信仰とは

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 信仰とは、仏や神と呼ばれる偉大な存在がいることを信じることです。また、仏神や天使、菩薩といった目には見えない霊存在が暮らしている「あの世」があることを信じることです。信仰は人間にとって一番大切なものです。なぜなら、人間の本質は肉体のなかに宿る「魂」であり、その「魂」は、はるか昔、仏によって創られたという真実があるからです。仏とは私たちの「魂の親」なのです。信仰は、魂の親である仏と仏の子である人間がつながるための命綱のようなものです。この命綱があるからこそ、私たちは仏の子としての正しさを忘れることなく、ほんとうの意味での幸福な人生を歩んでいくことができるのです。 幸福の科学の信仰の対象(本尊)は「エル・カンターレ」です。エル・カンターレは、人類が誕生する以前から地球に責任を持つ神々のなかで最も権威を持っている存在です。その意識の一部がインドにゴータマ・シッダールタ釈尊(しゃくそん)として、ギリシャにヘルメスとして生まれたことがあります。そして、現代の日本にエル・カンターレの中核意識(本体)が幸福の科学の大川隆法総裁として下生しました。かつてイスラエルの地に生まれた救世主、イエス・キリストが「わが父」と呼んだのはエル・カンターレのことでした。地球規模の教えを説き、それを広げることによって全ての人々の心を救うこと。また、世界のあらゆる宗教を整理・統合して新しい世界宗教を創り新文明の道を開くこと。それがエル・カンターレの使命なのです。

信仰の本能

 人間は仏の子  

 人間はみな、仏から個性ある光として分かれてきた「仏の子」であり、その魂は愛や慈悲といった仏と同じ性質である『仏性』を宿している という考えを幸福の科学は持っています(「幸福の科学」公式ホームページより) 

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信仰は、最後に我々に残るもの

 この世には、素晴らしいものがたくさんありますが、「最後は信仰を取る」という姿勢を採らなければいけません。この世的なものは、この世を去るときに、全部、捨てていくものであり、最後にあなたに残るものは信仰しかないのです。死んで、あの世に持って還れるものは、心しかありません。しかし、確かに心は持って還れますが、その行き場所には天国もあれば地獄もあります。天国に行く心も地獄に行く心もあるのです。したがって、「死んだあとは、家、財産、家族、友人、持ち物、名刺など、すべてを失うのであり、あの世に持って還れるものは心しかない」という事実は、さらに踏み込んで言うならば、「あの世に持って還れるものは信仰しかない」ということになります。信仰を持っていれば、あの世において、あなたがたが行くべき所は、はっきりと固まります。信仰こそが、あなたがたが天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件です。さらには、天使になるための条件なのです。(『霊的世界のほんとうの話。』)

 肉体が人間のすべてではなく、肉体のなかには「魂」がほんとうに入っている。死を境にして魂は肉体から離れて、あの世に旅立つが、その行き場所を決めるのは、この世での生き方そのものである。

 宗教家や霊能者が、この世とあの世の仕組みを教えても、それを信じるか信じないかは、各人の自由に任されている。

証明可能な科学実験のようなものであれば、信仰はそもそも必要がないが、生きている間は経験できないために、宗教は信仰を要求している。

 大川隆法総裁は、『死んでから困らない生き方』で以下のように説かれました。

「今、みなさんは肉体に宿って生活をしていますが、肉体が人間のすべてではありません。肉体のなかには、昔から言われているように、「魂」がほんとうに入っているのです。しかし、死を境にして、魂は肉体から遊離します。肉体は、火葬場で焼かれて埋葬されますが、魂のほうは、肉体から離れて、あの世に旅立ちます。そして、あの世での行き場所を決めるものは、この世での生き方そのものです。あの世が、すっきりと見えたり分かったりしない理由は、やはり、この世の生活に支障が出るためです。そのため、いつの時代にも、宗教家や霊能者などが出てきて、この世とあの世の仕組み自体をきちんと教えるようになっています。ただ、「それを信じるか、信じないか」は、各人の自由に任されています。そして、「目に見えない世界や、目に見えない善悪などの存在を信じることができるかどうか」ということで、「魂的に向上しているか、堕落しているか」が、今世の修行として測られることになるのです。あの世には、仏や神、あるいは天使、如来・菩薩といわれるような尊い存在もいれば、普通の人間霊もいます。そして、人間霊には、善良な人と、善良ではなかった人がいます。さらに、悪魔といわれるような存在もいます。これは、千年以上も地獄から出てこないような人たちです。彼らも、もとは人間として生まれたことのある存在ですが、はっきり言って、生前、悪いことばかりを考え、積極的に人を害そうとしたような人たちなのです。この世では、フェアでないこともありますが、あの世の世界というのは、かなりフェアに判定が出るのです。神、仏の創った世界は、決して、人間の生き方を裏切るようなことはありません。この世で苦労したら、「損をした」と思うかもしれませんが、その苦労が、それなりに正しいものであれば、あの世で報われることになります。一方、この世で楽をして、「うまくいった」と思ったとしても、それが正当なものではない場合は、死後、あの世で必ず反省させられるようになるのです。これが真実の世界観であり、宗派を問わず、宗教を問わず、洋の東西を問わず、全世界で認められている考えなのです。この世とあの世の真実について、いろいろと述べてきましたが、すべての人が私と同じような経験をすることはできません。そのため、宗教には、信仰というものが必要になります。何度でも証明できる科学実験のようなものであれば、信仰は、そもそも必要がありません。ここに、宗教が、信仰というものを要求する理由があります。もちろん、死んでからは、何人も同じような経験をするのですが、生きている間は、経験できません。したがって、宗教指導者たちの教えることを受け入れるしかないわけです。それが、信仰の意味です。

 肉体が人間のすべてではなく、肉体のなかには「魂」がほんとうに入っている。死を境にして魂は肉体から離れて、あの世に旅立つが、その行き場所を決めるのは、この世での生き方そのものである。

 宗教家や霊能者が、この世とあの世の仕組みを教えても、それを信じるか信じないかは、各人の自由に任されている。

 証明可能な科学実験のようなものであれば、信仰はそもそも必要がないが、生きている間は経験できないために、宗教は信仰を要求している。

 総裁は、『死んでから困らない生き方』で以下のように説かれました。

「今、みなさんは肉体に宿って生活をしていますが、肉体が人間のすべてではありません。肉体のなかには、昔から言われているように、「魂」がほんとうに入っているのです。しかし、死を境にして、魂は肉体から遊離します。肉体は、火葬場で焼かれて埋葬されますが、魂のほうは、肉体から離れて、あの世に旅立ちます。そして、あの世での行き場所を決めるものは、この世での生き方そのものです。あの世が、すっきりと見えたり分かったりしない理由は、やはり、この世の生活に支障が出るためです。そのため、いつの時代にも、宗教家や霊能者などが出てきて、この世とあの世の仕組み自体をきちんと教えるようになっています。ただ、「それを信じるか、信じないか」は、各人の自由に任されています。そして、「目に見えない世界や、目に見えない善悪などの存在を信じることができるかどうか」ということで、「魂的に向上しているか、堕落しているか」が、今世の修行として測られることになるのです。あの世には、仏や神、あるいは天使、如来・菩薩といわれるような尊い存在もいれば、普通の人間霊もいます。そして、人間霊には、善良な人と、善良ではなかった人がいます。さらに、悪魔といわれるような存在もいます。これは、千年以上も地獄から出てこないような人たちです。彼らも、もとは人間として生まれたことのある存在ですが、はっきり言って、生前、悪いことばかりを考え、積極的に人を害そうとしたような人たちなのです。この世では、フェアでないこともありますが、あの世の世界というのは、かなりフェアに判定が出るのです。神、仏の創った世界は、決して、人間の生き方を裏切るようなことはありません。この世で苦労したら、「損をした」と思うかもしれませんが、その苦労が、それなりに正しいものであれば、あの世で報われることになります。一方、この世で楽をして、「うまくいった」と思ったとしても、それが正当なものではない場合は、死後、あの世で必ず反省させられるようになるのです。これが真実の世界観であり、宗派を問わず、宗教を問わず、洋の東西を問わず、全世界で認められている考えなのです。この世とあの世の真実について、いろいろと述べてきましたが、すべての人が私と同じような経験をすることはできません。そのため、宗教には、信仰というものが必要になります。何度でも証明できる科学実験のようなものであれば、信仰は、そもそも必要がありません。ここに、宗教が、信仰というものを要求する理由があります。もちろん、死んでからは、何人も同じような経験をするのですが、生きている間は、経験できません。したがって、宗教指導者たちの教えることを受け入れるしかないわけです。それが、信仰の意味です。」

 たとえ岩にその身打ち砕かるるとも、たとえ千頭の獅子にその身食われ、たとえ万羽の鷲に、その目えぐらるるとも、この信仰という名の命綱を決して手放してはならない。

 総裁は、『永遠の仏陀』で以下のように説かれました。

「信仰とは、師より流れ出してくる仏法真理の大河を敬い、その法を恭しく受け、究極なる仏に対して、誓いを立てることをいう。

仏弟子として、仏法真理の縁にふれて、生まれ変わったならば、必ずや、その報恩のために生きるということを。 必ずや、その教えを人生の指針として生きるということを。 こうした誓い、誓願を立てることをもって、あなたがたの信仰は本物となるのだ。

たとえ、千貫の重き岩が、汝らの頭上より転げ落ち、その身を打ち砕かんとしても、仏法真理のために、その岸壁をよじ登ろうとする努力を、忘れてはならぬ。 その岸壁に垂らされたるところの一本の命綱を、決して手放してはならぬ。 この命綱こそ、信仰と呼ばれているものなのだ。 たとえ、岩に、その身、打ち砕かるるとも、たとえ、千頭の獅子に、その身、食われ、たとえ、万羽の鷲に、その目、えぐらるるとも、この信仰という名の命綱を決して手放してはならぬ。 あなたがたは、その肉体を失うとも、その名声や、地位や、金銭を失うとも、この信仰という命綱で、仏陀につながっているかぎり、永遠の生命を失うことはないのだ。」

 

子供の人格形成に信仰心はとても重要

 大川隆法総裁は、著書『生命の法』の中で、古来、哲学は諸学問を統合するものであり、「人間の本質とは何か 人生とは何か」を求めたものだったと指摘します。そして、虚無主義や実存主義が広がり、学問の細分化によって記号論理学に変わってしまった現代の哲学の在り方に疑問を呈しています。

 そのうえで、信仰を持つことを勧め、「人間は、仏の子、神の子としての生命が宿っているから尊い」「人間の本質は魂である」「その魂は永遠の生命を持っていて、転生輪廻を繰り返し、この世で精進をしながら、魂を磨いている。良いことをした人は天国に還る」という霊的真実を知る必要があるとしています。

 人生の苦しみに際して、総裁は次のように考えることを勧めています。

「主よ、私が苦しんでいるのは、決して、他の人のせいでもなく、自分自身のミスでもなく、仏が意地悪をしようとしているからでもありません。これは、今世、私がこの世に命を享けた意味を教えるためのものです。私は、そのことを受け入れ、悟りたいと思います。だから、主よ、御心にお任せします」(『心を癒す ストレス・フリーの幸福論』)

 人格形成の途上にある子供のころから信仰心を持つことで、神仏と自分のつながりに基づく絶対的な自信を持て、精神の安定につながります。幸福で積極的な人生を送るうえでの宗教の価値に目を向けてみてはいかがでしょうか。

 

最後は信仰を取る

 最後は信仰を取る、という姿勢を採るべきである。

 死んであの世に持って還れるものは心しかないという教えを、さらに踏み込んで言うならば、あの世に持って還れるものは信仰しかない。

 信仰こそが、天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件であり、さらには、光の天使になるための条件である。

 総裁は、『霊的世界のほんとうの話。』で以下のように説かれました。

「この世には、素晴らしいものがたくさんありますが、「最後は信仰を取る」という姿勢を採らなければいけません。この世的なものは、この世を去るときに、全部、捨てていくものであり、最後にあなたに残るものは信仰しかないのです。過去、私は何度も、「死んで、あの世に持って還れるものは、心しかない」ということを説きました。確かに心は持って還れますが、その行き場所には天国もあれば地獄もあります。天国に行く心も地獄に行く心もあるのです。したがって、「死んだあとは、家、財産、家族、友人、持ち物、名刺など、すべてを失うのであり、あの世に持って還れるものは心しかない」という教えは、さらに踏み込んで言うならば、「あの世に持って還れるものは信仰しかない」ということになります。信仰を持っていれば、あの世において、あなたがたが行くべき所は、はっきりと固まります。信仰こそが、あなたがたが天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件です。さらには、光の天使になるための条件なのです。」

 総裁は、『奇跡の法』で以下のように説かれました。

「人間が自助努力をしているとき、同時に、それを超えた大いなる他力もまた救いの手を差し伸べているのです。大きな慈悲がいつも臨んでいることを忘れずに、その慈悲と手を結ぶような自助努力をしていくことが大切です。このような世界観を持つべきだと思います。したがって、信仰と成功は対立するものではないのです。信仰を否定すれば成功するわけではありませんし、反対に、何らの自助努力もせず、成功の方法論をまったく無視して、信仰だけで成功できるわけでもありません。人間が修行の目的でこの世に生れてくることを考えれば、自助努力はやはり必要であり、創意工夫し、智慧を磨くことが大切です。しかし、同時に、地上の人間を助けようとする力が働いていることも忘れてはいけません。ただ、「自分を助けようとする力が働いているから、何も努力しなくてよいのだ」という甘え心では、高級霊の波動も近寄ってこなくなります。「天はみずから助くる者を助く」という言葉のとおりなのです。  天は、自助努力の精神、セルフ・ヘルプの精神を持っている人をこそ、手助けしたいのです。そして、自助努力や創意工夫をしているなかにも、実は他力は臨んでいるのです。努力をすればするほど、インスピレーションがわいてくるようになりますが、インスピレーションには他力的な要素がかなりあるのです。ただ、インスピレーションを受けるためには、地上の人間の側に、それを受け止められるだけの力が必要です。したがって、インスピレーションを受け取れるだけの器をつくる努力が必要です。そうした努力を継続していくなかに、よいインスピレーションが下りてくるようになるのです。そのインスピレーションを逃さずにつかみ、天上界の高級霊に感謝し、さらにまた、努力、精進を重ねていくことです。このくり返しが成功を生んでいきます。」

 

幸福の科学の信仰生活は次の3つが基本です

1 毎日「仏法真理」を学びましょう

 「仏法真理」は光のエネルギーです。毎日、少しずつでもよいので、幸福の科学の本やCD、DVDを学ぶことで光のエネルギーが心に満ちあふれてゆきます。

2 毎日「反省」と「祈り」の時間を持ちましょう

 「反省」と「祈り」は「仏の子」としての「光り輝く自分」を取り戻すための秘法です。毎日、少しの時間で構いません。心を見つめ、誤った思いがあれば、仏に詫びて、正しい思いにきりかえましょう。

 また、「祈願文①」の「主への祈り」「守護・指導霊への祈り」等をあげましょう。湯上りのようなポカポカとした心を取り戻すことでしょう。

3 毎日、何事かを成し遂げる努力をしましょう

 ほんの小さなことで構いません。仏の御心に適う方向で「今日自分はこれを成し遂げた」というものを持ちましょう。

 人生は一日一日の積み重ねです。毎日を充実させることが人生を黄金に輝かせる秘法です。

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