愛の原理

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 幸福の科学の基本教義は、「正しき心の探究」と「愛・知・反省・発展」の「四正道(よんしょうどう)」の幸福の原理を探求しています。  人間は仏より永遠の生命を与えられ、この世とあの世を転生輪廻しながら、霊的な向上を目指している存在です。人間の本質は「心」であり、死後、あの世に持って還れるものは、「心」しかありませんし、今世の人生の幸・不幸も、心のあり方によります。ゆえに幸福の科学では、「心」を磨き高めることを修行の中心にすえ、「正しき心の探究」を修行の目標としています。この「正しき心の探究」の具体的修行課題として、「現代の四正道」と呼ばれる幸福の原理、「愛・知・反省・発展」が説かれています。

 

愛とは  

 幸福の科学の説く『愛』とは、「与える愛」、「慈悲」のことを言います。これに対置するのが「奪う愛」であり、仏教的に言えば執着と呼ばれるものです。それは、見返りを求める愛であり、“縛る愛”、“奪う愛”とでも言うべきものです。本当の愛とは、見返りを求めないものであり、与える愛であり、無償の愛であり、与え切りの愛なのです。まず、奪う愛から決別し、愛を与えようとすることが、幸福のスタート点なのです。現代に生きる人びとは、「愛とは何ですか」と聞かれれば、大半の人が「人からもらうもの」「人からしてもらうこと」「人から与えられること」というような言葉が返ってくるのではないかと思います。しかし、これは、幸福の科学の教えに照らせば「奪う愛」であり、本当の愛ではないのです。見返りを求めるものは愛ではありません。「愛とは与えるもの」であり、見返りを求めず与えきるものであるのです。人からの賞賛や評価を求めるのも奪う愛であり、本当の愛ではありません。ギブ・アンド・テイクは愛ではないのです。愛はその方向性として引き寄せ合うものであります。反発しあうもの、これは奪う愛であります。愛とは人と人とを結びつけあう心であり、行為のなかにあるのです。 今の世の中には「もっと愛して欲しい」「欲しい欲しい」という人々で満ちています。しかし、その愛は誰が与えるのでしょうか。そうです。愛を与える人がいなければ、愛が与えられるどころか、愛は枯渇してしまうのです。

 愛とは、与える愛であり、優しい言葉や行為であり、親切な行為や笑顔であり、人を褒める行為であり、祝福する心なのです。相手の良いところを発見することであり、ありがとうと感謝する心であり、ささやかなことを喜んであげる行為なのです。 愛は豊かな心であり、受け入れる心、寛容な心であり、奉仕の心でもあります。 また、愛は相手を許す行為でもあり、相手の仏性を見出していくことなのです。愛とは出し惜しみすることではないのです。自分を変える行為のなかに愛があるのです。 愛とは信頼すること、愛とは信じることです。そして、愛は信仰です。愛は最も大切な気持ちを他の人に伝えることです。 そうです、最大の愛は信仰を伝えること―伝道そのものが最大の愛なのです。愛とは伝道によって仏と一体になることなのです。 幸福になろうとするならば、見返りを求めず人に与えることです。人を限りなく愛することです。  

 「貧病争」の「争」の人間関係を良くするには、「どうしたら人に与えることができるか」を考えてください。そうすれば人間関係は良くなるしかないのです。人間関係を良くするには1円も必要ないのです。  「人から何かをしてもらう」のではなく、「他人に何をしてあげられるか」を考えることです。どうすれば奪う愛から、与える愛への方向転換ができるかを考えてください。そうすれば与え られていないという悩みは消えて行くはずで、その時点で幸福への入り口に立っているのです。 人間は仏の子、仏子(ぶっし)であり、この「与える愛」こそが、仏子人間としての幸福の出発点なのです。人を愛した時に親である仏から慈悲の光が与えられ、仏に近づいていくことができるのです。それが仏子人間として本当の幸福なのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『幸福の法』の中で以下のように説かれました。

「愛の原理のなかには、説くべきことはたくさんありますが、まず、悟りへの一転語として、「みなさんが愛だと思っていることは、実は『奪う愛』ではありませんか。人から貰うこと、人から取ることを愛だと思っていませんか。そうではないのです。

 貰うことを考えているから、苦しんでいるのではありませんか」ということを説いたのです。そういう愛は、昔、原始仏教が「愛」と呼んだ、執着としての愛です。原始仏教では、執着のことを「愛」と呼び、私が教えている「与える愛」のほうは「慈悲」と呼んでいました。当会の愛の教えは執着のほうではなく慈悲の教えなのです。慈悲とは与えきりのものです。見返りを求めない、与えきりの心が慈悲です。 「与える愛」という言い方をしていますが、これは、この世的に分かりやすくするために言った言葉です。「慈悲」と言ってもよかったのですが、言葉としては古いので、現代人にとっては理解しにくい場合もあるだろうと考え、現代的に翻訳して、「与える愛」と言っているのです。「慈悲」と言うと、ちょっと分からないかもしれませんが、「与える愛」という言葉であれば、小学生や中学生でも分かるでしょう。みなさんは、「愛」と言うと、ほとんどは、好きな男性から愛されること、好きな女性から愛されること、親から愛されること、子供から愛されることなど、愛を貰うことばかりを考えるでしょう。そして、充分に愛を貰えないので悩むのでしょう。これを解決しなければいけません。みんな、愛が欲しい人ばかりで、与える人がいなかったならば、この世には愛が不足してしまいます。したがって、まず愛の供給をしなくてはいけないのです。それぞれの人が愛の供給をすれば、世の中は愛に満ちてきます。奪うことばかりを考えてはいけないのです。愛不足の社会、奪う愛の社会は、たとえて言えば、ほとんどの人が、病人のように、病院のベッドで治療を受けていて、「あそこが痛い。ここが痛い。もっとよい薬をくれ。もっと楽にしてくれ」と言っているような状態なのです。みんながそのように言っているのでは困ります。もっと医者や看護師を増やさなくてはいけませんし、薬ももっと出さなくてはいけません。したがって、自分のできるところから愛を与えていきましょう。人のためになることをしましょう。自分が幸福になりたいと言う前に、人を幸福にしようとしてごらんなさい。そういう人が増えたら、悩みは自動的に解決していくのです。

 まず、できることからやりなさい。人に対して、与える愛を実践することです。そこから道が開けるでしょう。与える愛を実践している人は、すでに幸福への第一歩に入っています。まず、毎日が楽しいでしょう。それから、人が喜ぶ姿を見て、自分もうれしいでしょう。人が喜ぶ姿、人が幸福になる姿を見て、自分も幸福になれるようになったら、すでに天国への第一歩に入っているのと同じです。そういう人が死後に天国へ行くのです。  

 第一関門の愛の原理をマスターしただけでも、天国の門は充分に開きます。したがって、簡単なようで、非常に奥が深いのです。」

 

愛の本質

 大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「愛の本質とは、やはり与えることなのです。愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います。愛に苦しむ人々よ、よく開きなさい。なぜあなたがたは、苦しむのですか。なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。みかえりを求めてはいけません。みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です。あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人々を愛すべきなのです。苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛のみかえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。神からくるみかえりとは、なんでしょう。それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。それが、神のみかえりなのです。   神の本質を見てごらんなさい。神は、燦々(さんさん)とふりそそぐ太陽の光のごとく、無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているのではありませんか。あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。与えるとは、どうすればひとりでも多くの人々がしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、ほんとうの愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の力だからです。」

 

愛の対極にあるもの

 愛の対極にあるものは、実は、憎しみではなくて嫉妬である。

 人間は自分が最も強い関心を持っている方面で優秀な人に嫉妬心を持つものであって、嫉妬とは、自分がなりたい理想像を打ち壊そうとする心の作用である、と知らなければならない。

 逆に、祝福の心は「肯定の心」であり、「他の人の幸福を願う心」であるから、この心を持っていれば、自分が祝福している人の方向に向かって人生を歩んでいくようになる。

大川隆法総裁は、『真実への目覚め』で以下のように説かれました。

「愛の対極にあるものは何でしょうか。通常、「愛の対極にあるものは憎しみだ」と言われることが多いでしょう。しかしながら、私は、「愛の対極にあるものは、実は、憎しみではなくて嫉妬である」と感じています。  例えば、家庭が崩壊する場合を見ても、憎しみによって崩壊するのではなく、嫉妬によって崩壊することが数多くあります。また、人間関係が壊れる場合を見ても、憎しみによって壊れるのではなく、嫉妬によって壊れていくことが数多くあります。愛の対極にあるものは嫉妬です。人間は誰に対しても嫉妬をするわけではありません。そうではなくて、自分が最も強い関心を持っている方面で優秀な人に嫉妬心を持つのです。  例えば、みなさんが「サッカーの選手になりたい」と強く願っていれば、自分よりサッカーの上手な人を見ると、嫉妬を感じます。しかしながら、「サッカーの選手になりたい」と思っている人が、柔道の選手を見て嫉妬することは、あまりないのです。同じように、「お金が欲しい」と強く願っていると、お金持ちは嫉妬の対象になるでしょうし、「異性から愛されたい」と強く願っていると、異性から愛されている人に対して嫉妬の心が湧いてくると思います。そのように、第一段階として、「愛の対極にある嫉妬は、本当は、自分がなりたい理想像、自分が『あのようになりたい』と願う理想像を打ち壊そうとする、心の作用である」ということを知らなければなりません。  本当は、表面意識下では実現を願っているにもかかわらず、目標になるべき方向にいる人に嫉妬することによって、みなさんは、その方向に進むことができなくなるのです。なぜならば、みなさんには、嫉妬をしている対象に対して、必ず、批判をし、悪口を言い、その人の欠点を指摘するようになる傾向があるからです。ここは大事なところです。みなさんが心に感じる嫉妬が、「本当は、この人のようになりたい」と思う人に対するものであることを、素直に認めることができたならば、嫉妬の心を抑えて、逆に祝福の心を持っていただきたいのです。  祝福の心は「肯定の心」です。「かくありたい」と願う心です。祝福の心は、「他の人の幸福を願う心」なのです。  その心を持っていれば、みなさんは、自分が祝福している人の方向に向かって、人生を歩んでいくようになるのです。」

 「愛の原理」は、「与える愛」の大切さを説くが、愛にも発展段階があることを銘記しておかなくてはならない。

 そして、現実には、愛の発展段階の最初の出発点からつまずくものだから、修行がそう簡単に終わるものではなく、常に点検し、修行しなくてはいけないものである。

 「愛の原理」は、キリスト教の愛の教えの足りない部分を補うことができるから、当会の愛の教えが広がるだけでも、世界は平和になり、人類はかなり幸福になっていく。

大川隆法総裁は、『幸福の法』で以下のように説かれました。

「愛の原理は、「『奪う愛』をやめて、『与える愛』に生きなさい」ということであり、これを守るだけでも天国に入れるのですから、ありがたいことです。  ただ、「与える愛」の実践に智慧が足りないと、失敗することもあります。人を甘やかして堕落させたり、悪いことをしている人をほめて、それを助長したりすることも、たまにあるので、そういう局面が出てきたら、智慧を使わなければいけません。そういう意味で、智慧を使って、ときどき、心ならずも叱らなくてはいけないときがあります。厳しい面、厳しい父親のような面を見せて、導かなくてはいけないところもあります。そういう生かす愛も勉強しなくてはいけないでしょう。ただ、生かす愛が強くなると、善悪の目がかなりはっきり出てきますが、善悪を分けすぎると、本来の仏の心から少し離れるところもあります。それを超えていくものは、やはり、許す愛なのです。生きとし生けるものに対する深い慈悲の心、これで超えていけるのです。さらには、「自分の今生での数十年、あるいは百年の人生を、最大限の光として遺したい。多くの人に光を与えたい。闇夜の法灯のように、できるだけ光で照らしたい。港にある灯台の光のように、できるだけ遠くまで光を届けたい」という気持ちを持たなくてはいけません。そういう愛の発展段階があるということを、修行者はみな、心のなかに銘記しておかなくてはならないのです。しかし、現実には、最初の出発点からつまずくでしょう。「存在の愛の実践をしよう」と思っても、夫婦げんかや親子げんか、兄弟げんか、友達とのけんか、職場での上司とのぶつかり合い、同僚の嫉妬など、いろいろなものがあって、うまくいかないものです。したがって、「この段階が終わったから、自分の修行はもう終わった」というようなものではないのです。いつも原点はここにあり、くり返しくり返し出てくるものであって、常に点検し、修行しなくてはいけないものなのです。  これが愛の原理です。ここだけでも押さえていただければ、世界は平和になりますし、もう一つ、キリスト教の愛の教えに足りない部分を補うことができます。キリスト教では、愛の教えが説かれていながら、足りないものがあるため、争いが絶えません。そこへ、仏教的な部分を加味した愛の教えが入り、慈悲の教えに転化すると、争いがやんでいくところがあります。  したがって、当会の愛の教えが世界に広がるだけでも、人類はかなり幸福になると思います。」

 

愛とは、私が知るかぎり、この地上では、最大の力を持っております。 この地上を去った実在界、四次元以降の多次元世界においても、愛は最大の力です。 しかも、次元のはしごを登るほどに、愛の力は強くなっていきます。 なぜならば、愛の力とは、結びつける力だからです。 排斥しあう力は、お互いに弱めあいます。 しかし、結びつける力とは、ひとりの力を二倍にも三倍にも強めてゆくものです。 ですから、愛に敵なく、愛の向かうところに、立ちはだかる敵はいないのです。 愛は戦車です。愛は丘を登り、谷をくだり、川をわたり、沼をつきぬけ、悪の要塞をものともせず、つき進んでゆく戦車です。 愛は光です。愛は闇夜を照らし、過去を照らし、現在を照らし、未来を照らす光です。天上を照らし、地上を照らし、人の心を照らす光です。この世のいかなる悪もかぎりなくやさしく溶かし、この世のいかなる悲しみをも、かぎりなくあたたかく包み込む光です。 愛は生命です。すべての人は、愛を糧として生き、愛を力として生き、愛を生命の炎として生きているのです。すなわち。愛はすべてだからです。愛なくして生なく、愛なくして死なく、愛なくして道なく、愛なくして希望なし。愛はすべてのすべてにして、糧にして生命です。 愛は情熱です。情熱は、若さの力であり、無限の可能性への信頼です。その熱きエネルギーの中にこそ、真なるものがあり、つきはてぬ生命の躍動があるのです。 愛は勇気です。愛なくして、人はふるいたつことあたわず、愛なくしては、人は死と立ち向かうことはできないのです。愛は真理の導火線に火をつけるたいまつであり、迷妄に対して解き放たれた一本の矢なのです。 愛は誓いです。人々は愛の名のもとに、ともに暮らし、ともに語らい、ともに歩んでゆきます。もし愛という名の絆がなければ、人々は途方にくれ、夕暮れを待つばかりです。 愛は言葉です。言葉なくして愛なく、愛なくして言葉はありません。愛はよき言葉であり、よき想いであり、よき波動であり、よき調べです。神は言葉にて世界をつくります。そして、愛は言葉にて人をつくるのです。 愛は調和です。愛ありてこそ、人はむつみあい、許しあい、生かしあい、すばらしい世界をつくるのです。愛の輪のなかには、怒りもなければ、ねたみも、そねみもありません。愛の輪のなかには、ただこれ大調和があって、すべての人が、生かしあっているのです。 愛はよろこびです。愛なくして真のよろこびはなく、愛なくして真のしあわせはありません。愛は神のよろこびの表現であり、地上の悲しみを一掃する魔法です。愛はよろこびであり、そのよろこびがまた愛を生み、その愛がまた、よろこびを生むのです。かくして、愛は円環であり、かくして愛は循環なのです。 愛は進歩です。ひとつの愛は、ひとつの進歩を生み、ひとつの愛は、ひとつの光を生む。愛ある日々は、進歩ある日々です。なぜならば、愛の行く手には、神がいるからです。愛の行く手には、数かぎりない精霊たちがいるからです。愛のあるところに、退歩はありません。愛のあるところに、おそれはありません。愛にはただ進歩あるのみです。愛には、ただ向上あるのみです。愛とは、ただ、神のもとへと飛んでいくことなのです。 愛は永遠です。愛は過去にあり、現在にあり、未来にあります。時のなかに愛なき時はなく、時代のなかに愛なき人はいないのです。愛はすべての時をつらぬく、輝ける黄金の翼なのです。はるかなる天空をかけてゆくペガサスです。愛は永遠の時を生きる証であり、愛は永遠の今をつかまえる狩人です。 そして最後に、愛は祈りです。愛なくして祈りなく、祈りなくして愛はありません。愛は祈りによりて、より積極的な力となります。愛は祈りによりて、すべてのものごとを成就するのです。祈りは、愛を高める力であり、祈りは愛を深める秘法です。すなわち、神への祈りによりて、愛は成就し、神への祈りによりて、愛は実現するのです。 神は愛なり、愛は神なり。愛を神ならしむ力は、祈りなり。祈りによりて、人々は生き、祈りによりて神を知る。かくして、祈りによりて、人は愛の力を最大に発揮することができるのです。(太陽の法 第3章「愛の力」より)

 

感謝と報恩

 「生かされている自分」ということに気がつかなければ、「愛を与える」というところに思い至らないのです。  生かされているから、「感謝の心」が出てきます。  また、生かされているから、「報恩の心」が出てくるのです。(『青銅の法』より)

愛、祈り、自己実現のプロセス

 愛の実践行為に生きて初めて、そこに日々の感謝が生まれ、日々の感謝が報恩のための祈りを生んでいくのです。そして、その報恩のための祈りは、さらに高度な自己実現をもたらすための指針を下してくれるようになります。  すなわち、「愛から祈りへ、祈りから自己実現へ」 このプロセスこそが大切なのです。(『愛から祈りへ』より)

愛の原点に気づくこと

 信仰とは、この愛の原点に気づくことです。「人間は仏によって創られ、その本質は愛である」ということに気づくこと、これが信仰の出発点なのです。「どこか遠くにあるものに祈れ」「はるか地球圏外にある存在を拝め」などと言っているのではありません。「自分自身の心の内を見よ。そこに愛の光が見えるか」と言っているのです。愛の光が見えたならば、そこが、あなたの信仰の出発点です。自分の本質が愛であることを知ったならば、それは、仏に向かってまっしぐらに突き進んでいくことを要請するものなのです。(『限りなく優しくあれ』より)

優しさ

 大川隆法総裁は、『愛の原点』で以下のように説かれました。

「私の願いはいつも同じです。「人に対して常に優しくありたい。優しい人でありたい」と思っています。ときに勇気ある言葉を吐き、ときに勇気ある行動をし、ときに力強い決断をしなければならないこともあります。それもこれも、その底には優しさというものが流れています。より多くの人々に幸福になっていただくために、より多くの人々に幸せになっていただくために、そうした強い言葉も、勇気の言葉も、力強い行動も起きてきます。優しき人とならんとしているがゆえに、そうした気持ちもわいてきます。ただ、私はみなさんに、そう難しいことをお願いしようとは思いません。私がみなさんに、かくあってほしいと思うことは、「常に優しき人となれ」ということです。仕事のなかに埋没しているときにも、家庭のなかで苦しんでいるときにも、私はみなさんに、この言葉を思い起こしてほしいのです。「常に優しき人となれ」という言葉を。人間は、ともすれば、当然という気持ちで、自分だけが豊かな暮らしをしたり、自分だけが人々にほめられたり、そうした自分だけが満足のいくような人生に、あぐらをかきがちです。しかし、その途中において、倣慢になったり、他人に対して厳しくなりすぎたりしている自分というものがあるのではないでしょうか。人間がいちばんうれしい瞬間は、人から優しくされた瞬間ではないでしょうか。優しくしてもらった瞬間ではないでしょうか。さすれば、自分もまた、常に優しき人となろうではありませんか。自分が人にそうされたいが如く、自分もまた人に接しようではありませんか。常に優しき人として、生きていこうではありませんか。」

勇気

 儒教の孔子は、智慧があり、かつ、人に対して優しさがある人物であって、勇気もなければいけないと教えている。

 その勇気とは、正しいことは「正しい」、間違っていることは「間違っている」とはっきりともの申し、実践し、行動し抜く力である。

 日本人のいちばん弱いところは、実はここである。

 大川隆法総裁は、『政治の理想について 幸福実現党宣言②』で以下のように説かれました。

「儒教の孔子の考えから言えば、徳の発生源は「智・仁・勇」です。「智」とは智慧のことですが、政治的に言えば、これは、「国民を幸福にできる政策として、専門知識を織り込んだ考え方を具体的に打ち出せるかどうか」ということだろうと思います。次の「仁」は、当会でいう「愛」に当たるわけですが、これは、「多くの国民を本当に愛し、生かすものになっているかどうか。彼らを守り、育て、そして、素晴らしい人間にしていくような内容を持っているかどうか」というようなことです。これが仁の心でしょう。それから、孔子は、「徳には勇が必要だ」と言っています。「勇気」の「勇」です。「勇」がなかったら徳は完成しないのです。「智」だけであれば、学者でも可能です。「仁」だけであれば、人柄のよい優しい人は世の中に大勢います。しかし、「智」だけでも「仁」だけでも駄目で、「智」も「仁」も必要なのです。智慧があり、かつ、人に対して、思いやり、優しさがある人物です。さらに、智慧があって優しい人物に勇気もなければいけない。孔子は、こう述べているわけです。その勇気とは何であるかというと、「正しいことは『正しい』、間違っていることは『間違っている』」と、はっきりともの申し、実践していく力、行動し抜く力です。「日本人のいちばん弱いところは、実は、ここだ」と私は思います。」

厳しさの中の愛

 いつも人の意見を聞いてあげることが、愛であり優しさであるとは限りません。その人が、いまここで立ち直らなければ、どうしようもないというような状況であるならば、厳しい一言を加えること、厳しい姿勢をとることも、大いなる愛であることを知らねばならないのです。(『幸福の原点』より)

菩薩の世界は「利他」の世界

 この菩薩の世界は完全に「利他」の世界です。 人々をどう救うかということばかりを一生懸命に考えている人たちがいるのです。 私はみなさんに、この世界へ還っていただきたいのです。 それを目標としていただきたいのです。

 それを目標としていただきたいのです。 この世だけの成功理論はいくらでもありますが、この世とあの世を貫いて、この光輝く世界に還ることをこそ理想とした生活をしなくてはなりません。 (『発展思考』より)

与える愛の幸福   

「与える愛」の心があるか   

愛は結びつけあう力  

愛の起源   

愛の表れ方   

愛の証明    

「与える愛」と「自己犠牲」の違い  

ギリシャ的愛   

「仏陀」と「ヘルメス」   

光一元

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