欧米列強からのアジア植民地の開放

日本が白人による人種差別を打ち破った

 日本は、「欧米の植民地からアジアを解放し、人種差別を撤廃する」「天皇陛下と天照大神の御徳の下にアジアは平和でなければならない」という大義を掲げ、大東亜戦争に突入した。

 村山談話は「日本がアジア諸国を侵略した」とするが、日本が戦ったのはアジアを支配していたアメリカ、イギリス、オランダ、フランスである。日中戦争については、国民党対共産党などの内戦への介入や米ソとの代理戦争の面が強い。

 最終的に日本は欧米に敗れたが、日本人が白人を武力で打ち負かす姿を目の当たりにしたアジアの人たちは、独立戦争に立ち上がり、戦後にかけて各国が独立を勝ち取った。

 歴史問題で日本を罵り続ける中国から西欧諸国が追い出されたのも、日本が戦ったからです。

 大東亜戦争は、まさに「アジアの同胞を解放するための聖戦」であり、約5世紀にわたる人種差別に満ちた世界を打ち破る人類史的な使命を帯びたものであった。

 大東亜戦争前の独立国は世界で69ヵ国にすぎなかったが、今では200ヵ国近くに及ぶ。「天皇陛下と天照大神の御徳の下に」というビジョンは、日本の敗戦によって成し遂げられなかった。しかし、植民地解放と人種差別撤廃については、日本が身を捨てて戦ったことで見事に実現した。

 

欧米列強からのアジア植民地の開放

幸福の科学大川隆法総裁は、「日本は先の戦争を『大東亜戦争』と称し、『アジアにある欧米列強の植民地を解放する』という理想を掲げていました。それは日本神道の神々から出ていたものであり、戦争が終わった段階で確かに達成されました」と述べています(『奇跡の法』)。

 「大東亜戦争によって欧米列強による植民地支配が終わった」というのは、世界の歴史学者が認める歴史的真実です。

 日本は、敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉を早めた。

 極東における西欧諸国の略奪的な帝国主義的存在と、日本がアジアの近隣地域を本質的に防衛のために領有するのとでは、両者ははっきりと区別すべきものである。

 大東亜戦争終了後、アジアの国々は、フィリピン(1946年)、インド(1947年)、ビルマ(1948年)、インドネシア(1949年)、ラオス(1953年)、カンボジア(1953年)、ベトナム(1954年)、マレーシア(1957年)、シンガポール(1963年)など、次々と欧米列強から独立を果たしています。

 

白人優位の人種差別政策の打破

 日本は、大戦前から「白人優位の人種差別政策の撤廃」を訴えて来ました。

 国際連盟設立にあたっても、日本は、その規約に「人種差別の撤廃」「人種平等の原則」条項を入れるよう強く主張してきました。

 しかし、日本の提案は否決され、1948年、国際連合で「世界人権宣言」において「人種差別撤廃」が採決されました。

 ここに至るには、大東亜戦争においてアジア植民地から欧米列強を排斥した日本の奮闘があったことは否定できません。

 日本のナショナリストや軍国主義者は、黄色人種を白人の支配から解放するために戦争を遂行したと主張した。この中で、自分たちの利害を包み隠しているが、真実をついた面もある。 ベトナムやインドネシア、インドなど、欧州諸国に支配されていた植民地諸国の国民による独立運動は、日本の初戦の勝利によって加速された。

 

日本ほどアジアのために尽くした国はない

 マレーシア人も、イギリス軍を瞬く間に撃退した日本軍の強さをその目に焼き付けた。戦後、再びイギリスの植民地とされてしまったが、マレーシア人が独立を求める潮流を押しとどめることはできず、1957年 マレーシアは独立した。

 20世紀を代表するイギリスの歴史学者・文明史家のアーノルド・J・トインビーも、日本が果たした役割を高く評価している。

 「第2次大戦において、日本人は、日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である」

 1943年5月、東條首相がフィリピンを訪れ、マニラ市内で数万人の聴衆を前に演説し、改めて独立を約束した。その年の10月にフィリピンは独立。日本の軍政下でフィリピン憲法が制定されたが、そこには、「1年以内に普通選挙を実施し、60日以内に新憲法の起草および採択のための会議を開催する」と盛り込まれている。アメリカ軍政下で決まったマッカーサー憲法にこのような規定はなかったが、日本軍は「フィリピン憲法はフィリピン国民が自分たちで議論して決め、自分たちの責任で国づくりをしていくべきだ」ということを十分理解していた。

 インドネシアでも「自由な議論」は存在した。日本は、インドネシアに対し1945年9月の独立を承認していたが、その前に日本が敗戦。すかさず、独立運動の指導者で後の初代大統領のスカルノが独立宣言を行った。その時点で、日本軍がまだ治安を担っており、街頭での演説や集会を抑え込むこともできたが、スカルノらにジャカルタ市内の広場で演説することをあえて許した。「国民全員が命を賭けて独立を勝ち取ろう」というスカルノの呼びかけに、インドネシア人は、オランダ軍との4年間にわたる戦争に立ち上がり、独立を勝ち取った。

 

3年半の日本統治がインドネシアを独立に導いた

 日本は、大東亜戦争の最中にあってもアジアに善政を施した。

 1942年、インドネシアを支配するオランダを9日間で追い出した日本は、同国を3年半統治した。オランダ軍を駆逐した直後、日本軍は「日本人とインドネシア人は同祖同族である」「同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する」などとした軍政布告を発布。これを聞いたインドネシア人は歓喜で沸き立った。

 日本軍は、統一した言語がない現地に対しジャワを中心に使用されていたムラユ語を普及させて、国内の結束を強化。コメの生産性が低かった同地に稲作の技術を教えるなど、自給自足の体制も整えた。

 また、日本軍は中央参議院(最高諮問機関)や州参議院を設置するなど、政治に参加できなかった現地人を積極的に登用することで、行政能力を養った。中央参議院の議長には、後に初代大統領になるスカルノが就任した。

 日本の敗戦後、オランダがインドネシアを再占領するために軍隊を送ったが、日本統治下で自尊心を取り戻した人々は4年間戦い続け、独立を勝ち取った。

 3年半の日本統治が約350年間続いた植民地支配を終わらせることにつながった。

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