悟りという名の幸福

 この世の魂修行や転生輪廻を通して、人間が目指しているもの。それは無限の霊的進化であり、言葉を換えれば「悟り」の向上である。

 では何のために悟るのでしょうか?

悟りには主として3つの効果がある。

1 自分の認識力が高まることで、悩みや苦しみを解消できる。

2 人間と世界の本質がわかり、より多くの人のために貢献できる。

3 悟りそのものに、人間の魂が味わえる最高の幸福感が伴う。

 悟りは、魂としての人間の幸福や生まれ変わりのシステムを理解するための、最大のキーワードと言ってよい。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「「悟り」という言葉にもいろいろな意味があります。低い意味での悟りとは、たとえば、「人間は肉体ではない」ということを知ることです。これだけでも、悟りは悟りなのです。四次元幽界においては、「人間は肉体ではない」ということを明確に悟っている人は、そう多くありません。肉体のような、肉体ではないような、まだはっきりとは分からない生活をしている人が多いのです。また、地獄界から天上界へ上がるときの悟りもあります。この場合の悟りとは、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない。人間は他人のために生きなければいけない存在である」ということについて、最低限の認識を持つことです。地獄にいる人たちは自我我欲のままに生きています。自分中心であって、「自分が、自分が」という思いに満ちています。「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生きている人が地獄にいて、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」と言っているのです。  ただ、彼らも、自分と同じように、自己保存欲、自我我欲のままに生きている人間たちといっしょに、何十年、何百年と地獄で生きているうちに、それがいやになって、考えを改める時期が来ます。これが、地獄から天国へ上がる場合に必要な最初の悟りです。もっとやすらぎのある平和な世界を希望する時期が来るわけです。」

 歴史的な事実として、2500年前にインドの地で仏教を創始して世界に広めた釈尊(仏陀)は、6年間、独りだけで悟りを追求して悟りを開いたけれども、それ以降は、教団を組織して出家者を何千人も受け入れ、伝道活動を行なっていた。これは、現代まで伝わる仏典に書き残された客観的事実である。

 大川隆法総裁は、『大悟の法』で以下のように説かれました。

「悟りについては、「山のなか、洞窟のなかで、独りで修行して悟る」というかたちは確かにありえます。これは、仏教的には「辟支仏(びゃくしぶつ)」「独覚(どっかく)」といわれるもので、「独り悟り」です。先生に就いたり、仲間と修行したりせず、独りで、山林のなかで修行して悟るタイプです。こういう人のなかにも、仙人として立派な人はいるでしょう。ただ、そういう人は、あくまでも独り悟りで終わっており、社会に対する影響力はありません。「独り悟って、独り死ぬ」ということで、悟ったかもしれないし、悟らなかったかもしれないのです。ほかの人の目はまったく介していないので、個人の満足のレベルです。なかには、非常に高い悟りを持った人もいるかもしれませんが、いかんせん、他の人には分かりません。「山のなかの洞窟で悟った」と言っても、それを見た人も聞いた人もいないわけです。影響力もありません。他の人の目や耳を通さずに、「自分は悟った」と称する人は、自分では高い悟りを得たつもりでも、往々にして独り悟りであり、唯我独尊的になっています。「唯我独尊」は、本来、仏教的にはよい意味で使われる言葉ですが、この場合は、この世的な意味における唯我独尊です。「我のみ尊し」で、実際はまったく役に立たないことをしていることもよくあるのです。この辺は充分に戒めなければいけません。釈尊自身も、独りで修行をした時期は六年近くあるわけですが、ただ、大悟して以後は、「悟りを弘める」ということに対して非常に熱意を持っていました。その熱意を実現するために釈尊が教団を組織したということは、厳然たる事実として遣っています。出家者の数については、さまざまな説がありますが、少なくとも千人以上の出家者がいたことは確実であると言ってよいでしょう。  経典には、よく千二百五十人という数が出ています。これは一定の数え方によってそうなっているわけですが、実際には、いろいろなかたちの出家者がいたでしょうし、出家に近い在家の人もいたでしょうから、明確には数えられません。しかし、少なくとも、布施で生活しているプロの出家者が千人以上いたことは確実だと思います(『太陽の法』第4章では、晩年、五千人を超えるとする)。そして、千人が一カ所にいたのでは生活が少し厳しいので、何カ所かに拠点を分け、そこで修行し、伝道していました。マガダ国とコーサラ国に、それぞれ竹林精舎と祇園精舎という二大拠点を持ち、それ以外にも、幾つかの拠点を持っていました。そこを根城にして、修行をしつつ、伝道をしていたのです。仏教の本師である釈尊の行動パターンを見るかぎり、独りで悟りを追求する面はあくまでもありますが、ただ、組織を介して多くの人々に法を弘めようとしたことは、厳然たる歴史的事実であって、「一生、山のなかの洞窟で暮らすだけでよい」という考え方ではなかったことは間違いありません。」

言葉

 伝道などで、外に対しての光の供給が強くなればなるほど、光を補給する部分が必要になり、瞑想的生活が大事になってくる。

 しかし、逆に瞑想ばかりしていると、今度はこの世的な運営など仕事面で問題が起きてくる。

 本物の宗教は、いつもこういう矛盾を抱えているし、逆にそれがなければ本物ではない。

 総裁は、『神秘の法』で以下のように説かれました。

「一見、逆説的なのですが、この世の多くの人たちを救うためには、多くの人たちから離れなければいけません。それができないと、逆に救えないのです。  これはイエスにおいてもそうでした。群衆が、イエスを慕い、「助けてください」と、ぞろぞろと何千人もやってくるのですが、イエスは、霊力が切れてくると、この群衆から逃れています。舟に乗って逃げたり、山に籠ったりして、独りになりたがっています。独りになって閑静な所に退かないと、霊的な充電ができないのです。騒々しい群衆のなかでは、なかなか、それができません。閑静な所で瞑想し、霊的な充電をして、力が満ちてくるのを待つわけです。力が満ちてくると、群衆の前に出て話をすることもできます。そのときには、別人格のような強い力が出てくるのです。このように、宗教においては、「霊的エネルギーを補給し、そして放出する」というスタイルになっています。伝道など、外に対しての光の供給の部分が強くなればなるほど、光を補給する部分が必要になり、瞑想的生活が非常に大事になってくるのです。そのため、宗教家たちの多くは、山や森など、静かな所に、人知れず籠ります。これは非常に大事な大事なことです。そのあいだに、この世的な塵や垢の部分を落とさないと、どうしても、だめになるのです。この世に生きているかぎり、この世的な仕事から逃れることはできないので、実務的処理をやらなくてはいけないことがありますが、それが多くなると、霊的な資質が落ちてきます。しかし、瞑想状態にばかり入っていると、今度は、この世的な運営など、仕事の面で問題が起きてきます。宗教は、いつも、こういう矛盾した面を抱えています。逆に、この矛盾したものを抱えていなければ、本物ではありません。偽物であれば、むしろ一本化できるのです。何の霊感もなければ、この世的にだけやれるからです。また、あの世的にだけやっていて、お籠りだけをしている人がいます。仙人などはそうです。そういう、一人だけで修行している人は多いのですが、お籠りだけをしていると、大乗的な運動はできません。人々の救済にはならず、自分の救済までしか行かないのです。「それが幸福だ」という人もたくさんいるのですが、お籠りをして自分の救済中心になっている人は、いわゆる仙人なのです。仙人は組織も大勢の人もあまり好きではないので、仙人的なものは、やはり、趣味人の集まり、サークルのようなものまでしか行きません。お籠りと大衆布教、伝道は、宗教的には実は両輪なのです。」

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