メソポタミア、シュメールの神話

 中東・オリエント地方の文明の始まりは、現在のイラク地方のチグリス・ユーフラテスという二つの河の流域に、紀元前3000年以前から栄えていた いわゆる「四大文明」の一つであるメソポタミア文明です。そのはじまりはシュメール人によるものでしたが、やがてアラブ系のセム族の台頭によりそれに吸収されていきました。こうして、中東の神々が現れてくるわけですが、その中東・オリエントの「神」も、このメソポタミアのシュメールの神が最初になります。やがて、後代になってヘブライ人(ユダヤ・イスラエル人)の神「ヤハウェ」を生み出し、そこから「イエスの神」が生まれ、さらにそこからイスラームの「アッラー」が生まれてきます。一見違って見えるこの三つの宗教の神は「同じ神」なのです。それがどうして違って見えることになったのか、その本来の性格はどのようなものかを考える上でも、このシュメールの神話は重要な鍵となります。

 まず、このシュメールからセム族までの神の姿からみていきます。

 

天地創造と人間の創造  

 シュメール神話で最大の特徴として注目されるのが「天地の創造と人間の創造」です。この思想は中東・オリエントの最大特徴ともいえます。一般には「ヘブライ神話」で知られていますが、ヘブライはシュメールよりかなり後代の、しかも中東西部に展開した民族でした。しかし、彼等も同じ「セム族」に属し、したがって、シュメールとの関連も見られるわけです。有名な「ノアの方舟」の後、その子孫は「東に移りシナルの地に平野を得てバベルの塔を建てた」と語られているのですが、そのヘブライ神話にある『シナル』というのが「シュメール」のなまった言い方であるとされています。

 その天地の創造の物語ですが、初めに「天」と「大地」が造られ、そして「チグリス」「ユーフラテス」の河が造られ、そして、天には「天神アヌ」「大気の神エンリル」「太陽神ウトゥ」「大地と水の神エンキ」がおり、神々は相談して次ぎに何を創ろうかということになって「神々に仕えるものとして人間を造ろう」となって、そして、「女神アルル」を召し出して人間を造らせたのでした。そこに「穀物や知恵の神ニバダ」を送りました。ここにある「人間を神々に仕えるものとして創造した」という話は、ヘブライ神話での「アダムとイブ」の物語にそのまま現れてきます。また、人間界に穀物ばかりか「知恵」が必要であったというこの神話は、ヘブライ神話での「人間が禁断の木の実、つまり知恵の実を食べてしまい地上に追放された」という物語と通じています。

シュメール文明と「旧約聖書」の創世記

女神イナンナの冥界くだり  

 その他の神話としては、「女神イナンナ」の冥界くだりの神話が知られています。冥界くだりというのは、「植物の再生」と連なり「豊壌」を表しています。女神イナンナは、時に「金星」として、あるいは「愛欲・美の女神」などともされますが、本来は、太古の昔の「豊壌の女神」「大地母神」の神話的発展でしょう。彼女とその夫とされる「ドゥムジ」が後にセム族によって「タンムーズ神話」となっていきます。そこでは「イナンナ」は「イシュタル」という名前になり、「ドゥムジ」が「タンムーズ」となるわけです。女神イナンナは、自分の姉「エレシュキガル」が支配している冥界へと下る気になり、自分に仕える神「ニンシュプル」に、3日経って帰ってこなかったら他の神々の助けを求めるようにと言い置いて、たくさんの飾りを身に付けて下って行った。冥界に行き着くと、門番「ネティ」がおり、ネティはイナンナが降りてきたことをエレシュキガルに伝えた。生きている者が冥界に行くことはタブーであったから、彼女は不愉快に思ったが、その身に付けている飾りを取ってから入れるようにと伝えた。ところが、冥界には「七つの門」があって、そのため、イナンナはこれらの門をくぐった時には身ぐるみはがれたようになってしまった。しかし、冥界の神々は生きているものが勝手に冥界に入り込んだことを許さず、彼女を死刑にしてしまい、死体を釘に掛けてつるしてしまった。ニンシュプルは、3日経っても主人のイナンナが戻ってこないので、言いつけ通り他の神々に助けを求めた。しかし、他の神々は冥界との関わりを怖れて誰も助けにこなかった。だが「水・大地の神」である エンキ だけは救助に動き、彼は自分の爪から人間を作り出し食物と水を持たせて冥界に送り込み、イナンナを生き返らせた。しかし、彼女が地上に戻るためには、身代わりを置いていく必要があった。彼女はそれをさがしながら地上への道を辿るが、途中で夫 ドゥムジ と遭遇した。ところが、ドゥムジはイナンナが冥界で死んでいたのに、悲しんでいなかったことが判明して、イナンナは怒り、ドゥムジを身代わりにしたのです。一方、ドゥムジの姉で「植物の神」であったゲシュティンアンナがこれを知って、弟を助けようと冥界にくだり、半年はドゥムジが、半年はゲシュティンアンナが冥界にとどまることになった。この神話は、一見して明らかにギリシャ神話の「大地の女神デメテルとその娘、植物の種を表象するペルセポネ」の神話と通じています。つまり、植物の種は一度地中にまかれて死に、そこから再生して芽を出すという内容の神話です。

 このような具合に、シュメールの神話は原初的な「自然世界や人間についての理解」を伝えているのです。これはまた、ヘブライ神話の「豊壌の七年」の物語などに引き継がれています。

 

ギルガメシュ叙事詩  

 英雄神話として史上最古のまとまった物語になるシュメールの「ギルガメシュ叙事詩」は、「アッカド」「アッシリア」などに引き継がれて、全オリエント地方に広く分布することになって歴史をかいくぐり、今日にまで生き残ることになりました。この叙事詩は、オリエント地方の「神と人間」のあり方を伝え、特に「不死や真実の平安を得ることのできない人間の宿命」を語ってきて重要です。この「人間の弱さの自覚」が、中東・オリエントの宗教の鍵となってくると言えます。「ギルガメシュ」は、三分の二が神で三分の一が人間という「半神半人」の男であった。彼は南メソポタミアにある都市の一つ「ウルク」の王であった。当初は「暴君」として振る舞っていた。これに困ったウルクの人々は、「天神アヌ」に祈りを捧げた。「天神アヌ」は、このウルクの人々の願いを聞き届け、「女神アルル」を呼び出し、ギルガメシュに対抗できる者を作り出すように命じた。女神アルルは、「粘土」から毛むくじゃらの大男「エンキドゥ」を作り出していった。この「粘土からの人間の創造」は、後代の『旧約聖書』の創世記に見る「人間の創造」に現れてきます。エンキドゥは、野原にあって動物たちと暮らし草を食べ水飲み場で水を飲んでいた。このエンキドゥの姿を狩りに来ていた人間が見つけ、その野獣のような姿を自分の父に報告した。父は、息子にウルクの神殿に仕えている「遊女」を連れていき、エンキドゥを誘わせろ、そうすればエンキドゥも女を知って人間らしくなるだろうと知恵を授けた。息子は遊女を連れて野原に戻り、水飲み場へと行ってエンキドゥが現れるのを待っていた。3日目にエンキドゥがやってきたとき、遊女は言いつけられていた通りにエンキドゥに近づいて、胸元をはだけて誘い、着ているものを脱いでいった。エンキドゥは遊女に抱きつき、6日と7晩、彼女と交わり続けた。動物たちは逃げていったが、エンキドゥは力も抜けそれを追うこともできなくなっていた。ここでエンキドゥは「野獣」から「人間」になったというわけなのでしょう。この「女」が「男」を誘うというあり方は「アダムとイヴ」を連想させます。遊女はエンキドゥにウルクの城のすばらしさ、町のにぎわい、王ギルガメシュの力などを話して聞かせて、ウルクへ来るよう誘った。エンキドゥは、それを聞いて、彼女に自分をウルクにつれていくように頼んだ。ギルガメシュは、自分に「星」が落ちてくる夢を見て、母である「女神ニンスン」にその意味を尋ねた。母である女神ニンスンは、その夢はギルガメシュに対抗する者が現れるしるしであると説明した。一方、エンキドゥは、女に連れられてウルクの城門のところにやってきた。大勢の人たちが城門前の広場へと集まってきた。ギルガメシュも、城門を出てエンキドゥの前に立ちはだかった。二人は牡牛のようにぶつかり合い、家屋の壁は崩れ戸は飛び散った。戦いは延々と続き勝負がつかなかった。二人は互いにその力を讃え、二人は堅い友情で結ばれることになった。ギルガメシュは、親友となったエンキドゥとともに杉の森の「怪物フワワ(フンババ)」を退治に出かけることになった。フワワは巨大な龍であり、洪水、火災、死をもたらす怪物だったので、二人は「太陽神ウトゥ」の許しを得て、50人の部下をつれていくことになった。二人は武器の職人に大きな鉈や剣を作らせて、それを携えて出かけた。七つの山を越えた大遠征となり、二人は森の奥へと進んでいった。ここで、ギルガメシュは3つの夢を見た。ギルガメシュに山が崩れかかってくる夢、氷雨が通り過ぎていく夢、手足がしびれる夢であった。これは、親友エンキドゥの死やその後のギルガメシュの運命を暗示しているようです。良い夢ではなかったけれど、二人はさらに奥へと進んでいった。

 そして、出会ったフワワと激しい戦いとなりついにこれを倒した。こうして、二人は杉の木を伐採して、ユーフラテスの川岸へと運んでいった。杉の木は古代社会にあってはすべてのエネルギー、事物の材料として「生命」的なものでした。この「杉の森」を支配するということは、王・英雄の条件ともいえました。城へと戻ったギルガメシュは、身体を洗い、身なりを整えた。その姿は凛々しく立派であった。それをかいま見た「女神イナンナ(イシュタル)」は、ギルガメシュに言い寄り、自分の夫になれば宝玉と黄金の二輪車を贈ろうと言ってきた。しかし、ギルガメシュは、女神イナンナがこれまで愛しては捨てていった「鳥やライオン」「庭番」などを指摘して、その態度を非難した。イナンナは激怒して、自分の父になる「天神アヌ」のところにやってきて、「天の牛」をギルガメシュの都ウルクに送り込むことを懇願した。娘の頼みということで、「天神アヌ」もこれを承知し、「天の牛」はウルクへと送り込まれて、災害をもたらしていった。ギルガメシュとエンキドゥは、力を合わせてこれと戦い、ついにエンキドゥがこの「天の牛」を倒していった。しかし、これは「天」のものであったため、神々は会議を持ち、「天」に所属するものを殺したということで、エンキドゥの死の運命が決められた。エンキドゥは病に倒れた。ギルガメシュは涙を流しながらこれを見守っていた。エンキドゥは、夢うつつの中で自分をウルクに連れてきた女を呪った。そして、これから行く死者の国を夢に見た。鳥の姿をした冥界の死者が彼を冥界の女王「イルカルラ」のもとに連れていく。「暗黒の家」「入った者は出ることのない家」と呼ばれる冥界では、鳥のような翼を持った死者たちがチリや粘土を食べていた。エクキドゥは、12日寝台に横たわりそして死んだ。ギルガメシュは、エンキドゥとの出会い、杉の森への遠征などを思い出し、親友の死を悲しんだ。そして、その悲しみや死への怖れから、ギルガメシュは「永遠の生命」を求めて旅にでた。ギルガメシュはさまよい、やがて「双子の山」マーシュの山に達した。ここは「サソリ人間」の住む地であり、彼等は山のトンネルの入り口を守っていた。ギルガメシュは、そのサソリ人間の許しを得てトンネルの中へと入っていった。真っ暗なトンネルをどこまでも進んでいった。やっと明かりが見え、外にでると、そこは紅や青の宝玉を実につけた樹々が茂り、楽園となっていた。これが創世記の「エデンの園」のモデルとも言われます。しかし、内容的に符号するとはいえない。ギルガメシュは、さらに「永遠の命」を求めて旅を続けていった。死んだ親友エンキドゥのことが思い出される。しかし、旅の途中で出会った女は、彼に「永遠の生命」など求めず、故郷に帰って家族を喜ばせるが良いと忠告するのであった。この忠告は「人間は人間らしくあれ」という忠告でした。永遠の生命など人間は求めてはならないという忠告です。しかし、遂にギルガメシュは、「永遠の生命」を得たという「ウトナピシュテム」に出会うのです。しかし、彼はどうしてその生命を得たのかその理由を知らなかった。彼は自分の運命を語り出す。それによると、彼はシュルパックの町に住んでいたが、神々がこの町を大洪水によって滅ぼす決意をしたという。そのとき、神エアがウトナピシュテムに「方舟」を作って、一族や動物たちと共に乗り込むように忠告を与えた。そして、大洪水となって地を六日間荒れ狂った。方舟は「ニシルの山」に流れ着き、その後「鳩、ツバメ、大鳥」が放たれて水が引いたことが知られた。ウトナピシュテムは、方舟を出て神に感謝を捧げた。神々の間では「エア神」がウトナピシュテムの一族を助けてしまったことについて議論があったが、結局それを認めて、彼等には永遠の生命を与えて、遠方の河口に住まわせることにしたという。この部分が「ノアの方舟」と同じであることは有名で、しばしば引用される箇所です。ギルガメシュは、永遠の生命の秘密が分からないことに失望し、また、旅の疲れから、6日もの間眠り込んでしまった。そして、故郷に戻ろうとしたが、そうした彼を哀れんで、ウトナピシュテムの妻は、海中にある若返りの草を教えるのであった。ギルガメシュは海中に潜り、この草を得るのに成功する。そして帰路についたが、ある泉のところで水浴している時に蛇が忍んできて、この草を食べてしまったのであった(蛇の脱皮を説明)。ギルガメシュは落胆して、ウルクの故郷へと戻っていった。そうした彼のもとに、冥界に下ったエンキドゥの亡霊が現れ、冥界の様子を語って聞かせ、ギルガメシュも、死の運命を避けることはできないと告げるのであった。

 この「ギルガメシュ叙事詩」は、オリエント世界ばかりか、ギリシャ神話にも共通するテーマを含んでいる。特に「ウトナピシュテムと洪水」の話は、『旧約聖書』の「ノアの方舟」と全く同じモチーフであることで有名です。異文化の民族ギリシャ神話では、「デウカリオンの神話」として同じモチーフがあり、古代世界に共通した「自然の脅威」の物語なのかもしれません。例えば、「若返りの草」を蛇が食べてしまった話などは、「神話」に多くみられる「現象の説明話」の一つで、蛇が「脱皮」しては若返る(と思われていた)ことの説明ともなっていますが、内容的には、「蛇」というのはヘブライの「アダムとイヴの物語」で、イヴを誘惑して「禁断の木の実」を食べさせてしまう「邪魔者」として登場する。ここではギルガメシュの願望を邪魔する者として登場していた。しかし、何より注意されるのが、「永遠の生命」を求めてそれが得られない「人間の分限性」が語られていることです。これは、シュメール以来、その文化を引き継いだオリエントの人々に共通の観念となっていると考えられます。ヘブライ神話での神に追放される「アダムとイヴ」の物語にもこれが反映しています。

 エジプトの場合は、来世とか永遠性・再生・不死といった観念が強く存在して、「ミイラ」を始めとして、ピラミッドや巨大神殿など「地上に記念物を残す」という感覚が観察される。

 ギルガメシュ叙事詩では、「人は死んだら地下に葬られるだけ」「冥界は暗黒の世界でチリと泥の世界」というある種のあきらめがあり、人間には「永遠の生命」は決して得られないことが再三にわたって強く語られていました。エンキドゥが言っていたが、ギルガメシュは「三分の二」が神なのに、それでも駄目だとされていたのです。「女神イナンナの神話」でも、女神イナンナは一度死んでしまっていました。もっとも、彼女は後に復活できましたが。人間はそんな「永遠」を考えるのではなく、「死に至る前の今を楽しむしかない存在」だとされているのです。こうした「あきらめと現実の快楽の求め」という悲しみの境地を明確に乗り越える思想は、「イエス」を待たなくてはならないのでした。

 

バビロニア・アッシリアの神話  

 「バビロニアとアッシリア」が「シュメール」そして「アッカド」の後裔になる。したがって、その神話も「シュメール・アッカド」のものを引き継いでいます。  バビロニアの主神は「マルドック」、アッシリアの主神は「アッシュール」といい、この主神は彼等の独自性を主張するものなので、彼等に独自のものですが、他の神々はほとんどがが「シュメール・アッカド」以来のもので、したがって、名前もそのシュメール時代の原初の名前やアッカドのセム語名で呼ばれています。例えば、シュメールの「大気の神」エンリルは、シュメール時代にすでに「神々の父」とされていきましたが、これがアッカドに入って「ベル」と呼ばれ、そして、これが後のバビロン第一王朝時代になって、「主神マルドゥク」と合体して「ベル・マルドゥク」となって最高神になっているのに典型的に現れています。さらに、この「ベル」は西方では「バール」と呼ばれます。この「バール」は、ヘブライの神「ヤハゥエ」との抗争という形で「旧約聖書」に描かれてきます。ヘブライの神というのも基本的な「神」についての考え方は、「シュメール・アッカドの神」を引き継いでいると言えるのです。

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