現代の「元寇」への秘策

 当時の元は世界一の超大国で、ヨーロッパとイスラム圏を丸ごと侵略してしまうぐらいの力があったから、国を守るため、北九州に防塁を何重にも築いて、九州の兵を鍛錬し、鎌倉武士を続々集結させていた。

 国難からこの国を救うというのが日本の神々の考えであり、そのために平安時代を滅ぼし、貴族化しかかった平家を滅ぼして源氏の世に変え、武家社会としていた。

 貴族化しなかった鎌倉幕府は、時代的要請に合っていたし運がよかったが、運だけではなく自力の部分があった。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『北条時宗の霊言 新・元寇にどう立ち向かうか』で元寇のときの執権・北条時宗の霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

「すでに、元はスーパー大国で、世界一の超大国だったわね。  ヨーロッパとイスラム圏が、「十字軍」で戦って決着がつかず、何百年も戦い続けていたけど、その彼らを、丸ごと侵略してしまうぐらいの力があったわけですからね。だけども、私は、単に拒否していただけではなく、攻めてきたときのための備えもやっておりました。例えば、北九州などに防塁を何重にも築いて、攻めてきたときの戦い方を考えていましたが、実際に、あれは大きな役目を果たしています。そういう“防波堤”をつくっておいたために、彼らは、すぐに日本が占領できなかった。鎌倉は、少し遠かったかもしれないけども、ヨーロッパを支配できたぐらいですから、とりあえず、九州を起点にして東征し、足の速い馬を使った騎兵で日本を占領する計画は持っていたと思うんです。ヨーロッパへ行くまでの距離を考えれば、日本列島の主要都市を押さえるぐらい、わけがないことですよね。ただ、海の戦いがあるので、造船しなければならず、それに何年か、かかっているわね。だから、その間に、こちらのほうは、防衛の準備をしていて、防塁を築き、九州の兵たちも鍛錬し、鎌倉武士たちも、西のほうに続々集結させつつあったわけです。「国家意識」が芽生えてはきていたわね。つまり、「国を守らなければ危ない」ということに対しては、九州の人も鎌倉の人も、意見は変わらなかったわけだ。  やはり、「武士社会があった」ということが、最大の強みだったね。  日本の武士道が根づいたのは「鎌倉時代」だと思いますけれども、うまいこと、日本の神様がたは、武家社会をつくる時代に入られたわけです。まあ、(元寇を)予知されていたのだとは思うけども、そうした「武士の精神」ですよね。たとえ、武器性能は向こうより劣っていたとしても、日本刀をつくる技術もあれば、甲冑をつくる技術もあり、また、弓矢をつくる技術も、槍をつくる技術もあったわけだし、向こうの馬には劣るかもしれないけれども、日本の馬もいたわけではあるのでね。そういう意味で、「侍社会があった」ということは、基本的には、「防衛体制を敷いていた」ということです。今あるような“平和主義”で言えば、「海を越えて攻めてくるわけがないから、平安時代のまま、貴族社会をやっておればいい」ということになるだろうが、平安時代を滅ぼし、もともと武士だったにもかかわらず貴族化しかかった平家まで滅ぼして、源氏の世に変えた。やはり、日本の神々のお考えは、「次に来る国難から、この国を救う」ということだったわけだ。それを考えると、京都に近い所にいたら堕落して貴族化するので、鎌倉から幕府を移さなかったのは、頼朝以下、鎌倉幕府の将軍および執権たちの見識の賜物であったかなと思う。そういう意味で、時代的要請に合っていたし、運がよかった。でも、運だけではなくて、「自力の部分があった」ということですね。」

 今、時代はまさに「元寇」の再来を迎えようとしている。

 かつての日本には、決して他国の脅威に屈しないリーダーがいた。史上最大の強大国であった元帝国の侵略を受けながら、真正面から戦いを挑み、「神 風」の助けも受け、2度とも元軍をほぼ全滅させるという“完全勝利”を成し遂げた日本の総大将、鎌倉幕府執権・北条時宗がその代表格です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、北条時宗の霊を招き、現代日本へのアドバイスを聞いた。時宗ならば、今の「新・元寇」とも言える中国の侵略に対し、どのような手を打つのでしょうか。

 

元の脅しに屈することなく、果敢に迎え撃った北条時宗

 日本滅亡の危機だった2度にわたる「元寇」。当時世界最大・最強の元帝国が、小国日本を占領しようと大軍隊を送ったが見事に撃退した。その勝利の背景には何があったのか。

 まず、元寇の経緯を振り返ってみます。

 軍隊を送る前段階として、元の皇帝フビライ・ハンは数回にわたり日本に国書を送り、恭順を促し、「従わねば軍を送る」と脅しをかけてきた。

 1268年に元からの最初の国書を受け取ったのは、執権に就任したばかりの北条時宗。このとき満17歳という若さだった。朝廷側はどう対応すべきか毎日 評定を続け、返書を書いたが、時宗はこれを拒否し、一切返答を送らなかった。その一方で、元軍の襲来に備えて九州の守りを固めた。超大国の元に対し一歩も 領土を譲らないという気概を示した。

 業を煮やしたフビライは、軍船約900隻、約3万の兵を日本に向け出陣させた。これが「文永の役」(1274年)である。

 まず元軍は圧倒的な兵力をもって対馬、壱岐を侵略し、多くの島民を殺害した。その際、捕虜にした男女の手のひらに穴をあけ、ロープで船壁に並べるという残虐な仕打ちを行ったということが、史実として遺っている。

 続いて元軍は、10月16日から17日にかけて平戸・能古島・鷹島を襲撃。20日には博多湾に上陸した。対する日本の武士たちは果敢に応戦する。日本軍 は約1万人で元軍の3分の1の兵力、しかも「てつはう(鉄火砲)」という火薬兵器まで元軍は持っていた。だが、武士たちはそんな新兵器に対しても臆することなく突進し、陣を破られても、意気衰えることなく立ち向かっていく。その勇敢さは元軍を震え上がらせたという。

 一日で元軍は水城まで進軍したが、日暮れとともに夜襲を恐れて兵を退き、船に帰還した。

 翌21日朝、驚いたことに元軍は博多湾から姿を消していた。夜間に暴風雨が起き、多くの軍船が衝突、沈没し、生き残った軍船もあわてて本国に引き返したのです。

 

2度の「神風」を呼んだ、時宗の信仰心

 だが、フビライは執念深い。1279年に南宋を滅ぼし占領すると、再び日本侵攻計画を立て、幾度も使者を送った。だが、時宗は豪胆にも2回続けて使者を 斬り殺し、断固戦う意志表示をした。怒ったフビライは、今度は軍船4400隻、約15万もの大軍を送り、日本を一気に制圧しようと企てた。これが第2ラウンドの「弘安の役」(1281年)である。

 日本側も、ただ待っていただけではない。時宗の指示で博多湾岸に約20キロに及ぶ防塁を築いて防衛を固め、弓矢などの武器にも改良を加えていた。そして、よく訓練された約4万の兵が4倍の敵とぶつかり合い、6月6日から約2ヵ月にわたる戦闘を続けた。

 緒戦で日本軍の反撃に遭い大敗した元軍は、各所で日本軍に圧倒された。壱岐島でも日本軍に攻め込まれて逃げ、援軍を待って平戸に上陸。さらに鷹島に移動し、7月27日、日本軍船と海戦した。

 ところが、7月30日、またしても巨大な台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没した。4400隻のうち生き残った船は200隻だったという。その後も生き 残った元軍を日本軍が掃討し、ほぼ壊滅させ、2~3万の兵士を捕虜にした。元軍のうち帰還できた兵士は1割と言われている(4割という説もある)。結果、元軍は2回とも大惨敗を喫したのです。

 史実を振り返ると、やはり鎌倉武士は強かった。当時世界最強だった元軍(その多くは高麗軍)との、4~5倍の兵力差にもかかわらず、よく防戦した。その ダメ押しとして「神風」が2度とも吹いたという形です。教科書には日本は劣勢で、神風で撃退したと書かれているケースも多いが、これは史実とは隔たりがある。

 日本が世界最強国に勝てた理由は、やはり国のトップであった時宗が脅しに対して毅然たる態度をとり続けたこと。時宗自身が禅宗に帰依するなど信仰心が篤く、全国の神社や寺に異国調伏の祈祷を指示し、国を挙げて祈りを捧げたことが大きい。

 時の亀山上皇と後宇田天皇は伊勢神宮に参拝し祈祷された。伊勢神宮の「風宮[かぜのみや]」(当時は「風社[かぜのやしろ]」)では弘安の役の際に、宝殿より赤雲一群が立ち出でるという神変が起き、その翌日に台風が元軍を襲ったとされている。

 

時宗の時代とそっくりな現代の情勢

 現今の中国・北朝鮮を、この時代に重ね合わせてみると、きわめて似通った構図であることが分かる。たとえば以下のような点です。

(1)中国は人口13億人という世界最大の人口を持ち、経済的にも日本を抜いてGNP世界2位となっている。

(2)中国の指導者が習近平氏という、世界制覇を企てている人物であり、過去世が元帝国の初代皇帝チンギス・ハンであったことが、幸福の科学の霊査で明らかになっている。

(3)元寇の時に主体となったのは高麗軍(朝鮮軍)であったが、今も北朝鮮が中国の尖兵として日本に脅しをかけている。

 さらに今の日本の状況と、元寇前の日本と比べるとどうでしょうか。

「戦争放棄」を謳う占領下の憲法を後生大事に抱え、一国平和主義にどっぷりつかってきた現代日本は、貴族中心の平和を謳歌していた平安時代とよく似ている。

 だが、平安末期に源氏と平家の武士勢力が台頭し、「武士の時代」がやってくると、質実剛健の気風が日本全体にみなぎってくる。1192年の鎌倉幕府の成立は、1206年のチンギス・ハンの皇帝即位と軌を一にしている。まるで隣国に巨大な軍事国家ができるのを見越して、日本を強靭なサムライ国家に変える 「日本改造計画」が進行していたのではないかと思えるほどである。平安貴族の時代がもう数十年も続いていたら、日本はひとたまりもなく元に征服されていたでしょう。

 今の日本に当てはめれば、戦後60年以上も平和が続き、北朝鮮が日本人を100人以上も拉致しても、ミサイルを発射しても、軟弱な対抗しかしてこなかった時代は、まさしく平和な時代が400年近くも続いた平安時代に当たる。

 幸福実現党立党を大きな転換点として、ようやく「自分の国は自分で守る」という主権国家として当たり前のことが浸透しつつある。

 だが、尖閣諸島における中国側の執拗な侵略行為を見れば、「日本侵略」のシナリオは着々と進んでいる。元寇の時代と比べれば、日本人の「国を守る気概」はまだまだ低く、日本のリーダーに時宗が登場する時代にまで至ってないように見える。

 果たして、「新・元寇」はあるのか? そして今の日本に「時宗」はいるのか? 「神風」は吹くのか?

 時宗の霊に、救国のリーダーとしての「秘策」を聞けるなら、安倍首相も防衛省も、どれほど心強いことでしょう。

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