公立学校の教師はプロの自覚を
2008年9月14日・東京大田支部における質疑応答より
教師は仕事のレベルを上げる努力が必要
現在の学校教育における根本の問題は、学校のなかに、一種の「地獄の世界」ができつつあることです。大人の世界にあるような地獄的なものが、高校のレベルに下り、中学に下り、小学校にまで下りてきているのです。
今の小学生は、昔であれば、「まさか小学生が・・・」と思われるような大人びた考え方をすることができるようになってきていますが、行動においても同様であり、なかには、犯罪的なことをする子も出てきています。
1956年生まれの私の世代でも、高校生が荒れるようなことはありましたが、今では、そのようなものが中学校、小学校にまで下りてきています。本来は聖域である学校のなかに、地獄界ができているのです。
したがって、霊的な目で見たときに、いじめの問題に取り組むということは、「地獄界との戦い」を意味するのです。
学校に地獄界ができている理由は、中心軸となるべき何かが足りないということです。この中心軸になるものとは、信仰や真理、善などの探究、あるいは、「世の中に貢献したい」という思いなどです。
今、学校では、中心軸の部分が教えられず、単に学科だけを教えるようになっています。
また、教師は、一生懸命に教えようが、手を抜こうが、大して差がつかないため、「とにかく定年まで勤められればよい」という自己保存の思いが働きがちです。
学校では、教員として採用されれば、最初からお互いに「先生」「先生」と呼び合っています。
一般の会社では、上下関係があるので、二十代の人間は厳しく指導されるものです。
ところが、教師の場合は、二十代でも〝先生〟であるので、一国一城の主のようなところがあります。そのため、先輩の教師は、後輩を指導したくても、遠慮してしまい、本当のことを言いにくい部分があるのです。「先生」という言葉に守られているために、なかなか厳しく指導をすることができないでいるのですが、現実には、未熟な人がかなりいると思います。
そのように、先生がたは、教師の立場に、少しあぐらをかいている部分があります。「いじめをする生徒が悪い」という考えもあるでしょうが、教師の側としても、仕事のレベルを上げる努力が必要なのです。
教師はプロとしての自覚を磨くべきである
では、どのようにすれば、教師は仕事のレベルを上げられるのでしょうか。
教室でいじめをしたり悪さをしたりするような子供たちが、塾や予備校でも同じようなことをしているかと言えば、そのようなことはありません。塾の先生に対しては、態度がまったく変わってしまうのです。
塾の先生のことは、神様のように尊敬している子が大勢います。しかし、そういう子も、学校へ行くと、教室の後ろでスーパーボールを投げたり、キャッチボールをしたり、ゴルフのまねごとをしたりしているのです。
そのような状態が、公立小学校などでは数多くあります。生徒が学校の先生のことを完全になめ切っています。
しかし、教師のほうは、生徒になめられていることを知っていても、知らん顔をしています。「相手にし始めたら、敵の数が多すぎる」と思って、「とにかく、自分の首がつながるようにしていればよい」と、見て見ぬふりをするところがあります。
やはり、学校の教師は、プロとしての自覚をもっと磨くべきです。教師の努力が足りないことを、生徒もよく知っているのです。ある意味では、教師が生徒になめられているということですから、プロとしての仕事をしなければなりません。「教員採用試験を通ればプロ」というわけではなく、「教師としてのプロの仕事」というものがあるはずです。
予備校や塾の講師は激しい競争にさらされている
「学校には『お客様』という考えがない」という批判をされることがあります。「日本のなかで、『お客様』というものを考えないで済む、唯一の職業」とも言われているものが教師の仕事なのです。
塾などは、生徒に嫌だと思われれば、やめられてしまうのです。生徒にやめられたら、塾は潰れるしかありません。
予備校も同様です。予備校の授業では、一学期の最初のころは、教室が満員になったとしても、「一学期が終わった段階で、生徒の三分の一が残っていれば、講師の腕は良いほうだ」と言われるほどです。
受験生は、お金よりも時間のほうが惜しいので、みな、冷たいのです。強者になってくると、「この人の授業を聴いても、学力は上がらない」と思ったならば、「英語はYゼミナールに。数学はK塾に」などというように〝予備校渡り〟をして、授業のつまみ食いをします。浪人生の場合は、基本的に一年しかないので、時間が惜しいのです。無駄な授業に、ずっと付き合っているほど、暇ではありません。
このように、予備校も塾も競争にさらされているため、優秀な先生しか残りません。一部の予備校や塾では、授業の様子が事務局でも見られるようになっていて、内容をチェックされています。
学校では、おそらく、「教室が校長室までつながっている」というようなことはないでしょう。そのようなことをすると、先生と呼ばれている人たちの自治権を侵すことになり、嫌がられるため、そこまではしません。
ただ、生徒が集まらなくなると潰れる危険性のある予備校や塾は、必ず授業内容のチェックをします。また、「生徒がどれだけ残るか」ということをいつも見ており、問題のあるものには必ずイノベーションをかけていきます。
人気講師には、多額の給料が支払われます。二十代の若い先生でも、人気が出てトップ講師になると、年収数千万円になることもあるようです。予備校は、本当に人気がある講師に対してはいくらでも出すのです。
また、人気講師になってくると、授業を衛星放送で流したり、ジェット機で地方へ行かせたりします。一方、人気がない講師は給料を下げ、その次にはクビにします。
このように、プロの世界では、激しい実力の差があるのです。
そうであるにもかかわらず、「同年次の教員の給料は一律」ということにすると、そこに社会主義の社会ができてくるということです。どのようにしても給料に直結しないため、学校の先生は、もう一つ、やる気が出ないかもしれませんが、やはり、プロとしての質を上げていかなければなりません。
公立学校を支配する「腐敗しやすいシステム」の問題
学校のなかで、いじめなどが起きる原因としては、学校自体への不満があります。その不満のもとは、教師に対する信頼感の欠如です。
これは、生徒の目を通した見方ではありますが、実際には、保護者のほうも教師を信頼していないのです。保護者が信頼しているのは、塾の先生の意見であり、教師のほうは信用していないのです。
塾の先生は、全員が全員、大人のプロ講師がしているわけではなく、アルバイトの学生も半分程度はいるわけですが、それでも信用されている理由は、システムの差なのです。これは、「自由主義社会」と「社会主義社会」の違いなのです。
公立学校は社会主義的な社会であり、「システム自体がすぐ腐敗する」というタイプのシステムになっています。何か問題が起きると、「教員を増やす」という話ばかりであり、悪い教員を減らしたり入れ替えたりするような淘汰が働きません。教員間の差をあまりつけないのです。
公立学校の先生は、もう少しプロの教師としての自覚を持たないといけません。今のような状態では少々情けないと思います。
さらに許せないことは、学校の状況を分かっているのに何もしない関係者が多いということです。
例えば、公立学校の教師が、自分の子供を塾や予備校に通わせたりしています。小学生や中学生になった自分の子供には、「勉強は塾でするように」などと言って通わせているのです。つまり、「公立の先生自身が公立の学校を信じていない」ということです。そのような職業倫理上の問題があります。
文部科学省の役人も、「塾はけしからん」などと言いながら、自分の子弟は塾に行かせ、学校のほうには期待していないということがあります。
しかし、予算は学校にバラまいて、塾のほうには一円もつけていません。
役人は、「教員を増やす」などと言って、学校には多額の予算をまいておきながら、自分の子供は塾へ入れ、私立の中高一貫校に入れています。役人にも、表裏、二重性があるのです。
このような矛盾が、公立学校の〝影〟の部分として出てきているように思います。
熱血の先生が学校を変える
学校でいじめが起きている背景として、「現在の学校のなかに、精神的な中心軸となるものがなく、地獄的になってきている」ということ、「学校に対する保護者や生徒の不満が、いじめなどのかたちで現れている」ということなどを述べました。また、公立学校の先生に対しては、「プロとしての自覚を持ち、仕事のレベルを上げる必要がある」と述べました。
では、公立学校からいじめをなくすために、教師ができることは何でしょうか。
そのためには、もっと、熱血先生が出てくる必要があります。「俺に任せろ」「私に任せなさい」というような熱血の先生が出てこなければなりません。
そういう教師は、周囲から浮き上がってしまう可能性もあるでしょうが、一人二人の先生が変わるだけでも、学校は変わってくるのです。特に、立場が上の人ほど、学校を変えやすいはずです。
校長になると、定年を待つばかりという人も多いため、あまり期待はできないかもしれませんが、教頭やその次ぐらいの立場の人であっても、熱血の先生がいれば、学校を変えられます。
また、若手の先生であっても、周りの批判や、周りの「サボりたい」という雰囲気に打ち勝ち、人の二倍も努力をする人が出てくれば、それを保護者や子供もすぐ感じ取りますので、学校への信頼を取り戻すことができるのです。
「いじめは犯罪だ」という声をあげ、外部から学校を変えていくことも一つの方法ですが、教師自身も、もう少し、実力の世界の差を知り、プロの自覚を持たなければいけません。
今、公立学校の教師は、「甘い社会」に生きています。このような職業はほかにあまりなく、一般的な企業でいえば〝潰れる会社〟です。普通は、これだけ生産性が低ければ潰れるのです。
悪い子供、いじめをするような子供が多く出てくる学校というものは、企業でいえば、不良製品を数多く出すような会社に当たるでしょう。
もし、ある電機会社で、「百個に一個は不良品」という電球を売り出したならば、まず誰も買わなくなります、世間は「百個に一個の不良品」であっても許さないのです。それだけでも、その会社の電球は買わなくなり、ほかの会社の製品を買うものです。
これを学校のクラスに置き換えれば、「四十人に一人でも問題のある生徒を出したら、許されない」ということになるでしょう。さらに、クラスのなかに問題を起こす子が大勢出てくるということは、「『百個つくったら五十個は不良品』というような会社が、まだ潰れずに生き延びている」ということなのですから、それは恥ずかしいことです。
そういう意味で、「生徒と家庭からの信頼」を教師が取り戻せるように、もう一段の自覚を持つことが大事です。
また、「この先生の活躍によって、学校が良くなった」というようなかたちで、勇敢な先生がたの取り組み事例をきちんと紹介する必要があるかと思います。
公立学校の内部から変えていく努力が必要
世の中では、不要なものは生き残れないのです。これは、ある意味での戦いです。
このことは、宗教にも当てはまります。一九八六年に私が幸福の科学を設立したあとに、新しい宗教が全国に二千五百もできたという話があるほどです。宗教であっても競争はしているのです。人を幸福にできない宗教など、この世には要りません。必要のない宗教は淘汰されます。消えていくのみなのです。
公立学校は、少し護られすぎている面があります。教師はあぐらをかいている部分を改め、努力して、「人の二倍は働こう」という気持ちを持つことが大事です。
本当は、「塾の要らない学校」が望ましいのです。ところが、受験を批判する一部の新聞などの論調に便乗し、「受験は悪いこと」のように言って、成果を問わない授業をし始め、だんだんと堕落していった流れがあります。
昔は、公立であっても、もっとしっかりと補習授業をしたり受験指導をしたりしていたはずです。小学校においても、六年生になると、きちんと中学受験用の指導もしていました。そして、「○○中学に何人入った」というような成果を公表していました。それだけ厳しかったと思います。
しかし、今の学校はそういう情報を隠しています。世間の裏では、「あそこの小学校からはよく受かる」などということが知られていても、学校側は、「どこに何人受かった」とは公表しません。
今の公立学校にはそのような傾向があり、何か考え方に問題があるような気がします。
学校の外側での運動も大事ですが、内側からも少し変えていく必要があります。先生がたは、「不要なものは残らない」ということを自覚したほうがよいのです。
日本政府の財政赤字は、「教育の部分にものすごくお金がかかっている」ということが、その原因の一つです。しかし、現実には、学校の生産性は低い状態にあります。
これからの公立学校が置かれている状況には厳しいものがあります。百万円ほどの高い授業料を払ってでも、子供を私立へ行かせようとする一方で、「授業料がただでも公立には行かせない」という親が数多くいるのです。この差は大きいものがあります。
世の中にこんな商売はありません。「ただでも、こちらには行かない。百万円払ってでも、あちらへ行きたい」というようなことは、通常はありえないことです。それでは商売が成り立ちません。2007年には「汚染米」が問題になりましたが、公立学校の問題も、「汚染米だったら、ただでも欲しくない」という話に近いものがあります。
公立学校の先生がたは、職業倫理として、現在の厳しい状況と戦わなければいけません。精神論、根本論を、バシッと打ち込んでいくことが大事です。いじめ問題への取り組みをするときに、「子供だけに犯罪者が増えている」というような言い方だけでは、やはり甘いと思います。