家族の絆

 現代は女性の社会進出が進んだことで、男女ともに職業選択の幅が広がった。各人の人生設計がより自由になり、職業においても家庭においても、才能を生かし、自分らしい生き方ができるようになったのは良いことです。だが、その人生設計の自由が行き過ぎた「家族不要論」につながらないよう注意が必要です。

 教育の無料化を主張する政治家もいるが、もし教育が全て無料になり、さらに、社会保障の充実が行き過ぎて老後の面倒をすべて政府が見てくれるような社会になれば、それは家族がいらなくなる流れでもある。日本の財政赤字も増えていく一方です。

 昔はどうしていたのかというと、年を取った人の面倒は、その人の子供たちが見ていました。親が仕事をやめたら、その親を子供が養うのは当然のことだったのです。

 子供がいない人の場合は、老後のために、兄弟姉妹との付き合いを深くしたり、甥や姪をかわいがって、自分に収入があるうちに一生懸命小遣いをあげたりしていました。そして、万一のときには、そういう人たちに助けてもらったのです。

 日本では、伝統的に子供が親の面倒を見たり、孫が祖父や祖母の面倒を見たりすることが一般的であった。親が一生懸命働いて子供に教育を受けさせ、その恩を感じながら子供が大きくなって、年老いた親の面倒を見るというサイクルが当たり前のようにあった。

 昭和30年から昭和50年あたりまでは、現役世代が自分の老齢の親世代だけでなく、配偶者や子供までも自分の収入で支えるという仕組みが成り立っていました。戦後の経済は ひたすら成長していって賃金も物価も上がっていたからです。

 また、隣近所との付き合いをよくしたり、宗教的な面でのつながり、ネットワークをつくったりもしていました。「いざというときのための対策を自分で早めに立てておく」ということが昔のやり方でした。そのため、「老人が飢え死にをした」ということはほとんどなかったのです。

 ところが、現代は冷たい個人主義になっているので、「年を取って収入がなくなった。ほかにお金をくれるところはないから国が払え」という話にすぐになります。

 年金の問題は、「子供が、年を取った親を扶養するのは当然のことだが、子供はなかなか親にお金を払わないので、子供の収入から十パーセントぐらいを強制的に巻き上げ、それを親に払ってはどうか」という議論さえあります。これは信じられないような話です。

 今、年金や医療・介護保険などの社会保障費は年々増え続けている。国の財政問題を解決するカギは「家族の絆」にあるのかもしれない。

 

人々が道徳的な考え方を共有する

 いま、「個人があまりにも孤立していて、個人で何もかもやらなくてはいけない」という冷たい社会から、もう少し人間性豊かな社会に戻ろうとしています。

 家族や親族、友人、隣近所の人たちなど、何らかのコミュニティー(共同体)を持っていないと、自分の居場所、帰属するところがなくなります。そういう時代になろうとしている。

 そして、子供が護れないのであれば、もう一度、子供が安全に生活できるような社会をつくらなくてはいけないのです。

 それでは、どうすればよいのでしょうか。

 一つは、「人々が道徳的な考え方を共有する」ということです。それは、「子供も親も、隣近所のおじいさん、おばあさん、お兄ちゃん、お姉ちゃんも、みんなで道徳的な観念を共有し、社会としての人間関係、横の組織をもう少しつくっていく」という考え方です。そのためには、「助け合いの精神」が大事です。

 

家族には社会保障の機能がある

 家族には、「社会保障の機能」がある点も見落としてはならない。

 親が子を育て、親が働けなくなれば、子が親を看る。こうした「孝」の精神が大切にされていた時代には、両親が離婚しても、社会の乱れは起きづらかった。

 だが、現代では、国家が「個人の面倒をすべて看ればよい」という個人主義的な傾向が強まっており、その結果、社会保障費が青天井で増えている。そのため、政府は、社会保障のため という誤った美名のもとで増税を繰り返し、国民はますます貧困化に向かっている。こうした悪循環は断つべきです。

 家族内での社会保障の機能を高めるには、家族内のつながりを強くする方向が望ましい。社会の最小単位である家族のあり方を議論すべきです。

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