「治さない医療」から「治す医療」へ

 公的な医療保険と年金については、ピーター・ドラッカーは「大幅縮小」しかないとはっきり述べている。

 「いまや民主主義国家が、自らの財政を管理する能力を回復し、経済、社会、外交にかかわる政策を実行できるようになるためには、もはや管理不能となっている健康保険や年金や失業保険の大幅縮小が不可欠である。中流階級に対する社会保障関連支出が、民主主義国家の繁栄や健全性を損い、さらにはその生存さえ脅かしていることが明らかになって久しい」(『未来への決断』より)

 医療分野で、政府がサービスの値段や量の統制をやめれば、とたんに病院や医師の間であるべき競争が始まるでしょう。

 ある医師の調査では、患者の95%は「医者が関わらなくても、自然に治癒する病気」なのだという。現在、多くの病院が患者を薬漬けにし、「治さない」ことによって稼いでいるが、「医者が関わって初めて病気が治る」という、本来の仕事に立ち戻ることができる。よいサービスに対しては患者は高いお金を払うので、「治す」成果を上げる病院や医師はたくさん稼ぐことができる。

 飲食店で「うまくていいサービスの店」は流行る。そうでなければ廃れる。ごく当たり前の経済原理が働くということです。

 患者の側にとっては選択肢が広がり、自分に合ったサービスを選ぶことができるようになる。医療保険は、国民に民間の保険に入ることを義務づける。それでカバーできない医療サービスについては加算して支払う「混合診療」を導入する。結果として、医師の側の「治す」技術が高まり、たくさんの人を救うことができる。これで「治さない」ことで稼ぐ医療から、「治す」ことで稼ぐ医療へと転換する。ドラッカーの言葉を使うならば、「自らの能力に自信をもち、自らを発展させる力を高める」という考え方が、医療の中心部分に取り入れられるということにほかならない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『ザ・リバティ2014年7月号の論考「未来への羅針盤」』で以下のように説かれておられます。

「やはり、病院からの”卒業”がなければいけないわけです。治したと言う以上は、もう来なくても結構です、という段階がなければいけません」

 

新しい救世主が登場する

 ドラッカーは、福祉国家をめぐる時代の流れを以下のように俯瞰して見ていた。

 17世紀半ばまでは、カトリックやプロテスタントによる「信仰による救済」の時代だった。しかし、個人の心の救済はできても、さまざまな社会の問題に対する答えを出すことはできず、マルクス主義に代表されるような「社会による救済」の時代に取って代わられた。戦後の「巨大な福祉国家」はマルクス主義を薄めたものだった。そして、これもすでに終わりを迎えている。

 この点についてドラッカーは、『ポスト資本主義社会』で以下のように述べています。

 「1989年と1990年に起こった事件は、単なる『一つの時代の終わり』以上のことを意味していた。それは、いわば『一つの歴史の終わり』を意味していた。すなわちマルクス主義と共産主義の崩壊は、私がかつて『社会による救済に対する信仰』と名づけた一つの世俗的信仰によって支配されてきた250年に幕を降ろした」

 そのうえで、『新しい現実』の中では、これからの時代の「救世主」について以下のように予言された。

「こうして今や世界は、新しい救世を待ち望む状況にある。そして『社会による救済』の思想や、大革命という名の救世主再臨の信仰が崩れたからには、新しい種類の予言者と救世主が登場してくることになるのかもしれない」

 新しい国家モデルについてのドラッカーの提言を踏まえれば、こう言い換えられる。

 「能力や誇りや自立を取り戻す」という一見厳しいことを教える宗教が登場し、実際にそれを学んで「人間が変わった」という人たちが続出するならば、それは「新しい救世主」である可能性が高い。

 そして、その教えは「冷酷で非情な福祉国家」を終わらせ、「愛と慈悲の国」を新しくつくる革命を起こすでしょう。

医療改革 へ

「仏法真理」へ戻る