国家による失業補償

 失業している間、一時的に、何らかの救済手段があってもよいが、そうした補償をずっと続けるようなことを税金ですべきではない。格差をなくそうとしているのは、平等社会を目指すことで自由が死滅していく流れである。しかし、国家主導型の経済は、破滅へと至る道である。自由があるところに繁栄はあるから、できるだけ規制を少なくし、各人の力を発揮できるような国にしなければならない。自由と平等というのは、よくよく考えてみると、どちらも追求するのは簡単な話ではなくって、ぶつかってしまう理念です。自由を突き詰めると平等でなくなりますし、平等をつきつめると自由が失われます。

 そこで、「自由をとるか、平等をとるか」ですが、答えは明確です。

「自由をとれ。それが繁栄への道である」

 幸福の科学大川隆法総裁は、『未来産業のつくり方』で以下のように説かれておられます。

「江戸時代、「駕籠かき」という職業がありました。駕籠は、当時の交通手段であり、今でいうタクシーです。そして、明治維新以降、鉄道が敷かれるようになると、当然、駕籠かきはなくなっていきました。そうしたとき、社会福祉を中心に考える国家社会主義的な政府だと、「政府主導の下、鉄道が敷かれたことによって、駕籠かきという職業がなくなってしまい、申し訳ありません。その代わり、税金を投入して、職業上の損失を補償し、生活を保障します。そのためには増税しなければなりません」というようなことを考えるのです。これが、「大きな政府」の考え方です。しかし、現実には、その後、駕籠かきが復活することはありませんでした。残念ですが、時代の流れから見れば、駕籠かきでご飯を食べていた方々は、ほかの職業に転職せざるをえなかったわけです。失業している間、一時的に、何らかの救済手段があってもよいとは思いますが、そうした補償をずっと続けるようなことを、税金ですべきではないのです。鉄道の時代になったならば、鉄道会社に雇ってもらえるように頑張るしかありません。あるいは、駕籠かきができたような体力のある人なら、郵便局に勤めるなど、その他の職業に就くことは可能であったと思います。 するに、職を失ったことまで補償するようなことをしたら、財政赤字はいくらでも続き、税金をいくらでも取られるようになっていくのです。最終的に「自由」が死滅していく前には、まず統制経済が始まり、次は、必ず思想の統制に入っていきます。「自由をとるか、平等をとるか」という議論もありますが、今の民主党政権が、「格差社会は問題だ」と言って格差をなくそうとしているのは、「平等社会を目指している」ということでしょう。これは、自由が死滅していく流れです。ところで、自由を求め、突き詰めていき、もし失敗した場合に来るものは何でしょうか。それは、要するに、「強制執行で財産を差し押さえられる」ということです。会社の倒産もそうですが、これが自由の最終形態なのです。一方、平等の最終形態は、どこまで行くかというと、「死刑」です。「捕まって、最終的に死刑にされる」ということは、すでに共産主義社会で起きていることです。まずは“島流し”にされますが、その次は死刑にされます。政府を批判した人などが、政治的思想犯として死刑になるような事態が、歴史を見ると現実に起きています。私は、「国家主導型の経済は、基本的に失敗する。これは、最終的には、破滅へと至る道である」と考えています。やはり、自由があるところに繁栄はあります。自由があるところに、創意工夫や智慧が生まれ、各人の力が発揮されて、繁栄が来るのです。したがって、できるだけ規制を少なくし、各人の力を発揮できるような国にしなければいけません。私は、そう考えているのです。」