新・日本国憲法試案

 幸福の科学大川隆法総裁は、『新・日本国憲法試案 幸福実現党宣言④』で次のように説かれました。

「私は今、聖徳太子が新たな国造りを志した気概、あるいは、明治維新の中心人物なら現・日本国憲法をどうつくりかえるかという観点から、『新・日本国憲法試案』として16条憲法を書き下ろした。これが未来日本の国家ビジョンの基本設計図である。103条ある現憲法は、敗戦期の混乱の影響が色濃く、旧式の表現や、法律レベルのものが多々散見される。百三条の憲法を十六条にスリム化する気概があれば、この国を根本的に改造し、未来型国家に変身させることも可能だと信ずる。」

 憲法には、国の設計図としてその国が拠って立つ「国家の理念」、未来ビジョンが必要である。そのなかには、「国民の幸福」さらには「世界人類の幸福」が当然入るべきであるが、この世的なものだけでなく、国民を鼓舞し精神的高みに導いていくような理念が必要です。

 神も仏も否定し、あの世も霊的存在も否定して、人間をロボットのような機械と見なす思想の下で、この世的生存のみを目的とした国家運営を考えるような憲法は認めがたい。

 大川隆法総裁は、『幸福実現党宣言』で次のように説かれました。

「やはり、何事においても、設計図がなければ物はつくれません。建物であろうと、船であろうと、飛行機であろうと、単純な機械であろうと、設計図がなければつくれないのです。国もまったく同じであり、基本的には設計図が大事です。国の設計図とはいったい何であるかというと、その国が拠って立つ「国家の理念」です。「何のための国家なのか。国家として何がしたいのか。どういう国にしたいのか」という未来ビジョンを持っていることが必要なのです。会社で言えば、これは「経営理念」に相当するものです。会社には必ず経営理念が必要だと言われています。経営理念があってこそ、社長の心をわが心とする分身ができ、「社長が考える未来のデザインに向けて会社を大きくしていこう」と、社員が一致団結して努力するからです。国においても同様に、国家の経営理念があればこそ、国民はその実現に向けて、努力、邁進していくものです。したがって、国家の精神的な支柱、中心的な考え方というものは、とても大事です。しかしながら、私が憲法に関する書籍などを読んだかぎりでは、この分野にも、戦後の唯物主義的、分析主義的なものの考え方が流れ込んでいて、「憲法には、人間の生き方など、『こうすべきだ』というような考え方を入れるべきではない」といったことを述べている憲法学者もいます。「哀れ」と言うしかありません。こうした考え方は、「会社というものは、とにかく毎日、事務所に通っていれば続いていくものだ」などと言っているのと同じです。実際に会社のなかに勤めている人の目から見れば、「やはり会社に理念がなければ、仕事はできない」ということが分かるはずです。やはり、憲法というものがあるからこそ、国家の理念ができ、日本の国を動かす基本的な枠組みができ、政治の方向性も決まってくるのです。「何を国家目標として考えているか」ということは、非常に大事なのです。そのなかに、やはり国家であれば、「国民の幸福」というものは当然入るべきであり、世界のレベルで言えば、「世界人類の幸福」というものが入るべきだと私は思います。日本国憲法のなかにも幸福追求権はありますが(第13条)、幸福の理念、すなわち「いったい何をもって幸福とするか」ということが非常に大事だと思うのです。もちろん、その幸福のなかには、この世的なものも当然含まれているでしょう。「三食を食べることができる」「衣食住に困らない」といったことも大事かと思います。しかしながら、「人間は魂を持った精神的存在である」と考えるならば、やはり、憲法のなかに、国民を鼓舞し、精神的高みに導いていくようなものがなければならないと思います。神も仏も否定し、あの世も霊的存在も否定して、人間をロボットのような機械と見なす思想の下で、この世的生存のみを目的とした国家運営を考えるような憲法は、認めがたいと考えています。」

 幸福実現党の「新・日本国憲法試案」では、前文、第二条でこううたっている。

われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定する

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する

 「神仏の心を心」とすることを規範とし、宗教を「善」なるものとして尊重することで、仰心や仏教的精神を取り戻す出発点となる。また、「男系男子」を主張する宗教的論理の足場にもなる。

 最も重要なポイントは、第十四条の天皇の規定である。

天皇制その他の文化的伝統は尊重する

 これは、皇室と政治の距離を保ち、文化的・宗教的存在として永続することを目指している。

 第四条には大統領制が盛り込まれている。

大統領は国家の元首であり、国家防衛の最高責任者でもある

 もし、先の敗戦のような事態があれば、「元首」である大統領が死刑になる覚悟を示したものである。

 「新・日本国憲法試案」全体として、皇室を守る目的を含んでいるといえる。

 日本は、創造神・天御祖神の教えが出発点となり、天照大神が神道と仏教を融合させながら守り続けてきた国である。日本が再び世界レベルの宗教大国となることで、隣の唯物論国家の覇権主義を路線転換させることが可能となる。

 

「憲法9条信仰」に縛られる日本

 これに対し、日本は「憲法9条信仰」に縛られている。

 これは、先の大戦では何百万人という犠牲者が出たので、今後それを避けるためには、とにかく戦争や国防について一切考えなければ平和がやって来るという「信仰」である。自分の地上での命を生きながらえさせるためには、他国に侵略されても構わないという極端な思想だが、「平和主義」として日本国民の意識に浸透している。

 憲法9条は、占領時代にアメリカが「日本が再びアメリカの脅威にならないため」に押しつけたものである。アメリカ政府は要は日本が二度と立ち向かって来ないように、武器をすべて取り上げる「刀狩り」を徹底的に行う対日初期方針をもって臨んだ。

 それを具体的に実行したのが連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官で、そのメモにははっきりこう書かれていた。

「国の主権的権利としての戦争は廃止する。

 日本は、紛争を解決するための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえも戦争を放棄する。

 日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。

 いかなる日本の陸海空軍も決して認められず、またいかなる交戦権も日本軍隊に対して決して与えられない」

 この指令通りに、日本は国を守るという最も大切な主権を放棄させられた。少なくとも、日本は主権を制限させられ「半主権国家」となった。

 その憲法9条に多くの日本人が「信仰」を立て、「国教」のように扱っている。

 

マッカーサーは早々と「戦争放棄」指令を撤回

 しかし、そのマッカーサー本人はGHQの同僚に対してこう語っていたという。

「どんなによい憲法でも、日本人の胸もとに銃剣を突きつけて受諾させた憲法は、銃剣がその場にとどまっている間だけしかもたないというのが私の確信だ」

 占領軍が撤退し、日本人の思い通りになる状況が生まれたとたん、彼らは押しつけられた諸観念から独立し、自己を主張したいという目的だけのためにも、無理強いされた憲法を捨て去ろうとする。これほど確かなことはない。

 マッカーサーは、自身が日本から去るときが、日本国民として憲法9条を改正するタイミングだと考えていたことになる。

 ただ、マッカーサーは自身が去る前の1950年6月、朝鮮戦争が起こると、9条を改正すべきだと考えるようになる。朝鮮戦争のさなかの1951年1月の年頭のメッセージで、こんな声明を出した。

「日本の憲法は国政の手段としての戦争を放棄している。この概念は、近代の世界が知るにいたった最高の理想ではないにしても、最高の理想の一つを代表している」

「しかしながら、仮に国際社会の無法状態が、平和を脅かし、人々の生命に支配を及ぼそうとし続けるならば、この理想があまりにも当然な自己保存の法則に道を譲らなければならないことは言うまでもない」

 つまり、国家が生存を図ろうとするのは当然だという主張である。マッカーサーは、自ら出した「戦争放棄」「軍隊不保持」の指令を全面的に撤回したのだった。

 それに先立って、アメリカ政府からは、憲法9条を改正するよう要請が行われている。朝鮮戦争が始まる直前、米国務省顧問のダレスは日本政府に再軍備を要請し、「憲法9条があって再軍備できないなら、改正したらいい」と述べた。

 ところが、それを受けた吉田茂首相(当時)は、経済の立て直しのため再軍備の資金負担に耐えられないとして拒否。そのまま戦後70年が経ってしまった。

 

「9条信仰」の応援団となったソ連と中国

 その後、憲法9条は、ソ連と中国の支援を受けた日本の左翼勢力が固く「信仰」してきた。

もともとは、日本共産党など左翼勢力は、占領時代「アメリカによる憲法の押しつけはよくない」として9条に大反対していた。

 ところが、日本共産党も、日本社会党も朝鮮戦争で米ソ冷戦構造が明確になると、ソ連の側に立って9条を擁護し、「再軍備反対」を訴えるようになった。後に明らかになるが、両党とも秘密裏にソ連から巨額の資金援助を受けており、いわば刑法の「外患罪」にあたることをしていたことになる。

 象徴的なのは、戦後長く最大野党だった社会党が掲げた「非武装中立論」です。

 1980年代、石橋政嗣書記長(当時)は著書『非武装中立論』を著し、「強盗に押し入られたとき、抵抗は死を招く危険の方が強い」と書いた。

 他国の軍隊に攻められたら、無抵抗で降伏したほうが平和を守れるという主張は、「奴隷の平和」と呼ぶべきものである。それを恥ずかしげもなく中心的な政策として掲げていたのは、ソ連の言い分をそのまま代弁することが日本社会党のアイデンティティーだった。

「9条信仰」の熱心な応援団は、ソ連から共産党の支配する中国に代わった。

 建国の父の毛沢東時代からアメリカを超える超大国を目指していたから、「国を守る主権を放棄した日本」ほどありがたい存在はない。

 習近平政権でも、日本の憲法改正や日米安保の強化に反対し、歴史問題などで日本に揺さぶりをかけている。近年世論を動かしている安保法制や原発への反対運動には、ソ連時代以上に中国共産党の工作が働いていると考えるべきである。

 このように、日本国民の「9条信仰」は、アメリカ、ソ連、中国など周辺国それぞれの世界戦略の中でつくり上げられてきたものです。

 

憲法9条を改正し、主権を取り戻す

 本来ならば、一刻も早く憲法9条を改正し、「国を守る主権」を取り戻すべきです。

 日本の自衛隊は、憲法9条の制約から「自衛のための必要最低限度の実力」と位置づけられ、「軍隊」とは認められてこなかった。そのため、たくさんの制約が自衛隊を縛り、有事対応に支障をきたしている。

 1950年の朝鮮戦争以上の危機が起きようとしているわけだから、マッカーサーが当時語ったように、「無理強いされた憲法を捨て去る」べきです。今こそ、日本がマッカーサーによる「戦争放棄」「軍隊不保持」の指令をなきものとするタイミングである。

 日本は主権の一部を放棄した「半主権国家」を脱し、自分たちの国の運命を自分たちで決められるようにしなければならない。

 また、大川隆法総裁は、「いざとなったら、中国や北朝鮮を憲法9条の適用から外すべきだ」と提案している。つまり、憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるため、中国や北朝鮮が「平和を愛する諸国民」であるとは言えない場合、9条の適用を両国に対しては拒否するというものである。

 南シナ海や東シナ海で領土拡張欲をむき出しにし、核ミサイルの照準を日本に向ける中国、国民に恐怖支配を敷きながら核ミサイルを造り続ける北朝鮮は、もはや「平和を愛する国」ではない。

 朝鮮戦争時のマッカーサーのような判断がいざというときに即座にできるのが、この「9条の適用除外」。重要な選択肢としていつでも行使できるようにしておくべきです。

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