欧米の植民地支配

 江戸時代末から明治にかけて、ヨーロッパ諸国はアジア・アフリカ諸国をつぎつきと植民地としていきました。隆盛を誇った中国、オスマン帝国、ムガール帝国なども侵略されていきました。有色人種の国の中で国を保てたのは、エチオピア、リベリア(アメリカ合衆国の奴隷解放によって建国された国)、タイ、日本などわずかな国でした。  この強大な欧米諸国に対抗するために、幕末の思想家たちは、国防の強化を訴え、アジアが団結して立ち向かうべきであると主張しました。  

 日本が高度な文明を発達させている文明国であるのをみた欧米諸国は、武力による植民地を はやばやとあきらめました。さらに、欧米の圧力に対抗するために、無血革命といってよい明治維新成し遂げ、富国強兵・殖産興業を成し遂げるに至っては、日本に対する侵略政策は中断をせざるを得ませんでした。

 しかし、欧米諸国の東アジアに対する植民地化は留まるところを知りませんでした。フランス、イギリス、オランダは、タイを除く南アジア・東南アジアを植民地とします。本国の36倍の広さをもつインドネシアの植民地化に専念したオランダをのぞき、フランス、イギリス及び統一を1871年に果たし急速に近代化をすすめてきたドイツは、中国の植民地化を推進しました。ロシアは、満洲を自国のものとし、中国本土、朝鮮半島を植民地化しようとして執拗に南下政策を続けます。南北戦争で遅れをとったアメリカは、門戸開放を主張して中国進出を国是とします。

 吉田松陰は、1854年11月に著した「幽囚録」の中で、アジアの植民地化をすすめている イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国や、圧倒的な力で征服をすすめているロシアの南下政策、アメリカの西進政策に対抗するためには、急いで富国強兵をはかること、日本を守るために、防衛線として、カムチャッカ、オホーツク、台湾、呂宋(フィリピン諸島)、朝鮮を日本の領土すること、植民地化ではなく人民を愛して辺境の警備をしなければ立ちゆかないと喝破しました。

 日本は、朝鮮や中国、フィリピンなどを共栄圏として日本を守らなければならない」と主張しました。「特にロシアの南下政策を封じ込めなければならない」と主張しました。明治維新以来の日本防衛の基本方針です。

 多くの幕末の志士たちの共通認識でした。人民を愛すということは、後に日本領となった朝鮮、台湾に対して行った政策です。収奪ではありません。当時、世界の常識として収奪するために植民地をもつことはステイタスでした。今の視点で歴史を見ることは、誤っているといえます。故に、ヨーロッパ諸国・アメリカはアジア・アフリカの植民地に一切謝罪していません。

 「自存自衛」という目的も真実です。大東亜戦争を裁いた東京裁判の東条英機の宣誓供述書で「自衛戦争」であったと述べました。自衛のために大東亜戦争を行うことにより、窮鼠猫を噛み、返り討ちに遭いました。

 

欧米の植民地は利益が最優先

 欧米による植民地支配は、大航海時代という15世紀から始まったヨーロッパ諸国の海外進出によって加速しました。大東亜戦争前の欧米は、「自立できない遅れた民族を保護し、教化する」という倫理的使命に基づくものとして、植民地政策を肯定的にとらえていました。

 しかし、欧米の支配は「原住民が自立できるまで」という期限付きだったにもかかわらず、「有色人種は白人に劣っている」という人種差別により、原住民を永久に自立できないものと決めつけます。1910年代には、ガンジーを旗頭にしたインドが自治を求めたにもかかわらず、イギリスは認めませんでした。

 欧米は、独立させないために、原住民に教育を施さなかったり、身分制度を導入するなどして、より巧妙な手法で支配を永続させようとしました。

 建前として倫理的使命を掲げつつも、本音は経済的利益を得ることだったのです。こうした考え方こそ植民地支配と呼ぶべきである。

 欧米諸国は、植民地支配で現地人の人権や地権を踏みにじりました。

 アジアで欧米の植民地にならなかったのは、日本とタイぐらいである。

 1930年代には、世界の地表の約6割が 英・米・仏・ソ 4ヵ国の所有物であった。イギリスは本国領土の100倍、オランダは60倍の土地をアジア・アフリカで奪っていた。

 先の大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺は痛ましい惨劇だが、欧米が数百年間にわたって有色人種を差別し虐殺したことは、ユダヤ人差別とそう変わらない。先の大戦で、果たして ナチス・ドイツのヒトラーだけが「悪魔」だったのでしょうか。欧米のこの数百年の歴史の中に、何らかの悪魔の影響を受けていたと言わざるを得ない面がある。

軍隊と商人、そしてキリスト教の宣教師が一体

欧米諸国は植民地統治のため教育を奪った

 欧米諸国は、植民地でいわゆる「愚民化政策」を行い、現地人に教育を受けさせず、文字も読めないようにしました。彼らの文化レベルや知的水準、民族意識が上がれば、独立運動が起きやすくなるからです。オランダがインドネシアで行った政策では、オランダ語の学習はおろか、地域ごとにバラバラだった言語を統一することも禁じました。

 

欧米は植民地から富を奪った

 欧米の植民地経営の目的は「富の収奪」でした。

 金銀を収奪し、現地人を強制労働させて、ゴム・綿花・コーヒーなどを生産しました。それを輸出品や自国産業の原料にして莫大な利益を得ました。

 例えば、イギリスは、インドで作らせた綿花を産業革命の原動力としました。競争相手となるインドの綿織物手工業を潰すため、職人たちの手を切り落とすという残虐行為も行いました。

 さらに、ケシも栽培させてアヘンを作り、中国に売りつけました。各植民地は、独立後も原料や嗜好品しか作れない産業構造をひきずり、食糧不足や経済停滞に苦しんでいます。

 

イギリス

 イギリスは、19世紀に国内経済の低迷に加え、フランスなどとの戦争により、対GDP比260%もの巨額の財政赤字を抱えた。そこで、17世紀から支配していたインドに重税を課すなどして借金を返済した。1822年には6万ポンドの収奪だったが、1920年代には約3千万ポンドまで膨れ上がった。インドでは、逆に19世紀だけで2千万人以上が餓死した。

 イギリスは、インドの綿織物を本国に輸入して利益を得ていたが、産業革命でイギリスの綿製品生産が盛んになると、今度はイギリス製品をインドに輸出し始めた。それは、インド製には関税をかけ、イギリス製には免税するという強制的なものでした。

 イギリスは、清国から紅茶と陶磁器を輸入していたが、清国側はイギリスから買う物品がほとんどなかったという。これではイギリスが常に貿易赤字になってしまうので、インドにケシ栽培を強制し、麻薬の一種のアヘンを清国に売りつけることにした。清国中に麻薬中毒者が広がる一方、アヘン取り締まりも始まり、イギリスと利害が衝突。1840年のアヘン戦争へと発展したのです。

 イギリスは、自国製品を売りつけるために、優秀なインドの織物職人の手や腕を切断するなどして、現地の産業を破壊。インドにつくらせた鉄道も、線路の幅を各州で変え、国内の統合を阻害した。

 さらに、イギリスは、軍事費を削減するために、インド人の軍隊をつくり、同国で発生した反乱を鎮圧させるなど、インド人によるインドの侵略を続けた。もちろん、軍隊の維持費はほとんど全額負担させた。

 インドから奪った富によりイギリスは繁栄を極めた。

 イギリスは、インド、ビルマ(ミャンマー)、マレーシアなどを支配したが、反乱は徹底的に弾圧し、反徒たちを集団銃撃したり焼き殺したりした。

 

フランス

 フランスは、1789年に人間の自由と平等などを謳った「人権宣言」を発し、近代的な思想を広めたとされている。だが、人権を持つのは白人のみであり、有色人種や女性はその対象ではなかった。

 それを示すように、貴族であり外交官のゴビノーは、「黒色人種は最低であり、人種序列の階段の下に立っている」と白人優越主義を提唱。この思想は、後にナチスのユダヤ人迫害にもつながった。

 また、ジュール・フェリー首相は、1885年の下院議会で、「優等人種には一つの権利がある。なぜなら、優等人種には一つの義務があるからです。すなわち、劣等人種を文明化するという義務があるからだ。」と植民地政策を正当化。チュニジアやマダガスカル、コンゴ、ベトナムに侵略の触手を伸ばした。

 フランスの植民地教育の特徴は民族差別であった。

 1858年から支配したベトナムには、一部のエリート層にのみ高等教育を施し、1893年から支配したラオスには教育制度をほとんどつくらなかった。この目的は、高等教育を受けたベトナムにラオスを支配させ、フランスに向く不満を両民族でぶつけさせ合う分断統治を構築するためであった。

 実際、1939年から1944年までにベトナムのインドシナ大学に在籍したラオス人は47人に過ぎない。フランスがラオスの大衆に教育を与えなかったことで、1945年当時の非識字率は95%と推定されている。これは東南アジアで最悪の数値であった。

 フランスが民族対立を利用した統治を行った結果、ラオスとベトナムの関係は今も良好ではない。

人種差別の思想を教える

 植民地教育を確立させ、インドシナ初代理事長官を務めたポール・ベールは、「白人は他の人種よりも賢く、勤勉で、勇気があるから、世界の至る所に侵略した。そして、劣等な人種すべてを滅ぼし、あるいは、征服しようとしている」という人種差別に基づく教科書を編集し、植民地政策の正しさをフランス国民に教え続けた。

 フランスは、インドシナ半島東部を植民地化した際、「土地所有」という概念のない現地人に対し、「所有者のいない土地は没収する」と通達して大量の土地を収奪。

 

スペイン

 スペインは、16世紀、アステカ帝国やインカ帝国などを滅ぼし、殺した先住民は3千万人にのぼるという。金銀鉱山の労働力が足りなくなると、アフリカからの奴隷貿易を始め、そこにオランダ、イギリス、フランスも加わった。

 19世紀半ばまでに黒人1500万人が大西洋を渡った。航海中は狭い船倉に鎖でつながれ、半分以上が死亡したとされるから、数千万人から1億人近くの黒人が拉致・強制連行されたことになる。

 

オランダ

 インドネシアを支配したオランダは、イギリスと同じく、対外戦争で財政が悪化したために、インドネシアへの搾取を強化した。1830年ごろ、オランダは強制栽培制度を導入。ヨーロッパで需要が高いコーヒーなどの作物を現地人に強制的に作らせ、その一定数を徴収。これにより1840年から1874年までの間に約6億ギルダーを得てオランダの財政を改善させた。

 一方、輸出用作物の栽培を強いられたインドネシアでは、米の耕作地を減らされた。藍の栽培を強いられた農民は、耕作地まで連行され、収穫までの7ヵ月間家に帰れず、結婚式も出産も野原でせざるを得ない状況に置かれた。過酷な労働に凶作が重なったドゥマックという村では、1850年だけで、約33万人の人口が12万人までに減少した。

 現地人の餓死につながった強制栽培制度は1910年代に完全廃止されたが、オランダは植民地支配を終わらせるつもりはなかった。それを示すように、1930年代にオランダ領東インド総督を務めたデ・ヨンゲは、「我々はインドネシアを300年間、棍棒で治めてきた。今後300年もその方針に変わりはない」と語っている。

 オランダの過酷な支配は、大東亜戦争で日本軍がインドネシアに上陸するまで続いた。

 

アメリカ

 アメリカも、「土地所有」の概念がなかったインディアンに無理やり署名させ、土地を収奪しました。

 アメリカでは、南北戦争の時点で約400万人が南部の農家を中心に家畜同様の扱いを受けていた。国家を挙げて組織的、計画的にこれだけの規模で人身売買を行ったケースは例がない。

 それ以前に、アメリカの白人は先住民の土地を奪い、1500年ごろに少なくとも200万人いたインディアンが、その後400年で35万人にまで減った。

 独立王国のハワイ・カメハメハ王朝を武力で滅ぼしたアメリカは、同じ年の1898年、スペインとの戦争(米西戦争)を始めた。その際、フィリピン人の独立革命家たちにフィリピン独立をいったん約束し、米軍への協力を取り付けた。ところが、米軍と革命軍がスペイン軍を打ち倒すと、約束を覆し、フィリピンを併合してしまった。その後の革命軍による抵抗戦争(米比戦争)は1913年まで続き、フィリピンの民間人60万人以上が虐殺されたという。

 アメリカが1898年にフィリピンを侵略した際、当時の海軍次官であり、後に大統領になったセオドア・ルーズベルトは次のように正当化した。

 「すべての戦争の中で最も正しいものは野蛮人との戦いだ」「アメリカやオーストラリアが赤や黒や黄色の土着民の手を離れ、世界の有力民族の遺産になることは極めて重要である。白人は文明の具現者である」

 侵略を正当化する中で、フランクリン・ベル陸軍少将によれば、「強制収容所やルソン島での戦闘だけで、現地人60万以上が病死し、制圧途中では約100万人が死亡している。死者数は人口の7分の1に当たる」という。

 また、1901年にゲリラ兵の攻撃で45人の米兵が戦死すると、ジェイコブ・スミス将軍は「捕虜はいらない。殺し尽くし焼き尽くせ。10歳以上の男はすべて殺せ」と命令した。

 アメリカは、先住民のインディアンと同様に、フィリピン人も大量殺戮した。

 アメリカは、1898年に植民地にしたフィリピンに、黒人とインディアンと同様に、高等教育を施さず、読み書き程度の最低限の教育に限った。1940年当時、学校数の99%を小学校が占めていた。

 また、現地人への差別も目立った。1930年、マニラ北高校のアメリカ人教師ブルミットは、「フィリピン人は詐欺師の民族だ」「フィリピン人は馬車の御者(馬車を走らせる人)にしか向いていない」などと、人種差別的な発言を繰り返したため、それに耐えかねた生徒たちが数千人規模のデモを起こした。

 アメリカでは、「フィリピンに教育を与えた」と認識しているが、実態は差別的なものであったという。白人優位の視点から、フィリピン人への教育は必要ないとした。

アメリカの大義を歪めた人種差別

 日本のアメリカへの移民は、明治時代の初期に、農村の困窮などでハワイやアメリカ本土への移住を始めた。1920年ごろには、アメリカ本土に12万人以上の日本人がいたといわれている。

 アメリカに渡った日本人は、大部分が農業に従事し、白人の下働きなどをしていた。勤勉で粘り強く仕事をこなす日系人の中には、土地を所有し、ある程度の成功をつかむ人も増えていった。だが、一方で そうした日本人を快く思わないアメリカ人も増えていった。

日本人を排斥する運動

 こうした中、1913年には、日本人の土地所有を禁ずる法律が制定された。さらに、日本人への漁業禁止令や児童の就学拒否などが始まり、商店には「日本人お断り」という張り紙が貼られるなど、露骨な嫌がらせも受けるようになった。

 その後、日本からの移民を禁止する、いわゆる「排日移民法」が各州に成立していき、1924年には連邦法として、アジア諸国、特に日本人の移民を禁止する法律が制定された。こうした排斥運動によって、日本の反米意識が高まっていった。

 そして、1941年の真珠湾攻撃の後、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の命令により、アメリカの日系人とメキシコやペルーなどの中南米諸国に在住する日系人約12万人以上が、アメリカ全土に設けられた11ヵ所の強制収容所に入れられた。強制収容の際、自宅からの立ち退きを命ぜられた日本人は財産を没収され、アメリカ人たちに安く買い叩かれた。収容所の環境は劣悪であった。特に競馬場だったサンタ・アニタの強制収容所では、悪臭立ち込める馬小屋が日系人たちの住まいとして割り当てられた。これは、誇り高い日系人のプライドを踏みにじる屈辱的な仕打ちであった。戦後も日系人に対する排斥運動は強く、1952年まで日系人はアメリカで市民権を与えられなかった。

 アジアに足場を築いたアメリカは、同じ時期に台頭した新興国の日本と利害が対立し、やがて日米開戦は不可避となった。アメリカは、先の大戦で日本に2発の原爆を落とし、民間人20万以上が犠牲になった。日本の200以上の都市に対して行った無差別爆撃の死者は33万人にのぼった。原爆といい、無差別爆撃といい、短時間のうちにこれだけ多くの犠牲を生み出した惨事は歴史上例がない。

 日本は満州国を助けていましたが、アメリカはそれを非難しました。満州国は国際的に認められて成立したのですが、アメリカが満州の利権を取れなかったので嫉妬した面があります。アメリカは、日本と共同で満州を開発し、鉄道敷設などの権利を得たかったのに、日本が独占しようとしたあたりで、アメリカから戦争を仕掛けてきたところがあります。

 アメリカは中国を助け、日本軍を滅ぼしに入ったのですが、その結果、朝鮮戦争が起きました。マッカーサーは、その段階で初めて、日本が満州を押さえに入った理由が分かったのです。そうしなければ、朝鮮半島はロシア領(ソ連領)になっていたはずで、今ごろロシア語が使われていたかもしれません。結局、朝鮮戦争は「国連軍」対「中国軍」との戦いになって、38度線で停戦したままです。

 

 大東亜戦争は、「アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放」するための戦いだったのです。

 欧米が見直すべき歴史とは、アジア・アフリカを徹底的に侵略し植民地化した この500年間についての歴史なのです。 

 大航海時代以降、南北米大陸での原住民虐殺と黒人奴隷貿易、アジア・アフリカでの植民地支配など、白人優位の人種差別が世界を覆い尽くした。日本への原爆投下も人種差別が背景にあった。

 欧米各国は基本的にこうした過去を謝罪したことはない。歴代のアメリカ大統領は、インディアン虐殺や黒人奴隷制度について公式に謝罪していない(個別のケースでの遺憾表明や賠償支払いはあるが)。フィリピンでの植民地支配も謝らないし、日本への原爆投下についても同様である。

 植民地帝国を築いたイギリスも、インドやビルマ、マレーシアなどの支配を謝ったことはない。フランスも、ベトナムやカンボジアでの植民地統治を謝罪したことはない。

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