の低下となって表れています。それだけ、日本の学力水準が下がってきているのです。これから復活させようとしているところですが、ゆとり教育では、教育内容が三割ぐらい削減されました。例えば、昔は、中学三年間で習う必修単語が千語ぐらいあったと思いますが、それがだんだん減らされていきました。特に、ゆとり教育下の指導要領では、そのうちの基本語が百語にまで減っていったのです(説法当時。2020年より必修単語は千二百語に増加)。英語圏では、「乞食になるのにも三百語は必要だ」というように言われているので、この程度では使いものになりません。世界に出せる人材など、育ちようがないでしょう。高校の参考書を見ると、「これは中学校の参考書かな」と思うほど易しい内容が載っていたりするので、このようなことでは駄目だと思います。幸福の科学は、今、教育事業も行っていますが、「最終的に実社会に出て使えるレベル」を考えると、やはり、その途中において埋めていかなければいけないものがあります。先生は、「自分が担当しているときに楽だったらよい」とか、「生徒が文句を言わなければよい」とか、そのように考えるのではなく、生徒が実社会に出て使えることを教えなければいけません。そういう意味では、社会で実際に仕事をした人などに教員資格を与えてもよいと思うのです。教員にも、「教育学部系の人でなければならない」という必然性はなく、ほかの学部を出た人のなかにも、学力があり、教え方がうまい人はたくさんいます。さらに、例えば、営業系やサービス系で仕事をした人だったら、学級崩壊を起こさないような授業が、わりに簡単にできてしまうかもしれませんし、あるいは、マネジメントや経営を経験した人だったら、学校をうまく運営できるかもしれません」

 教育内容が3割も削減されたゆとり教育のツケが、日本の国際競争力の低下となって表れている。高校の参考書が中学校の参考書かと思うほど易しい内容だったりするのでは、世界に出せる人材など育ちようがない。

 学校の教師は、自分が担当しているときに楽だったらよいとか、生徒が文句を言わなければよいとかではなく、生徒が実社会に出て使えることを教えなければいけない。

 最終的に実社会に出て使えるレベルを考えると、教育学部系の人でなければならない必然性はなく、他の学部を出た人のなかにも学力があり教え方がうまい人はたくさんいるから、社会で実際に仕事をした人に教員資格を与えてもよいでしょう。

ゆとり教育のツケ

教育の中身 

教員にも指導実績が求められている

 仕事のレベル、仕事の出来・不出来という問題です。

 昔は、学校の先生は、「先生」というだけで尊敬されていました。しかし、今は、先生になっただけでは尊敬されなくなっています。世の中全体が、「どんな成果をあげたか」「どれだけ効率的な指導をしたか」といった実績に目を向けるようになってきているのです。

 会社などはすべてそうです。世間では、実績のあがらない会社はどんどん潰れていますし、新しい会社や、良い会社が発展していっています。

 人々は良いものを求めています。車にしても家にしても良いものが欲しいのです。欠陥品は欲しくありません。欠陥のある車や欠陥のある家は欲しがりませんし、古くなった食べ物などは食べたくありません。

 世の中全体の要求がそのようになっているのに、「先生の世界は昔のままでよい」ということでは通用しません。やはり、日進月歩で前進し、より良い仕事をしなければいけません。トヨタ自動車ではありませんが、毎年毎年改善していかなければ駄目です。

 世の中は正直なものであり、良くなった学校は評判も上がってき始めます。それは、口コミで正確に広がっていくのです。

 やはり、先生がたのなかに「甘え」があると思います。

 どんなに若くても、大学を卒業してすぐ教員になっても、「先生」と呼ばれたら、早くも、「一国一城の主」のようになります。

 ただ、「先生」と呼ばれる人が大勢いるとしても、その仕事のレベルには人によって大きな差があります。副校長からヒラの教員まで差がある。ところが、「先生」という言葉が邪魔をして、上位の教員が下位の教員に対し、仕事の仕方を適切に指導できないところがあるのです。そのため、仕事のレベルが足りないのに、人のアドバイスを聞かず学習しない教員がいるのです。

 「教員になったから、自分は偉い。あとは、楽をしても、一生、うまくいける」という、これまで〝護られすぎてきた〟教員の幻想の部分が、今、打ち砕かれています。それが世間の流れと合わないからです。

 先生も良い結果を出していかなければ、親のほうが納得しないため尊敬を受けられません。尊敬を受けられないと、先生も自信がなくなってきて、次第に うつ になったりするのです。

 

宗教的なバックボーンを持ち専門知識のレベルを上げる

 もう一つ、先生にとっての脅威として、塾との競争もあります。

 現在、勉強を教える技術の競争では、学校は塾に対して完敗に近いと思うのです。塾に勝っている学校は数えるほどではないでしょうか。各県に一校や二校でもあればよいほうであり、ほとんど完敗状態であろうと思います。

 このようになった背景には、「教育界の思想のなかに、共産主義や社会主義という、すでに滅び去りつつある古いものの考え方が深く入っている」ということが、大きな原因としてあります。

 それは、「働こうが働くまいが、平等に扱う」「『先生』と呼ばれるようになったら、みな、同じだ」「良い先生も、悪い先生も、給料は同じだ」「同じ年数がたてば同じ給料」というような考え方です。こういう考え方が、亡霊のように立ちはだかっています。

 したがって、「世の中の流れをよく見て、良いものをつくらなければ、尊敬を受けられないし、自信も持てないのだ。うつになるのは、仕事能力が足りないからだ」ということです。

 今、一クラスあたりの生徒数は三十人から四十人程度ですが、難しい子供がたくさんいるため、先生の力が足りないのです。

 その力が足りない人は、何によって補えばよいのでしょうか。

 一つは、宗教のようなバックボーンを持つことです。これを持つことによって、自信を持って指導ができるようになります。

 もう一つは、自分の専門知識を優れたレベルまで上げることです。それによって、きちんと教えることができるようになります。

 今は怠けている先生が数多くいます。もう一歩先、もう一段上のレベルぐらいまで指導力をつけようと努力することが大事です。

 先生も「予習型人生」を生きる必要があります。ヒラの教員のときに、主任や主事、副校長など、「自分よりも上の役職の人の仕事ができるようになろう」と志し、努力をする必要があるのです。どうか、予習型人生を送ってください。

 結論的には、自分の能力に合わせた結果になるということです。

 何よりも大事なのは、教員一人ひとりが、日教組に代表されるような悪平等・無責任の社会主義的体質から抜け出し、他者との切磋琢磨の中で自己責任と自由な努力による向上・発展を目指すという教育本来のあり方を、自らにも当てはめ、児童生徒に対しても実践することである。

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