第2次世界大戦の日本

 日本が戦った第2次世界大戦は、「日中戦争」「東南アジアでの戦争」「対米戦争」の3つに分けて考えることができます。

 東南アジアでの戦争は、欧米の植民地支配者を追い出した戦争です。東南アジアの民族の解放、独立につながった歴史的に大きな意味のある戦争です。

 対米戦争は、日本がアメリカに追い詰められて、民族の自立、プライドを守るために、やむを得ず立ち上がった戦争です。結果的に負けましたが、戦わなければいけなかったという側面が強い。

 日中戦争はやらなくてもよい戦争でした。この戦争を仕組んだのは、ソ連共産党、コミンテルンと、その手先の毛沢東率いる中国共産党です。日本と蒋介石の国民党を戦わせ、両方を弱体化させようとした。侵略戦争だとは思いませんが、日本は挑発に乗らずに自重すべきでした。

 欧米諸国が中国大陸を植民地化したのは、天然資源や領土などを得ようとしたためである。

 その中で、大陸への進出が遅れたアメリカは、日本が満州に持つ鉄道などの利権を奪おうと国民党を支援。日中戦争時には、中立国を装って、航空機や義勇兵、武器弾薬などを提供した。

 当時の中国大陸では、内戦に外国勢力が加わり、「アメリカなどが支援する国民党」や「ソ連が支援する中国共産党」などの代理戦争が繰り広げられていた。

 日本による大陸への介入は批判されても、欧米側は批判されない。これは明らかにフェアではない。

 こうした事実があっても、なお、日本軍の行動は「侵略」と言い切れるのでしょうか。日本が「日中戦争」を戦った理由には一定の正当性がある。

 

日中戦争

 アジアに独立をもたらそうとした日本は、その後「日中戦争」に突入。戦後、この戦いは「侵略」と言われています。その根拠の一つとして持ち出されるのが、1919年に大陸各地で起きた抗日の「五・四運動」です。

 しかし、この運動の背後には、共産主義・ソ連の存在がありました。ソ連は東部国境の安全を確保するために、日中を戦わせようと色々な策略を講じました。これらの影響で、反日運動が過度に盛り上がり、さらには、日中の和平交渉も干渉されて挫折。日中は、ソ連の安全確保のために戦いを続けさせられたのです。

 また、当時日本が統治していた満州では、出稼ぎ目的の朝鮮人が多く流入。現地人との争いが絶えませんでした。1931年7月には、水路の工事をめぐって朝鮮人と現地人が小競り合いになり、介入した日本の警察と現地の農民が衝突(万宝山事件)。さらに、朝鮮人の怒りが飛び火して、朝鮮半島の中国人街が襲われました。

 しかし、中国側は一方的に日本の仕業として批判。その後も、日本軍人が国民党軍に殺される事件などが起きたため、日本の対中感情は悪化し、「日中戦争」が起きました。

 つまり、「日中戦争」が起きた背景には、ソ連の工作や中国側の思惑があったのです。大陸での日本の戦いを「侵略」と断じるのは一方的です。歴史を見る時は、出来事が起きた原因を冷静に分析する必要があります。

 日中戦争が起きた背景には、大陸への介入を自重していた日本を、中国の軍閥が戦争に引き込んだ事実がある。 もともと、日本が大陸に本格的に進出したのは、日露戦争に勝利した1905年以降である。ロシアから満州(中国東北部)にある南満州鉄道などの権益を得たことで、日本人移民や投資が増えた。

 清朝が倒れた後、軍閥の一つであった国民党軍は大陸の統一を目指して、1927年、南京を占領した際に外国人領事館を襲った(南京事件)。当時の軍閥は占領した都市で、当然のように略奪・強姦し、抵抗する人々を虐殺。街に放火するなどの悪習があった。

 これに欧米は報復したが、日本は国際協調を唱えて応戦しなかった。この日本の平和外交が軍閥を勢いづかせた。1928年にも、山東省の済南で日本人居留民の虐殺事件が起きた。

 その後も、日本人が死傷する事件が続発し、1937年には、国民党軍が、上海の日本人居住区を数万の兵で包囲すると、日本政府も大量殺戮を恐れて上海に派兵。両軍は全面衝突し、戦線が拡大した(第二次上海事変)。

 

日本は共産主義に対抗した

 日本が国民党よりも恐れていたのは、大陸の北にある共産主義国家・ソ連であった。暴力革命を肯定する共産主義が日本に蔓延すれば、皇室や神道などの伝統が破壊されるためである。

 ソ連は、1921年に中国共産党を結成させ、1924年には社会主義国家「モンゴル人民共和国」を建国させるなど、着々と共産主義を広めた。

 そこで、満州の日本軍部は、ソ連からの宗教弾圧を警戒していたイスラム教徒やチベット仏教徒などと協力し、共産主義に対する防波堤を築こうとした。「満州」はその要であった。

 清朝が倒れて行き場を失くした満州族を救う意味もあり、日本軍部は、1932年、清朝最後の皇帝・溥儀を元首とする「満州国」を建国(満州事変)。その後も、モンゴルやウイグルに反共産主義国家をつくろうとした。

 一方、ソ連は、1935年、日本と国民党を戦わせ、日本と大陸を共産化する計画をまとめる。ソ連の操り人形である中国共産党は、1937年、北京近くにいた日本軍と国民党軍を銃撃。双方を勘違いさせ、両軍を軍事衝突させた(盧溝橋事件)。

 だが、日本の敗戦後、共産主義国と自由主義国が対立する「冷戦」が世界を覆い、中国共産党の独裁国家が生まれたことを考えれば、日本の大陸への関与は「反共」の意味合いが強かったと言える。

 

 先の大戦での日本軍の評価について、国論が割れています。特に、支那事変(日中戦争)については、侵略者として日本を位置づけた「村山談話」をはじめ、日本軍は悪魔の軍隊であったかのような根強い意見もあります。

南京事件(1927年3月24日)

 「南京事件」とは、中国大陸の統一を目指していた中国国民党の軍(国民革命軍)が、南京を占領した際に、日本を含む外国の領事館や住宅を襲い、略奪や殺害などを起こしたものです。

 事の発端は、日本の森岡正平領事が、国民党軍に抵抗の意思がないことを示すため、領事館の武装を解除したことです。「日本が無防備である」と悟った一部の国民党軍は、突如として領事館を襲撃し、物品を奪ったり、守っていた日本兵を負傷させるなどして、乱暴狼藉を働きました。しかし、日本側は国際協調の方針を優先し、反撃しませんでした。

済南事件(1928年5月3日)

 こうした弱腰外交が、次なる事件である「南京事件」につながりました。

 事件が起きた原因は、国民党軍のトップである蒋介石が、済南(山東省)の治安維持を約束したことを受けて、日本側が警備を解いたことにあります。日本側が武装解除した直後、国民党軍は約束を反故にし、日本を襲撃。略奪や強姦、殺害等のあらん限りの蛮行を行ったのです。これに対し、日本軍は中国側に反撃し、済南を占領することで事件を終結させました。

通州事件(1937年7月29日)

 北京郊外で「冀東防共(きとうぼうきょう)」自治政府の保安隊が、婦女子を含む日本人居留民を襲撃し、約260人を虐殺した事件です。この時、中国側の殺害方法が日本人の常識的な感覚から見ても、あまりにも猟奇的なものだったため、日本の対中感情の悪化につながりました。

 その後、日本は中国との間で、できる限りの譲歩案を盛り込んだ和平交渉(船津工作)を行おうとしました。しかし、蛮行事件はやまず、全面戦争に踏み切りました。

 このように、支那事変(日中戦争)前の中国大陸では、多数の日本人が殺されたため、日本軍(特に満洲の関東軍)が大陸に軍隊を派遣し、戦線を拡大させた経緯があるのです。

 事変中の日本が掲げていたスローガンが、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(暴虐な支那を懲らしめよ)であったことも、そうした事情を反映しています。中国大陸への介入には、「野蛮な民族をどうにかしたい」という国民の強い世論があったと言えます。

 しかし、歴史教科書や平和主義を称する左翼陣営では、なぜか日本側の被害に注目することはありません。そこには、侵略者としての日本を印象づけたい思惑があるのでしょう。ですが、それは歴史を正しく見ない不誠実な態度と言わざるを得ません。中国大陸に介入した日本には一定の正当性があり、「侵略」とは言い切れないのです。

 中国の海洋進出の脅威を実感している国ほど、日本の軍事的プレゼンスを求めている。

 日本は、明治以来、「不当な侵略主義」からアジアを守る「平和と正義の守護神」であった。アメリカが「世界の警察官」の役割から緩やかに降りようとしている今、「世界の恒久平和のために尽くす」使命が日本に託されようとしている。「大川談話―私案―」はその出発点である。

 アジアの国々の多くは軍事的にアメリカの庇護下にあるため、「先の戦争は、民主主義のアメリカとファシズム国家・日本の戦いだった」という歴史認識に事実上縛られている。しかし、日本が再び世界のリーダーとして立ち上がる時、アジア・アフリカの国々に言論の自由がもたらされる。そこから、欧米によるこの500年間の侵略と植民地支配の歴史の見直しが始まるのです。

 

「八紘一宇」 アジア植民地の解放を意味する

 「八紘一宇」は、日本の初代天皇である神武天皇が建国の詔勅で述べた「八紘をおおいて宇と為さん(人類は みな同胞であり、天下を一つの家のようにする)」という言葉から生まれた標語です。

 同語は、戦時中、近衛文麿内閣の下で掲げられた。その背景には、欧米の人種差別や植民地主義により、アジア諸国が大きな苦痛を受けていたことがある。日本はアジアの共存・共栄を目指す「大東亜共栄圏」を形成し、欧米の植民地支配を終わらせようとしていた。

「八紘一宇」の意味は「人類愛」「アジアの安全保障」 

 「八紘一宇」は決して侵略を正当化するものではない。この言葉は、理念としては「普遍的な人類愛」、外交的には「アジアの安全保障」として理解すべきである。

 第二次世界大戦について、「連合国がどんなに『日本は間違っていた』と言おうとも、日本の戦いがアジアにおける欧米の植民地支配の幕を下ろさせた事実は誰も否定できません。

 実際、1919年の国際連盟のパリ会議で、日本は世界で初めて、国際会議の場で人種差別の撤廃を掲げた。「人類愛」は決して偽善ではなかった。

 

 そもそも、先の大戦で日本の開戦のきっかけを作ったのはアメリカである。アメリカは日本に対して、国家の生命線である、石油などのエネルギー源の禁輸を行うなどして、日本を開戦に追い込んだ。侵略行為を受けたのは日本なのです。「八紘一宇」を問題視する日本の風潮には再考が必要です。

 「八紘一宇」は、初代の神武天皇が即位式で「八紘(あめのした)をおおいて、宇(いえ)と為さん(天下をくまなく治め、一つの家のようにしたい)」と宣言した建国の理念である。「それまで地域の豪族間で戦争が続いたが、それを終わらせ、家族のようになろう」と呼びかけたのだった。

 この日本民族の原点にある平和思想は、討幕派の吉田松陰にも幕府の堀田正睦にも共有されていた。そして、この「八紘一宇」の精神が、「欧米の侵略と搾取から開放し、アジア諸国の共存共栄を実現する」という1943年の「大東亜宣言」に結実した。

ファシズム

 太平洋戦争は「ファシズム対民主主義の戦い」ではなかった

取り戻すべき日本の誇り

 先の大戦は、「アジアの同胞を解放するための聖戦」と位置づけています。

 実際、日本は戦争には敗れましたが、ことごとく欧米列強に侵略されていたアジアの国々が、日本軍の快進撃を見て、自らの力を信じて立ち上がり、多くの国々が欧米の植民地支配からの独立を果たすきっかけとなりました。

 例えば、第二次大戦の時、イギリスに「プリンス・オブ・ウェールズ」という、当時「世界最強」と言われた戦艦がありました。多くのイギリス人がこの戦艦を国の誇りに思っていました。

 ところが、1941年12月のマレー沖海戦で、日本軍はこの戦艦を戦闘機の攻撃によって撃沈しました。これは、チャーチルが回顧録の中で「第2次世界大戦で最も衝撃を受けた事」と言われるほどの大きな事件でした。

 当時は、戦闘機が戦艦を沈めるということは考えもできなかったのですが、この常識を簡単に覆す日本の戦闘機及びパイロットの技術は、既に世界最高水準に達していた事を示す出来事でもありました。

 日本の技術は戦後に発展しただけではなく、戦前、戦中においても、世界最高水準に近いものがあり、アジアに「日本」という国があるということが多くの国々の希望にもなっていたのです。

 日本神道とキリスト教支配との激突

日米開戦の理由

 幸福の科学大川隆法総裁は、『東條英機、「大東亜戦争の真実」を語る』)で、その戦争の開戦時の総理大臣だった東條英機の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

「「日本人は猿だ」という認識であって、明らかなる人種蔑視政策をとっておった。  また、日本からは、アメリカに、だいぶ移民が行っておったわけだけれども、戦争の前には、すでに、日本人移民排斥法(排日移民法)なるものがあり、西海岸の日本人たちは排斥されて、そうとうひどい目に遭っておった。(中略)その原因の一つとしては、やはり、「満蒙に対して、わが国の支配権が及んだことを面白く思っていなかった」ということが大きいと思うんだな。(中略)同じく、アメリカも取ろうとして、「共同で開発させろ」と言ってきたわけだ。しかし、日本は、実質上、先に手に入れていたものであるから、仲間に入れなかった。そういうあたりから嫌がらせが始まっておるわね。ただ、こちらからすれば、「地政学的に見て地球の反対側のアメリカが満州地域に来て、ヨーロッパに遅れて植民地をつくるから、日本と半分こしよう」というのは、やや虫がいい提案ではあったわな。アメリカは、インディアンの土地を取って居留地に追いやり、ハワイを取り、グアムを取りして来ているわけだよ。まあ、中国については、「日本が侵略した」と言っているが、しなければ、たぶん、アメリカが侵略していますよ。彼らは、少し後れを取った上に、この東洋に日本という強い国があったので、これが邪魔で、目障りでしかたがない状態であったと思うんだな。(中略)そのしっぺ返しが、石油の禁輸だ。ABCD包囲陣(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダによる対日経済封鎖)を敷いて、日本に原材料や石油等が入らないようにすれば、日本は機能しなくなる。軍艦があったって、重油がなければ動けやしないし、発電もできない。「一滴もない」とは言わないけれども、そういう、燃料の部分が弱点だったね。彼らは、「それをやれば、日本が必ず南のほうに進出する」ということは知っていた。当然、計算はしていて、インドネシアや、その他、油田が見込める所に、日本が行くことは知っておって、それが計画に入っていた。南方に攻撃をかけさせるつもりがあったわけで、日本を締め上げれば、絶対にそうするのは分かっていて、やっていたんだよ。それは、向こうの仕組みどおりにやらされたと私は思うし、それを知ってはいたけども、やらざるをえない状況にあったわね。まあ、少なくとも、オーストラリアの北部にまで至る南方戦線について、アメリカは、日本が攻撃を仕掛けてくることを事前に想定し、大正時代には、図上演習が終わっておった。実際に、戦争の二十年近く前から計画ができていたし、ハワイへの奇襲まで予想して作戦のなかに入れていた。そのことは、あらかじめ言っておきたいと思う。そこに追い込んでいったのが現実だよ。」

 

日米開戦の理由

 幸福の科学大川隆法総裁は、『東條英機、「大東亜戦争の真実」を語る』)で、その戦争の開戦時の総理大臣だった東條英機の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

「「日本人は猿だ」という認識であって、明らかなる人種蔑視政策をとっておった。  また、日本からは、アメリカに、だいぶ移民が行っておったわけだけれども、戦争の前には、すでに、日本人移民排斥法(排日移民法)なるものがあり、西海岸の日本人たちは排斥されて、そうとうひどい目に遭っておった。(中略)その原因の一つとしては、やはり、「満蒙に対して、わが国の支配権が及んだことを面白く思っていなかった」ということが大きいと思うんだな。(中略)同じく、アメリカも取ろうとして、「共同で開発させろ」と言ってきたわけだ。しかし、日本は、実質上、先に手に入れていたものであるから、仲間に入れなかった。そういうあたりから嫌がらせが始まっておるわね。ただ、こちらからすれば、「地政学的に見て地球の反対側のアメリカが満州地域に来て、ヨーロッパに遅れて植民地をつくるから、日本と半分こしよう」というのは、やや虫がいい提案ではあったわな。アメリカは、インディアンの土地を取って居留地に追いやり、ハワイを取り、グアムを取りして来ているわけだよ。まあ、中国については、「日本が侵略した」と言っているが、しなければ、たぶん、アメリカが侵略していますよ。彼らは、少し後れを取った上に、この東洋に日本という強い国があったので、これが邪魔で、目障りでしかたがない状態であったと思うんだな。(中略)そのしっぺ返しが、石油の禁輸だ。ABCD包囲陣(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダによる対日経済封鎖)を敷いて、日本に原材料や石油等が入らないようにすれば、日本は機能しなくなる。軍艦があったって、重油がなければ動けやしないし、発電もできない。「一滴もない」とは言わないけれども、そういう、燃料の部分が弱点だったね。彼らは、「それをやれば、日本が必ず南のほうに進出する」ということは知っていた。当然、計算はしていて、インドネシアや、その他、油田が見込める所に、日本が行くことは知っておって、それが計画に入っていた。南方に攻撃をかけさせるつもりがあったわけで、日本を締め上げれば、絶対にそうするのは分かっていて、やっていたんだよ。それは、向こうの仕組みどおりにやらされたと私は思うし、それを知ってはいたけども、やらざるをえない状況にあったわね。まあ、少なくとも、オーストラリアの北部にまで至る南方戦線について、アメリカは、日本が攻撃を仕掛けてくることを事前に想定し、大正時代には、図上演習が終わっておった。実際に、戦争の二十年近く前から計画ができていたし、ハワイへの奇襲まで予想して作戦のなかに入れていた。そのことは、あらかじめ言っておきたいと思う。そこに追い込んでいったのが現実だよ。」

 アメリカは、満蒙を植民地にしたかったのが日本に反対されてできず、日本という強国が目障りでしかたがなかった。

 開戦前から、排日移民法で日本人の移民をひどい目に遭わせ、ABCD包囲陣で石油を禁輸して日本を南方進出へと追い込んで行ったが、大正時代にはハワイへの奇襲まで予想して作戦のなかに入れた図上演習が終わっていた。

 日米開戦は、向こうの仕組みどおりにやらされたと思うし、それを知ってはいたけども、日本は戦争をやらざるをえない状況にあった。

 

太平洋戦争の本質は「日米覇権戦争」

 亡国史観が日本に広がったきっかけは太平洋戦争の敗戦でした。

 この戦争を、多くの人が「弱い日本」が「強いアメリカ」に挑んだ無謀な戦争と考えるかもしれない。また、保守的あるいは右翼的な人々は「日本の自衛戦争だった」と考えている。

 だが、歴史の大きな流れを見ると、太平洋戦争は「日米の覇権戦争」だったことが分かる。

 

国力を伸ばす2つの新興国

 なぜ、先の大戦で日本とアメリカが戦わなければならなかったのでしょうか。

 1868年に新政府軍と旧幕府軍が戊辰戦争を戦い、明治政府が正式な政府となった。明治政府は、欧米列強から国を守るために富国強兵・殖産興業に励み、日清、日露戦争で連戦連勝。国際社会に国力を示すことで、不平等条約である治外法権の撤廃、関税自主権の回復を実現した。

 その後も、満州建国など破竹の勢いでアジアへの影響力を広げたが、途中の中国大陸での戦いに侵略的な面があったことは認めざるを得ない。

 一方、アメリカでは、1861年の国を二分する南北戦争で北軍が勝利。統一された後のアメリカは、移民の流入も手伝って国力を伸ばし、米西戦争でスペイン艦隊を撃破。グアムやハワイの島々を割譲するなど海を越えてフロンティアを西に求め続けた。

 ここで重要なのは、日本が統治する台湾とアメリカが統治するフィリピンの位置関係である。当時、蒸気船で1日の距離であり、日米両国のこの地域への進出が後の衝突を運命づけた。

 

日本は「自衛のため」「アジア解放・人種差別を打ち砕くため」に戦った

 当時の日本は、なぜ米国を中心とした国々と戦わなければならなかったのでしょうか。理由はいくつかあるが、大きく2つ挙げられる。

 

日本の自衛のための戦争

 先の大戦は、日本の安全保障と「自存自衛」のための戦争でした。

 長期スパンで日本の近現代史を俯瞰すれば、1853年に浦賀沖にアメリカ合衆国のペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊が来航以来、大東亜戦争終決に至るまでの歴史は、日本にとって「欧米列強から日本を守り抜くための百年」だったと総括できます。

 特に、日米開戦に当っては、アメリカはABCD包囲網を形成し、日本への石油禁輸など、「経済戦争」をしかけて来ました。これは、アメリカによる事実上の「先制攻撃」と捉えることもできます。

 村山談話は、1941年の対米戦争も「侵略」としている。だが、この戦争の背景に、当時の新興国同士だった日米の覇権争いがあった事実を見過ごしてはならない。

 19世紀中ごろ、日本とアメリカは内戦を経て国がまとまった。その後、日本が台湾、アメリカがフィリピンを統治した辺りで、日米の衝突が運命づけられた。

 他の国と比べて、中国大陸の権益争いに乗り遅れたアメリカは、大陸における日本の権益を奪うため画策。日本人移民がアメリカに持つ資産を取り上げるなど、人種差別政策を行った。

 それでも大陸から手を引かない日本に対し、アメリカは、ABCD包囲網で経済封鎖。石油の約8割をアメリカから輸入していた日本は、資源が入らなくなり、国家的な危機に陥った。日本は生き残りをかけて、対米戦争を起こし、資源がある東南アジア地域に進出した。

 アメリカが、覇権争いで邪魔になった日本を大陸から追い出そうとしたため、日本は戦わざるを得なくなったのである。

(注)  ABCD包囲網 アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)による対日経済封鎖のこと。4国の頭文字をとって、「ABCD包囲網」と言われる。日本に対する石油の禁輸措置や外国にある日本の資産凍結などが行われた。

 日本が戦争を始めた理由は、フィリピンを初めとする東洋へのアメリカの進出を、いかに日本が恐怖に感じたかを理解しなければ分からない。

 1941年に、アメリカが日本への一切の石油資源の供給を絶った時の日本の感じた深刻さも無視することはできないでしょう。真珠湾攻撃を一方的に卑劣だと非難することはあたらない。

 先の大戦が「日本による侵略戦争」でなかったことについては、戦後、連合国軍総司令官であったマッカーサー氏自身が、日本が大東亜戦争に突入していった原因は「主として自衛のために迫られてのことだった」と証言している。

 大戦前の1929年に世界恐慌が起こると、欧州諸国は自国の経済を守るために、植民地を含めた「ブロック経済体制」を敷き、外国との貿易に高い関税をかけた。一方、広い経済圏を持たない日本は、満州人が求めていた満州国の建国を助けるなどして、中国大陸に活路を見いだした。

 ところが、中国大陸で権益拡大を狙っていた米国との間で利害がぶつかる。米国は「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖で、石油などの資源が日本に入らない仕組みをつくった。資源小国の日本は追いつめられ、自衛のために対米戦争に踏み切らざるを得なくなった。

 

欧米によるアジアの植民地支配や人種差別を撤廃するために戦った

 次に挙げられるのは、「日本は、欧米によるアジアの植民地支配や人種差別を撤廃するために戦った」という点である。

 20世紀初頭、米国では日本人の排斥が始まった。各州で日本人移民から帰化権や国籍を剥奪する動きが加速し、1924年には米連邦議会で日本からの移民を実質的に禁じる「絶対的排日移民法」が成立。日本人の中に米国への嫌悪感が高まっていった。

 こうした流れの中で、日本は、欧米の植民地にされていたアジアの解放を掲げて戦い、次々と欧米の軍隊を撃破。これをきっかけに、欧米列強に支配されていた フィリピン、インド、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、シンガポールの人々が立ち上がり、独立を勝ち取っていった。戦後もこれらの多くの国は親日的である。

 先の大戦で、日本は正当な自衛権を行使するとともに、欧米列強からアジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕いた。これは明らかに「聖戦」であった。

 

日本は世界の希望の光

 1943年、日本は「白人支配からアジアを解放する」という大義をアジア諸国と共有し、世界に発信するため、世界初の有色人種サミット「大東亜会議」を東京で開催します。

 集まった7ヵ国代表の多くは、インドのチャンドラ・ボースやビルマのバー・モウなど、日本の援助の下、自国を欧米の植民地支配から独立させるために戦ってきた指導者たちでした。

 各々が情熱的な演説をし、議長の東條英機は「大東亜戦争は実に破邪顕正の聖戦」と宣言した。チャンドラ・ボースは、日本を「全世界の希望の光だ」として讃えました。

 注目すべきは、会議で、東條がこれからのアジアについて、「相互に自主独立を重んじ」「自己の繁栄のために他民族、他国家を犠牲にするが如き旧秩序とは根本的に異なる」と繰り返し述べている点です。つまり、日本はアジア各国を虐げたどころか、「他民族の尊重」を旗印にしていたのです。

 実際、日本は戦後のアジア解放を達成しました。「人種平等の父」である故・ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領も、「大東亜戦争の日本に感動した。日本に行きたい。天皇陛下にお会いしたい」と語っていました。

 日本が掲げた「八紘一宇」は、名実ともに人種平等の理想であり、日本軍はそのために死力を尽くして戦ったのです。

 大東亜会議では、共存共栄や独立尊重、互恵提携などの五原則を内容とする「大東亜共同宣言」が採択され、アジア人によるアジアの連携が初めて形作られたのです。

 この宣言は戦後のアジアにも影響を与えました。1955年、独立間もないアジア・アフリカ29ヵ国は、インドネシアで、反植民地主義を旗印にした「バンドン会議」を開催。この会議で出された宣言の内容は、基本的に大東亜共同宣言と同じものでした。

 また、日本が戦時中に受け入れた東南アジアの留学生の一部が、マレーシアやインドネシアで会合を持ったことで、後の東南アジア諸国連合(ASEAN)が創設された。

 一方、大東亜戦争の戦勝国である英米などは、戦後、国際連合を創設しますが、国連憲章の中に人種平等の理念が加えられているのも、大東亜共同宣言の影響を受けたためです。実際、開戦前にまとめられた構想には、人種平等の文言はなく、大東亜会議が開かれた後に人種平等の理念が付け加えられました。

 大東亜戦争は、アジアから植民地を一掃し、有色人種への差別をなくしたばかりか、バンドン会議やASEANの結成、さらには国連にも影響を与えた戦いなのです。現代の日本人はそうした歴史の真実を誇りとすべきです。

 

アジア諸国の解放・独立をめざした日本

 そもそも、先の戦争は、ファシズムの日本と民主主義の米英との戦いだったのでしょうか。

 1941年12月、開戦直後の閣議で、この戦争の名を「大東亜戦争」とすることを決めた。「東亜新秩序の建設を目的とする」という理由からであった。その新秩序の中身は、大戦中の1943年11月の「大東亜宣言」に盛り込まれている。

 「アメリカやイギリスは、自国の繁栄のためには、他国や他民族を押さえつけ、特にアジア諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、アジアの人々を隷属化する野望をむき出しにし、ついにはアジア諸国の安定を根底から覆そうとしている」

 「そこで、アジア各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放し、その自存自衛をまっとうする」

 この宣言は、日本軍が米英軍を駆逐して独立したフィリピンやビルマ(ミャンマー)などの首脳が東京で一堂に会した史上初のアジア・サミット「大東亜会議」で採択された。

 宣言は、大戦の原因が米英による「飽くなき侵略と搾取」が大戦の原因だと指摘し、人種差別の撤廃など5原則を掲げた。そして、大東亜戦争の目的は、欧米による植民地支配からのアジア各国の解放にあることを明確にうたった。

 

「民主主義対ファシズムの戦い」ではなかった

 その後も、アメリカは、ヨーロッパが主戦場となった第一次世界大戦に連合国側として参戦。豊富な兵員と物資でドイツを追い詰め、圧倒的な存在感を示した。かたや、アジアでは、日本がソ連の共産主義拡大を防ぐため、現在の中国東北部で満州国建国を後押しした。アジアの盟主の地位を高めていた。

 19世紀後半、7つの海を支配した大英帝国の栄光に陰りが見える中で、日米両国は互いに国を一つにまとめて国力を伸ばし、東西の二大パワーとして台頭した。この2つの新興国による決勝戦が日米戦争であった。

 連合国のオーソドックスな歴史観では、客観的な見方ができない。アメリカは太平洋での覇権を求め、日欧がアジアに持つ勢力圏を消し去りたかった。このことがルーズベルト政権が日本に戦争を仕掛けた理由の一つである。

 つまり、「民主主義対ファシズムの戦い」「神と悪魔の戦い」というのは、アメリカ側の戦時プロパガンダにすぎない。そして、日米戦争は、単なる欧米とアジアの新興国同士の「覇権戦争」ではない。それは、欧米によるアジアの植民地支配、人種差別政策がそのまま続いてよいかどうかをめぐっての覇権戦争だったのです。

 太平洋戦争は「ファシズム対民主主義の戦い」ではなかった

先の大戦はアジアの同胞を解放するための聖戦

 欧米列強はアジアで、どのような植民地支配をしてきたのでしようか。第二次大戦前、イギリス、フランス、オランダ、アメリカは東南アジアを支配。現地の人々を安い賃金で奴隷のように働かせ、輸出向けの作物を作らせ、利益を独占した。逆に、現地の産業や食糧生産を制限したため、アジア諸国では貧困と荒廃が進んだ。

 インドを支配したイギリスは、現地の人々に染料の藍やアヘンの原料となるケシなど高く売れる作物を作らせた。その影響でインド国内では、食糧の生産量が激減。何度も大規模な飢饉に見舞われ、19世紀中に2千万人以上が餓死したと言われている。

 また、植民地支配に出遅れたアメリカは、1898年、フィリピンをスペインから独立させるという大義を掲げて米西戦争を戦い、勝利した。だが、フィリピンに統治権を渡さなかったため、これに怒った革命勢力との間で米比戦争が勃発。約60万人のフィリピン人が虐殺されたとされる。

 欧米の植民地支配の背景には、有色人種への差別があり、日本もその被害者であった。20世紀に入ると、アメリカの州や市では、日本人移民から帰化権や国籍を剥奪する動きが加速し、1924年、「絶対的排日移民法」が成立。ついに、アメリカは国家として、日本人移民の排除を決めた。当時の日本は、世界恐慌のあおりを受け、国内に仕事が十分になく、満州など大陸進出に傾斜していかざるを得なくなった。

 

大戦中の日本は全占領地域で現地政府を樹立した

 その日本が先の大戦で、アジアの解放を掲げながら、欧米の軍隊を蹴散らした。その姿を見たアジアの人々が立ち上がり、次々と植民地支配からの独立を勝ち取っていったのです。

 インドネシアでは、終戦後も日本兵約2千人がとどまって独立戦争に義勇軍として参加。現地の兵士と共に、植民地支配を続けようとするイギリス・オランダ軍と戦った。日本兵400人以上が戦死するが、同国は4年半にわたる激戦の末、350年間の植民地支配から独立を果たした。

欧米列強からのアジア植民地の開放

日本、アジア独立の英雄たちの「母」

 イギリス軍やオランダ軍などが行ったBC級戦犯の裁判で、無実の罪やまともな弁明ができないなかで処刑された日本軍人は多い。

 アジア諸国が独立を勝ち取ったのは、それぞれの国に独立戦争の英雄たちがいたからです。ただ、そうした英雄たちを育み、助け、勇気を与えたのは、日本軍や日本の指導者だったことは間違いない。日本は、アジア諸国の独立の英雄たちの「母」であったのです。

 

なぜ日本軍は太平洋戦争で負けたのか 振り返るべきは「敗戦した原因」