旧約聖書の エローヒム と ヤーウェ

 旧約聖書の中で天地創造を記す「創世記」は、前編と後編に分かれており、前編では神を エローヒム と呼んでいるのに対し、後編では突然「ヤハウェ神」を名乗る者が登場します。

 旧約聖書に出てくるエローヒム(Elohim)は、ユダヤ教やキリスト教で「神」という意味をもっています。

 旧約聖書やユダヤ教の聖書には、2500回以上エローヒムという言葉が出てくるようです。その中には以下のような記述があります。

創世記1:1  初めに神(エローヒム)は天と地を創造された。

創世記1:26  そして神(エローヒム)は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と仰せられた。

詩篇82:1  神(エローヒム)が神々の会衆の中に立つ。神(エローヒム)は神々の中央で裁きを下す。わたしは言った。「お前たちは神々だ。お前たちはみな、いと高き方の子らだ。にもかかわらず、お前たちは、人のように死に、君主のひとりのように倒れよう」

 詩篇82:1の意味については様々な解釈がありますが、その中でも有力なのは、「エローヒムが他の神々や天使の頂点に立つ」という説です。

 このように、エローヒムは7日で天地・人類を創造した、全ての生命の起源の神として紹介されています。

創世記第一章は エローヒムの書

 しかし、エローヒムの正体についてもう一つ違う考えが存在します。旧約聖書の中で天地創造を記す「創世記」は、前編と後編に分かれている。前編では神をエローヒムと呼んでいるのに対し、後編では「ヤハウェ神」を名乗る者が登場します。

 日本語の『聖書』を開くと、当然ながら「神」という言葉が沢山出てきます。英語版ではGod にあたります。その一つ前のギリシャ語聖書でも、それに相当す「神」なる言葉が出てきます。

 ヘブライ語の原典の旧約聖書には、その翻訳する前の元なる「神」のことが「エローヒム」と書いてあるのです。

 これまで多くの聖書学者は、「エローヒムとは、一般的な「神」を意味する「普通名詞」であって、特定の神の名を表した「固有名詞」ではない」と主張してきました。というのは、エローヒムや(その単数形の)「エル」は、ユダヤ民族が戦ったり征服してきた他民族をも指導してきた、普遍的な神だとみなされていたからです。

 「普遍的な神様が民族を超えて少なくともユダヤ民族を含めた中東全域を指導していた」ということは、ユダヤ教では認めていません。

 一方、考古学や神話学(宗教学)の方では、「エローヒムとは、どう見ても、特定の個性を持った「固有名詞」だったのではないか」ということを認めている学者もおられます。

 『エローヒム』とは、普通名詞の側面もあるが、そもそも、そういう名前を持った特定の神が存在していた。そして、その後もその神様は、ユダヤ民族を含めて天上界から指導をしてきて、現在も存在している。そして、現在の名前を『エル・カンターレ』というのである。

 聖書の冒頭、「創世記」の最初の文章は、「In the beginning(原初に),God created the heavens and the earth.(神は天と地を創造し給うた」です。

この「God(神)」は、ヘブライ語の聖書では、「エローヒム」と書いてあります。ですから、「神」と訳さずに、「エローヒムは、天と地を創造し給うた」と訳すそうです。

 そのあと、神(エローヒム)は、7日間でいろいろなものを創造されたのですが、まず、神は「光あれ」とおっしゃった。すると「光が現れた」。「地に植物を芽生えさせよ」とエローヒムが仰ると、「そのようになった」。次に、エローヒムは二つの大きな光るものを創られた。「大きいほうの光るもの(太陽)には昼をつかさどらせ、小さいほうの光るもの(月)には、夜をつかさどらせた。また星々を創られた」とあります。

これらの文章の主語がエローヒム(つまり、エル・カンターレ)であると解すると、「大宇宙の創造主」としての真実味を帯びてきます。

 更に、エローヒムは、動物を創造された後に「いよいよ、人間を創造しよう。我々の姿に似せて」とおっしゃいます。

 ここで「我々」と言っているのは、「エローヒム」が複数形であることに対応しています。エローヒムが「神」であると同時に「神々」(指導霊団)であることがこれでも明らかで、「一神教」からは説明のつかない事態なのです。このような事例は聖書の到る所に出てきます。

 そして、「エローヒムのかたちに人間を創造し、男と女を創造した」。

 なお、第2章の中で、「男(アダム)の あばら骨 から女(イブ)を創った」と主張している「神」はエローヒムではない。ヤハウェ である。

 

エローヒムがモーセに語りかけた部分

 その次の「出エジプト記」も重要です。ヘブライ語までさかのぼると、「出エジプト記」のどの部分が「エローヒムがモーセに語りかけた部分」かわかります。  出エジプト記の第3章で、モーセがミデアンの地にて父祖の神と出会う瞬間ですが、「エローヒムは、柴の中からモーセを呼び止めて、エローヒムは、「モーセよ、モーセよ」と仰った。モーセは、「はい、ここにおります」と答えた」とあります。  「その時に、エローヒムは仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたは靴を脱ぎなさい。あなたの立っている地は、聖なる地である」「私(エローヒム)は、あなた方の父祖の神、アブラハムの神であるエローヒムであり、イサクの神であるエローヒムであり、ヤコブの神であるエローヒムである」と、語源までさかのぼれば正確にはそう訳されるべき箇所が出てきます。それに対して、モーセは「エローヒムを仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」とあります。エローヒムは、続けて「私があなたを、イスラエルの民のところに遣わす」と言います。すると、モーセは彼らに「あなた方の父祖の神が、私をあなた方の下に遣わした」と言えば、彼らは、「その神の名は何ですか」と尋ねるでしょう。私は何と答えたらいいのでしょうか」と聞き返します。ここからが有名なくだりです。「God said to Moses. “I am Who I am”.」 このGodは、エローヒムと置き換えてください。「私は在りて在るものである」。「このようにイスラエルの民に答えなさい」とモーセに言ったのです。ここが今の西洋文明の一つの出発点なのです。

 

ヤーウェの「誤訳」

  旧約聖書には、ヤーウェという神が出てきますが、ユダヤ教徒でそれを「ヤーウェ」と発音する人はいません。「みだりに名前を口にしてはいけない」という戒律があって、通常は、別の名前を代名詞として使っています。その代理の表現を「アドナイ」と発音します。その「アドナイ」が、ギリシャ語に訳されたときに、「主」という意味のギリシャ語に訳されてしまいました。従って、英語に訳された時は、”Lord”となり、日本語の聖書では「主」となっています。「聖書に登場する「主」の語源が、すべて「ヤーウェ」である」とは言いませんが、少なからぬ部分は、「ヤーウェ」を語源としています。  もちろん、根本にある原因は、「至高神エローヒムとその他の神霊の区別がつかなかったモーセの悟りの未熟さ」(『黄金の法』第5章)にあるのですが、それが、聖書の上ではそのような翻訳のスタイルとなって現われてしまったのです。

 ヤーウェ起源のいわゆる「主」の発言を見てみます。ユダヤ民族の始祖はアブラハムですが、「創世記」第12章でアブラハムの前に登場する、いわゆる「主」を、ヤーウェに置き換えて読んでみます。

 「ヤーウェは、アブラハムに言った。あなたの周りであなたを祝福する者たちのことは、私も祝福してあげるが、あなたを呪う者がいたら、私もその者を呪ってやる」と。この発言はおかしい。「これがイエスの言われる”天なる父”の言葉なのだろうか?」と。「あなたを迫害する者のためにこそ祈れ」と、「あなたを呪う者をこそ許せ」と、神ならばおっしゃるはずではないかと思われると思います。

 「許す愛」を説いて、これを修正するためにイエスが降臨された意味がよくわかります。

 「これが本当に神様の言葉なのだろうか?」と思っても、「でも、Lordの名の下に書かれていることだから、神様が呪ってもいいなら、自分達も、呪ってもかまわないのだ」ということになって、紛争が絶えないわけです。 

 次に、「出エジプト記」の第5章を見てみます。

 モーセが山でエローヒムに会った後、モーセと兄のアロンはパロ(エジプトの王)に会いに行って、次のように言います。「ヤーウェはこう言っています。”私の民(イスラエルの民)を自由にして、元に戻しなさい”と」

 すると、パロはこう答えます。「ヤーウェとは誰だ? 聞いたことがないね」と。

 つまり、超大国エジプトの王から見ると、「辺境のパレスチナの地の山の神の名など知らない」というわけです。

 このように、「主」を「ヤーウェ」(辺境の地の山の神)に置き換えると、文章の意味が一変してきます。

 その後、第5章以下第12章まで、パロにヤーウェの言うことを聞かせるために、ヤーウェの名の下に行われたことは、「ナイル川の水を血の色に変えたり」、「蛙(カエル)を大量発生させて、地を覆ったり」、「地上の塵(ちり)を大量のブヨに変えて、人間を襲わせたり」、「アブの大群を家々の中に侵入させたり」、「人々の皮膚に、膿(うみ)の出る腫れ物をつくったり」、「農作物の上に雹(ひょう)を降らせたり」、「イナゴの大群に全土を襲わせたり」、「エジプト人の全ての初子(ういご)の命を奪ったり」ということです。

 「あなた方は、私以外の神を信じてはならない」(「出エジプト記第20章)「あなた方は、偶像を造ってはならない」(同上)「あなた方の神であるわたしは、妬む神である」(同上)「だから、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代先まで呪ってやろう」(同上)という言葉は、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「主」とは言っていますが、すべてヤーウェの言葉であることがわかります。

 モーセがシナイ山で「十戒」を授かった有名な場面があります。そのとき、なかなかモーセが山から降りて来ないのを見て、イスラエルの民が、エジプト時代のように、子牛の像をつくってその周りで踊ったりします。

 すると、それを見たモーセは怒り狂ってこう叫びます。「ヤーウェは、こう仰っている。『おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入り口から入り口へ行き巡って、自分達の兄弟、自分達の友、自分達の隣人を皆殺しにせよ』と」。

 そして、そのとおり実行したので、一晩で三千人が虐殺されたと、「出エジプト記」第32章には書いてあります。しかし、天地創造の神がそのような「異常性のある行動」を命じるはずもなく、ヘブライ語の聖書までさかのぼれば、それはヤーウェの命令でありエローヒムではなかったことが記されています。

 「創世記」第12章で、元々アブラハムの一族は、メソポタミア(今のイラク方面)の一地方に住んでいたのですが、ヤーウェは、アブラハムに向って「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが指し示す土地へ行きなさい」と命じ、カナン(今のイスラエル)の地に向かわせます。そして、アブラハムが一族と共にカナンの地に入ったとき、再びヤーウェが現れて「あなたの子孫に、わたしはこの土地を与える」と言いました。これが今の「中東紛争」の起源です。

 第二次世界大戦後、英米の後ろ盾を得て、世界中のユダヤ人が移植してきて、イスラエルの地に建国したとき、この「創世記」第12章のヤーウェの言葉が根拠とされました。イスラエルという国はこれを根拠にして建国されたのです。その土地には、ユダヤ人もいましたが、アラブ人(パレスチナ人)が沢山住んでいました。したがって、追い出された人もいるわけですが、「神のくださった約束だから」ということで、それが「正当化」されている。

 しかし、その神も、「主」とは表現されていますが、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「ヤーウェ」です。「エローヒム」ではありません。

 この二つが「旧約聖書」の中で混在していることが問題なのです。

 「我以外に神なし」「我は憎むものであり、妬むものである」ヤハウェは妬む神であって、「自分以外の神を崇拝することは許さない」と言っています。

 旧約聖書を見れば、何かといえば激怒して人類皆殺し作戦を発動する神様です。これを「邪悪な宇宙人による、地球支配の歴史」とする見方は、そういうところから来ている。

 ヤハウェという神が初めて現れるのは、紀元前13世紀のエジプトの文献であり、紀元前11~12世紀の文献では、イスラエルと契約を結んだ神として登場しています。時代が下るにつれ、ヤハウェ信仰は次第に非寛容性を帯びてきて、他の神々を排し、いつの間にかユダヤ教の至高神となっていました。エローヒムが広い意味において宇宙・世界の創造に関り、人間に生きる糧を与えた愛の神であるのに対し、ヤハウェは排他性や非寛容性が目立ちます。

 現在の中東の紛争・混乱の根源は、このヤハウェまで辿ることができます。「ヤハウェがイスラエルと契約した人類の至高神である」という考えが、ユダヤ教の選民思想を生み出しており、他の民族(現代ではイスラム教徒)の扱いを顧みない傾向があります。もっとも、この裁きの神の教えはキリスト教やイスラム教にも一部入っており、それが混乱と紛争を増長させています。

 最初の頃のユダヤ民族の預言者には、ヤーウェを信仰する一神教が頻繁に出てくる。ところが、別の神の名前も出てきます。「イザヤ書」には、第一イザヤ、第二イザヤという人が登場してきて(第三イザヤがいるという説もある)、この第二イザヤが、リーディングでは西郷隆盛なのですが、『この第一イザヤ、第二イザヤから、神の名前を「エローヒム」と呼んでいます。そのエローヒムが、イザヤの前に現れた理由は、その数百年後、イエスが降臨することになっていたので、その準備のためでした。

 「イザヤ書」第7章で、大抵の英語版聖書は、「主」をすべて大文字で”The LORD”と表記しますが、プロテスタント福音派系の聖書では、「主」のことを一部ですが”the Lord”に書き分けて表現しています。これは、前者がヤーウェ(アドナイ)に起源を持つ「主」であるのに対し、後者がヤーウェに起源を持たない「主」(つまり「エローヒム」起源の「主」)であることを分かるようにするためにそのように表記しているのです。

 

 以上を4点に整理します。

1 エローヒムは、特定の名前を持った「固有名詞」でもあったのだということ。

 旧約聖書は、「エローヒム」という名前を持った神(至高神)の物語であった。

2 ヤーウェを「主」と「誤訳」したために、様々な混乱が生じた。

 語源までさかのぼって、ヤーウェ起源の「主」を特定すると、世界宗教、普遍的宗教にふさわしくない「神の言動」を選りわけることができる。キリスト教、イスラム教との共通性、一貫性を見出すことができるようになるので、「宗教紛争」を乗り越えることができる。

3 新約聖書の「イエスの父」=「愛の神」はエローヒムである。

 キリスト教会の一部に、新約・旧約を貫く「全知全能の神」を「エホバ(ヤーウェ)」に特定したがる傾向があるが、これは誤りである。ヤーウェの正体は、パレスチナの山の神(怒りっぽい神)であり、これと至高神(普遍神)エローヒムをモーセが混同してしまったことが、中東の紛争(悲劇)の淵源である。

4 イスラム教のアラーも、エローヒムのことである。

 旧約と新約の神を(アラーとして)認めているイスラム教の穏健派(正統派)にとって、イエスは救世主でなく、預言者であった。「イエスに臨んだ神とムハンマドに臨んだ神が同じである」(アラーでありエローヒムである)ことに異存はない。

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