『迹門』と『本門』

『若き日のエル・カンターレ』と『永遠の仏陀』

 『「永遠の仏陀」講義』において、幸福の科学大川隆法総裁は、『平凡からの出発』と『永遠の仏陀』の教義上の位置づけの差異をはっきりと対比しておられます。

「釈迦の説いたお経では、『迹門』と『本門』というのがあります。当会で言うと、『平凡からの出発』みたいな本が『迹門』にあたるわけです。人間として生きて、努力研さんして、悟りを開いて、みずからも精進しながら教えを説いている。人間として生きるべき道をみんなに指し示している」「晩年になって、釈迦は急に違うことを言い始めます。『我は久遠実成の仏陀である』ということです。大昔から存在している仏であると言い始めるのです。これが『本門』です」

 一般的に、仏教教学では、「迹門」が仏法によって一切衆生が悟りを開くことができるという「仏性の普遍性」と「悟り=救済の普遍性」を表し、「本門」が仏陀の本質が決して同時代限りの存在ではなく、悠久の昔より存在し続ける「永遠の仏陀」であるという、仏の「永遠性と絶対性」を表したものとされる。であるならば、『若き日のエル・カンターレ』は、現代日本において平凡性から出発し、精進ののちに降魔成道し「現成の仏陀」となった大川隆法総裁を表しつつ、その「平凡性の自覚」が「人類普遍の真理」としての大いなる悟りにつながるという意味で、悟りの普遍性を表しているといえる。

 それに対し、『永遠の仏陀』とは、「一千億年の、その昔に、この大宇宙を創らんとする時にも、我は、すでに存在していた」という、「久遠実成の仏陀」としての主エル・カンターレの意識と姿を垣間見ることができる。そうした仏の絶対性・永遠性を表した経典であると言える。この観点を援用するならば、『永遠の仏陀』が仏の三身の「法身仏」を体現するなら、『若き日のエル・カンターレ』は「応身仏」を表しているとも言える。

 「迹門の教えと本門の教えは、別個でありながら相互に連関している」と言える。すなわち、『若き日のエル・カンターレ』は迹門としての全体構成のなかに、本門としての大宇宙の悟りにつながる論点を含んでおり、『永遠の仏陀』は終始本門の教えというスタイルをとる中に、人間としての精進のあり方が含まれている。同時に、両者は 大川隆法 というこの世に実在する仏陀としての統一した人格の中に存在しつつ、1988年から1991年の間に法として進化していると立体的に理解すべきなのです。

 さらに、「迹門」とは「本門」の地上的表象であることが言える。『永遠の仏陀』にて、大川隆法総裁は「私の後ろ姿を見て、おまえたちも、『あのように努力をすれば、やがては自分も、そのような境地に到達できるのではないか』と考えたはずだ」と説いている。この内容を、現代日本で人間として実証されたのが大川隆法総裁自身であり、その精進の過程の思想的歩みを半自伝的書物としたのが『若き日のエル・カンターレ』であるということができる。

 これに加え、『若き日のエル・カンターレ』は事実確認的に対置される極めて行為遂行的な経典ということもできる。つまり、大川隆法総裁の精進に思いを馳せ、修行の模範を感じ取り、自らの人生に展開させていく、そうした信仰者一人ひとりの人生を仏道へと導いていく行為遂行的な側面を強く持っているのです。

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