反省の原理

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 私たち人間は、地上に生まれ人生を送る途上で、様々な間違った思いを持ったり、間違った行為や罪を犯し、心を汚してしまうことは避けられません。 しかし、貪りの心、怒りや怨み、嫉み、愚かな心の悪なる心で生きていると、波長同通の法則により、同じ心の傾向性の悪しき霊(悪霊・地獄霊)に憑依され、不幸な人生を送ることになってしまうのです。 そして、そのままあの世に還れば、自分の心の傾向性と同通する地獄へと堕ちてしまうのです  

 「反省」とは、「みずからを省みる」という行為であり、本来の仏の子としての心を取り戻す行為なのです。  現代という時代は、半数以上の人が地獄に落ちているということを踏まえて、反省の大切さはいくら強調しても強調しすぎることはないと思います。人は、人生のなかで様々な罪や間違いを犯しがちではありますが、反省という行為を通してその罪や間違いが、仏によって許されるのです。そして反省という行為を通して、心の汚れた部分が金文字に変わるという霊的な真実があるのです。たいていの人は真理を知らず、自分が間違った生き方をしているとは知らない方がほとんどなのです。ですから、仏法真理に基づいて反省できるということは、死後の地獄に行くことを考えたならば、生きている間に反省ができるということもまた幸福なことであるのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『繁栄の法』の中で以下のように説かれました。

「繁栄するために身につけるべき「よき習慣」には、どのようなものがあるでしょうか。信仰生活という観点からいえば、「反省」があげられます。これは幸福の科学でよく教えていることです。人間は自由性を与えられているため、間違いを犯すことがしばしばあります。思い違いをしたり、間違った行動をしたりします。しかし、間違ったことをしても、みずからをよく振り返って反省すると、仏の光が入ってきて、その間違った部分が許されます。「反省によって、間違いが正され、その部分の罪が消える」という法則があるのです。その意味で、「反省は消しゴムのようなものだ」と言えます。間違って書いた漢字や計算式を消しゴムで消すのと同じような効果が、反省の力として与えられていて、やり直しがきくようになっているのです。一度でも間違ったことをすると、もう取り返しがつかないのならば、人間はしばしば間違いを犯す生き物なので、世の中のすべての人が地獄へ行ってしまうことになります。ところが、間違ったことをしても、反省という消しゴムによって、それを消せるのです。間違った思いを出したり、間違った行動をしたりしても、それをきれいに消して、書き直すことができるわけです。このようなことが許されているのは非常にありがたいことです。反省は人間にしかできません。動物の場合は、からだが本能的にどんどん動いていきます。犬には犬の、猫には猫の、豚には豚の、牛には牛の本能があって、どうしても本能に従った行動をとってしまい、それ以外の行動はできません。動物は本能のほうが強く、植え込まれたパターンに則って動くだけなのです。しかし、人間だけは、各人がそれぞれ違った考え方や行動をとることができます。そのような自由性が人間には与えられています。この点が人間に生まれることの幸福なのです。自由性が与えられた結果、間違いも起きますが、その場合でも、きちんと反省をすれば、やり直しがきくのです。反省には、この世での反省だけでなく、死後、あの世に還ってからの反省もありますよき習慣の一つとして、反省は非常に大切なものです。」

 

なぜ反省が必要か

 愛他を愛他として実効あらしめるためには、充分な自分づくりができていなければならない。まず、みずからの心を洗濯し、光り輝いたものにしていく必要がある。

 たとえて言えば、いくら皿を拭いたとしても、ふきん自体が汚れていたら、皿はきれいにならない。皿を拭くためには、まず、ふきんを洗濯しておかねばならない。その洗濯にあたる行為が反省なのである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「次に、「なにゆえに反省法というものを行なうのか。なにゆえに反省が必要だとされるのか」ということについて、説明をしていきましょう。反省というのは、光り輝いた自分を取り戻すための行為です。光り輝いた自分とは、実相の世界にある自分です。 の地上界を離れた世界には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元といった、さまざまな次元構造がありますが、実相の世界において、人間の魂が光り輝いているのは、主として七次元以降の世界だと思います。仏陀の説いた反省も、結局、七次元菩薩界の境地に到達するための方法論だったのです。菩薩の境地に達するための第一歩は、みずからの心に付着した塵や垢を除いて、みずからの心を光らせることです。まず、自分自身の完結した世界のなかで、塵や垢を落として光り輝きます。そして次に、愛他行、利他行へと踏み込んでいきます。これが「菩薩行」と呼ばれているものです。たとえば、いくら皿を拭いたとしても、ふきん自体が汚れていたならば、皿はきれいにならないでしょう。皿を拭くためには、まず、ふきんを洗濯しておかねばなりません。同様に、ほうきをきれいにしておかなければ、部屋を掃いても、きれいにはなりません。うわべをきれいな衣装で飾り立てたとしても、その下に何日も着替えていない下着をつけていたならば、他の人がよい印象を持つことはないでしょう。また、みずからが充分な学びをしていないにもかかわらず、生徒を一生懸命に教えている教師がいたならば、その生徒はおそらく向上しないでしょう。要するに、愛他の思いは意外と簡単に出すことができますが、愛他を愛他として実効あらしめるためには、充分な自分づくりができていなければならないのです。まず、みずからの心を洗濯し、光り輝いたものにしていくという、第一の作業が必要なのです。これが反省法の神秘でもあります。人間は、少なくとも自分の心のあり方に関しては、完全なる自治権を与えられています。他人の心を光らせるという実績を目のあたりにする前に、まず、みずからが、心が軽くなり光ったという実績をあげることが必要です。これは、狭い意味にとれば、利己主義的に響く可能性もなきにしもあらずですが、「法」というものを学ぶ出発点はここにあります。自己を統御し、より素晴らしいものに変化させていく気持ちのない者と、「法」は無縁であると言ってよいのです。そうした者に対して、「法」は決して意味のあるものではなく、「猫に小判」「豚に真珠」ということわざで言われることと同じになってしまいます。この出発点を、しっかりとつかんでいただきたいと思います。」

 

毎日の反省

 心に積もるちりやほこりは、言ってみると、庭に落ちる落ち葉と同じ。

 昨日、掃除しても、今日はもうパラパラと落ちている。こちらの都合でまとめて掃除したくとも、そうはいかない。

 この落ち葉を掃除する「反省行」をしないで、世の中をよくしていこう、他の人をよくしていこうと活動していっても、じつはそれは、汚れた雑巾で一生懸命掃除しているのと同じことになる。

 大川隆法総裁は、『信仰告白の時代』で以下のように説かれました。

「雑巾は、白いタオルなどを縫ってつくるわけですが、床を何度も拭いたりしているうちに黒くなってきます。これが、だいたい、何十年か生きてきた人間の状態なのです。二十代、三十代、四十代、五十代、六十代・・・と進むにつれて、色がだんだん深く染まってきます。雑巾も、長く使っていると、洗濯機で洗ったぐらいでは、汚れがなかなか抜けなくなるでしょう。それと同じように、だんだん自分に色が染み込んでいくのです。しかし、もともとは真っ白なものなのです。真っ白い雑巾であればこそ、それで拭くと、机やテーブルがきれいになるのです。ところが、汚れた雑巾で拭かれると困るでしょう。拭くと逆に汚くなるのであれば、御飯が食べられないでしょう。それと同じようなことなのです。雑巾の話であればわかるでしょうが、毎日の日常生活でも同じようなことがあるのです。たとえば、いつも不平不満に満ち満ちていて、ご主人の顔を見れば悪口を言う奥さんがいたとすると、ご主人にしてみれば、それは、毎日、帰ってきて夜の食卓を囲むたびに、雑巾で顔を拭かれているのとまったく同じ状態なのです。人間として生きている以上、みなさんは毎日毎日、誰かと必ず関わり合いを持って生きているのです。したがって、ある意味においては、日々、まわりの人を汚染している可能性だってあります。もし、みなさんが発信しているものが悪ければ、まわりの人を汚染しているのです。その考え方、その思いによって、その言葉、その行動によって、まわりの人びとを汚していることも現実にはあるのです。そうすると、他の人との関わり合いにおいて、まず大事なことは何でしょうか。それは自分自身をきれいにすることです。ここから入らなければいけません。まず雑巾をきれいにしなければ、「人のためを思って、私は一生懸命に廊下を拭きました」といくら言っても、廊下はきれいになっていません。汚れた雑巾で、食事前にテーブルを一生懸命に拭いたところで、実はきれいになっていないのです。それと同じです。このように、世の中をよくしていこう、あるいは他の人をよくしていこうという思い自体は尊いものであっても、他の人びととの関わり合いの出発点である自分自身が、もし非常に濁ったものであったならば、他の人びとにも悪い影響を与えることが当然あるのです。そうしてみると、毎日毎日、掃除や洗濯が必要なように、自分自身の心の洗濯が必要なのです。それは、秋になると、毎日毎日、庭に木の葉が落ちてくるのと同じです。「まとめて落ちてくれ。そうしたら、月に一回、掃除するから」と思っても、そうはいきません。毎日毎日、パラパラ、パラパラと庭に落ちてきます。それと同じように、毎日毎日、心に積もるものを掃除していく必要があるのです。」

 総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「釈迦は、二十九歳で出家します。それから、六年間の難行苦行のはて、苦行をすて、菩提樹の木の下で悟りをひらいたのは、三十五歳のときです。彼は、約一週間にわたる禅定ののちに、ある夜、夜中の一時ごろから深い定に入ってゆきます。そして、そのときに得た悟りというのが、つぎのようなことでした。「私は、長年にわたって、食べるものをろくに食べず、飲むものもろくに飲まず、肉体を極限まで苦しめ抜いたときに、精神的な飛躍が得られる-悟れる、と思って苦行をやってきた。  もし肉体を苦しめることが人生の修行ならば、人間は、肉体に宿って生まれてくること自体がまちがいではないのか。もし本仏が私たちの肉体を否定することを願っているならば、自殺者こそ、最高の覚者といえるだろう。しかし、自殺によって得られる結果はなんだろうか。大宇宙の法則は、原因-結果の連鎖のなかにあり、悪しき種をまけば、悪しき実を刈り取らなければならないことは確実である。自殺によって、苦しみという新たな原因をつくれば、あの世の地獄界でも、のたうちまわるような苦しみが待っているにちがいない。自分自身の肉体を苦しめる難行苦行は、緩慢なる自殺行為そのものではないか。仏の境地がやすらぎの境地であるならば、苦行のなかにはやすらぎはない。苦行のなかには悟りの因はない。自分自身の心がやすらいでいないで、自分自身の心のなかに幸福感なくして、一体どうして他人に対して、真にやさしくし、真にいたわることができようか。しかし、自分のなかの幸福感とは、一体なにか。カピラヴァスツにいたころ、王子として、みなの者からちやほやされ、金も、女性も、物質も、なにもかも自分の自由になったとき、はたして、私の心のなかには幸福感があっただろうか。カピラヴァスツの日々は、私にとって、決して幸福な日々ではなかった。精神的には満たされず、不安と、焦燥ばかりがつのっていた。  本仏の子・人間としてのほんとうの悟り、ほんとうのしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦行のなかにもない。極端に肉体をよろこばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、ほんとうの悟りほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のなかに真理を発見してゆく生き方である。人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである。そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥をきわめてゆく途次にこそ、幸福感は高まってゆくのである。」

八正道

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