「念い」と「時間」

 「全ての存在の根源には念いがある。それをあらしめようとする念いがある。その念いが表象化された姿こそが、この三次元世界である」ということです。「この三次元世界の存在はの根拠は、それを有らしめようとする力が確かにあるということである」と言えるのです。  

 人間が生きているのは、人間が現にあるのは、「人間よ、あれ」という念いが、そこにあるということです。人間を創ろうとする念いがあるということです。この念いがなければ、決して人間はできてこないのです。  

 具体的には、両親が子供を生むという形になっています。子供の材料そのものは、この世的な食事で得られたものからできるのでしょうが、そうしたものができる背景には、その子供をつくらんとする体の機能があります。機能に先立って、心の作用があります。その心の作用を創っているものは、他ならぬ仏の心なのです。

 遥かなる異次元世界の奥の奥の奥の奥にある存在としての仏が、四次元以降の多次元空間を創っています。そして、その同じ念いが、三次元世界という、特殊な物質化した世界を創り出しています。その念いのなかに、人間をあらしめようとする念いがあるのです。

 この地上を去った世界の住人、霊的な存在となった住人にとっては、念いが即、行動であり、行動が即、結果となって現れるということは、一つの常識なのです。即ち、「存在との根源とは念いであり、念いの根源は仏の意志である」ということです。仏の意志が個別の生命体を創り、個別の生命体を仏の意志を汲んで、さらに次なるものを創ってきたのです。それが、宇宙とこの地球を創ってきた歴史の秘密です。 この世界は、念いの世界であるということです。

 「聖書のなかに、「初めにことばあり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」という一説がありますが、この「言葉」を「念い」に置き換えたら、「初めに念いあり、念いは言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」。即ち、神とは念いであり、「念いがすべてを創った。念いの結果として言葉が発せられた」という事実があったのです。  

 仏は大いなる愛です。仏は、大いなる愛に基づいて、様々なものを創ってきたのです。仏の念いの原動力、仏が念いを発する原動力は愛にあります。

 次に、時間については、時間というものは、実は人生の秘密を解く鍵でもあり、人生存在の意味を解く鍵でもあるのです。存在という観点から世界を解釈することと、時間という観点から世界を解釈すること、この両者が三次元世界においては必要なのです。  

 もし時間というものがなければ、この三次元の現象はすべて、ストップした画面の如くになるでしょう。皆さんの生命を奪うには、刃物も銃弾もいらないのです。時間が止まれ、生命は消えます。存在していることの意味がなくなるからです。もし、時代というものが一瞬にして凍りついてしまったならば、その存在の意味がなくなるのです。仏は大変な発明家ですが、仏の発明の中で、時間の発明ほど大切なものはなかったでしょう。 この時間の発明こそが、実は世界を創った大いなる発明なのです。

 「念いによって表象を創っていく」という発明と、「時間によって世界を創っていく」という発明、これが実はに大発明なのです。仏は様々なものを創りましたが、この二つの発明ほど大切なものはありません。物体顕現の法則と、時間の法則です。即ち、時間というものは、存在の存在形式、あるいは存在の運動形式として認められているものであり、存在が運動形式を認められることによって、人間の歴史も宇宙の歴史も始まったのです。そして、存在に運動形式としての時間があることによって、実は発展が裏打ちされているのです。もし存在の運動形式としての時間がなければ、それは単なる静止の世界であり、何らの発展のない、変化のない世界となるのです。(若き日のエル・カンターレ 「存在と時間」より)