メソポタミアの古文書と聖書

 聖書の創世記における天地創造の物語は、メソポタミアの原典である「エヌマ・エリシュ」がその源になっている。聖書のエデンがシュメールのエディンである。聖書の大洪水やノアの箱舟の物語は、アッカドのアトラハシスの話や、「ギルガメシュの叙事詩」の初期の シュメールの洪水の話に基づいていることも確かである。聖書のアダムの創成の場面で使われている、複数形の「われわれ」という表現は、アヌンナキの指導者たちを指しており、「彼ら」の度重なる討議の末に遺伝子工学を利用してホモ・サピエンスが創られたと、シュメールとアッカドの古文書は示唆している。  

 そのメソポタミア版の古文書には、「原始労働者」として機能する人間を創るために、高度の遺伝子工学の技術を駆使したのは アヌンナキの主任技術者のエンキであったと述べられている。聖書の「われわれの形に、われわれをかたどってアダムを造ろう」という一節も、このエンキの言葉からの引用だと言われている。エンキの別名、ヌ・ディム・ムドは、「形づくる人」の意味であり、エジプト人もエンキを、プタハ「開発者」、「物を形づくる人」と呼んでいた。そして、彼が陶工のように、粘土から人間を創っている姿を描いている。ところで、預言者たちは主ヤハウエのことも繰り返し「アダムを形づくる人」と呼んでおり、それは決して「創造者」ではない。聖書の記述も、たびたび主ヤハウエをこの粘土から人間を形づくる人になぞらえている。高名な生物学者としてのエンキの紋章は、絡み合っている2つの蛇である。エンキが「アダム」を創るために、遺伝子操作を行なった本人である可能性を示している。その後、エデンの園のアダムとイヴの物語のように、再び遺伝子操作を行ない、子供がつくれるように改造したという。エンキのシュメールでの別名ブズルには2つの意味がある。その一つは「秘密を明かす神」で、もう一つは「鉱山の神」である。鉱山学の知識は地球の秘密とその深部の秘密だと考えられていた。  

 エデンの園のアダムとイブの物語では2回目の巧妙な遺伝子操作が行なわれ、彼らが知恵を得る引き金になったのは蛇だとされているが、聖書では子孫づくりのセックスに関わることをぼかしてこのように呼ぶ。ヘブライ語で蛇は『ナハシュ』と言う。この言葉も預言者、つまり「秘密を明かす人」を意味していて、エンキの別名の一つと同じ意味である。そのうえ、この言葉はヘブライ語の鉱物の銅を表すネボシェットと同じ語源から派生している。また、モーゼが「出エジプト」の際に、疫病を止めるために掲げていたナハシュ・ネホシェットとは、銅の蛇であり、蛇のしるしとはまさしくエンキの紋章である。 

参考

 メソポタミアの古文書と聖書の記述が最も一致しているのが大洪水の物語である。メソポタミアの原典では、エンキが彼の忠実な側近のジウスドラ/ウトナピシュティムに指示して、大洪水に備えて防水の巨大な箱舟を作るように命じ、そのために箱舟の仕様図と寸法図を与え、地上のあらゆる生物の「種」を、その箱舟に非難させて残すようにと命じている。

 一方、聖書では、まったく同じことが ヤハウエによって行なわれたと記述されている。

 ゼカリア・シッチンの『12番惑星ニビルからやって来た宇宙人』は、シュメールの文献を手がかりに聖書を科学的に読もうとする著作で、「アダム」が創られたときの事情を書いている。アヌンナキが地球にやってきたのは、ノアの大洪水より43万2000年前であるとしている。  

 エデンの園のアダムとイブの物語では、アダムとイブが子供をつくるセックスの知識を取得するきっかけは「ナハシュ」、つまり蛇のおかげであったが、ここでは蛇はヤハウエの敵対者として描かれている。

 ニビル星のアヌには、エンキとエンリルという腹違いの、常に対立していた仲の悪い兄弟がいた。シュメールの古文書には、南アフリカのアプスの金鉱で働かせるために、新しく形作らせた「原始的な労働者たち」を、「エンリル」がエンキに命じて農業と牧畜をさせるために、メソポタミアの エディンに移住させたと書かれている。 一方、聖書には、「アダムを連れて行って エデンの園に置き、これを耕させ、守らせた」のはヤハウエだったと記されている。(創世記第2章15節)。ここでヤハウエの役回りは、エンキからエンリルに入れ替わったように見える。そして、エデンの園の主として、アダムとイブに語り、2人の罪を責め、ついに彼らを追放したのは ヤハウエ、つまり エンリルであった。総合的に考えると、聖書のこの時点では ヤハウエは エンキではなく、むしろ エンリルの役回りに近いのである。

 メソポタミアの原典によると、人類の増加を望まず、大洪水を利用して人類の抹殺を計画し、やってくる大洪水のことを人間たちに知らせないように アヌンナキたちに誓わせたのは エンリルである。

 これに対し、聖書に記されているのは、人間に対し不満の声を上げたのはヤハウエであり、彼が地上から人類を一掃しようとしたのであった。(創世記第6章)シュメール文書の記述による大洪水の物語の結末は ジウスドラ/ウトナピシュティム(聖書ではノアとなっている)。

 生け贄をアララト山の上で捧げ、エンリルは肉の焼ける匂いを楽しみ、人間の存在を許し、ジウスドラと彼の妻を祝福したとある。一方、聖書の創世記では、ノアが祭壇を作り動物の生け贄を捧げた時、その「芳しい香りを嗅いだ」のは ヤハウエであった。個人的な性格では人類を創ったエンキは、アヌンナキの神々に対しても人間たちに対してもそんなに厳格ではなく、むしろ忍耐強いほうであった。一方、エンリルは厳格な性格で、法と秩序が絶対で妥協せず、罰が当然の場合はためらわずに処罰した。しかし、厳格なはずのエンリルも、一度性的乱交の罪を犯して一時追放されている。しかし、暴行した神の看護士ニンリルを後に妻として娶ったので、この罪は許された。エンリルは、アヌンナキ/ネフィリムと「人間の娘」との異星人間の結婚に反対していた。エンリルの厳しさは他のアヌンナキの神々に対しても同じであった。彼の性格には冷たさと同時にそれなりに人に報いるという別の面もあった。シュメール人たちは彼を敬愛して「父なるエンリル」、また「何でも持つ指導者」と呼んでいた。このようなエンリルの性格の二面性は、違反に対しては厳罰を、功績に対しては恩恵を、という聖書に描かれている ヤハウエの性格によく似ている。主ヤハウエは祝福することも、呪うこともできると、聖書の申命記にはっきりと述べられている。(第11章26節)主ヤハウエの戒律に従えば人々とその子孫たちは祝福され、収穫は豊かに家畜は増え敵は滅ぼされ、どんな商売でも成功する。しかし、主ヤハウエとその戒律を無視すれば、彼らの家や土地は呪われ災害に苦しみ、損害を受け、失われ、飢饉に見舞われるだろう(申命記第28章)。「主ヤハウエはいつくしみの深い神である」とあり、続く章には「ヤハウエは、ねたみ深い神である」とも述べられている。 

7と50という数字の重要性  

 これらの数字は自然現象に一致するものではない。しかし、聖書には7という数字が頻繁に登場する。7日目を清めて神に捧げる安息日とする習わしは、アヌンナキの神々の活動が始まった頃よりずっと続いていた。カインの罪の呪いは7回、7世代にあたり続くとされた。エリコの城壁を崩壊させるには、7回包囲する必要があるとされた。多くの聖職者の儀式は、7回繰り返したり、7日間続けられたりした。新年の祝いは、7ヵ月目のティシュレイに行なわれるように計画され、主要な休日は7日間続けるように定められていた。50という数は、「契約の櫃」や「聖なる幕屋、タバナクル」を作るのに必要な基本的仕様の数値であった。また、エゼキエルが幻に見たという未来の神殿の重要な要素になる数でもあった。さらに聖職者の儀式で、暦日を数えるのにも用いられた。アブラハムは50人の正しい者がいれば、ソドムの破壊を見合わせて欲しいと願った。また重要なものとしてはヨベルの年(安息年)があり、この年には奴隷は解放され、財産は元の持ち主に返されることになっていた。この年は50年ごとに来るように決められていた。(レビ記第25章)  なぜこの数字を持ち出したかといえば、7と50の数字は両方ともが、メソポタミア時代のエンリルに関連があるからである。エンリルは、「7の神」と呼ばれていた。なぜなら、彼は地球にいるアヌンナキたちの最高位の指導者で、つまり、7番目の惑星地球の最高司令官であったからである。そして、アヌンナキの数字で表される階級では、アヌ、つまりニビル星の統治者でエンリルの父親が最大の60の位にあり、エンリルはニビルの王位継承者として50の位にあった。エンキは40のランクであった。

 シナイ半島やソドムとゴモラにおいても彼らの役割は明快である。従って、聖書の記述とシュメールの古文書を比較することによって、誰がヤハウエで、誰がそうでないかがはっきりとわかる。メソポタミアの古文書からは、ソドムとゴモラを破壊したのは ネルガルであって、ニヌルタではなかったことがはっきりしている。一方、聖書ではこれらの都市を破壊したのは、状況を調べた2人の天使ではなく、ヤハウエ自身が鉄槌を下したことになっている。

 オラムとニビルの関係を明らかにする動かぬ証拠が創世記6章4節の記述の中にある。それはニビルから地球に来たネフィリムたち、つまり若いアヌンナキたちは「シェム(宇宙船)の人々」であり、「オラムから来た人々」だと記されている。ところで、メソポタミアの神話や天文学に詳しかった聖書の編者や預言者たちや聖歌の作者たちによって聖書にこの重要な惑星ニビルについての知識の「かけら」さえもがどこにも記されず、どこにも見られないのは非常に奇妙なことだと言わざるを得ない。

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