日中戦争

 アジアに独立をもたらそうとした日本は、その後「日中戦争」に突入。戦後、この戦いは「侵略」と言われています。その根拠の一つとして持ち出されるのが、1919年に大陸各地で起きた抗日の「五・四運動」です。

 しかし、この運動の背後には、共産主義・ソ連の存在がありました。ソ連は東部国境の安全を確保するために、日中を戦わせようと色々な策略を講じました。これらの影響で、反日運動が過度に盛り上がり、さらには、日中の和平交渉も干渉されて挫折。日中は、ソ連の安全確保のために戦いを続けさせられたのです。

 また、当時日本が統治していた満州では、出稼ぎ目的の朝鮮人が多く流入。現地人との争いが絶えませんでした。1931年7月には、水路の工事をめぐって朝鮮人と現地人が小競り合いになり、介入した日本の警察と現地の農民が衝突(万宝山事件)。さらに、朝鮮人の怒りが飛び火して、朝鮮半島の中国人街が襲われました。

 しかし、中国側は一方的に日本の仕業として批判。その後も、日本軍人が国民党軍に殺される事件などが起きたため、日本の対中感情は悪化し、「日中戦争」が起きました。日中戦争が起きた背景には、大陸への介入を自重していた日本を、中国の軍閥が戦争に引き込んだ事実がある。大陸での日本の戦いを「侵略」と断じるのは一方的です。歴史を見る時は、出来事が起きた原因を冷静に分析する必要があります。

 もともと、日本が大陸に本格的に進出したのは、日露戦争に勝利した1905年以降である。ロシアから満州(中国東北部)にある南満州鉄道などの権益を得たことで、日本人移民や投資が増えた。

 清朝が倒れた後、軍閥の一つであった国民党軍は、大陸の統一を目指して、1927年、南京を占領した際に外国人領事館を襲った(南京事件)。当時の軍閥は占領した都市で、当然のように略奪・強姦し、抵抗する人々を虐殺。街に放火するなどの悪習があった。

 これに欧米は報復したが、日本は国際協調を唱えて応戦しなかった。この日本の平和外交が軍閥を勢いづかせた。1928年にも、山東省の済南で日本人居留民の虐殺事件が起きた。

 その後も、日本人が死傷する事件が続発し、1937年には国民党軍が上海の日本人居住区を数万の兵で包囲すると、日本政府も大量殺戮を恐れて上海に派兵。両軍は全面衝突し戦線が拡大した(第二次上海事変)。

 

日本は共産主義に対抗した

 日本が国民党よりも恐れていたのは、大陸の北にある共産主義国家・ソ連であった。暴力革命を肯定する共産主義が日本に蔓延すれば、皇室や神道などの伝統が破壊されるためである。

 ソ連は、1921年に中国共産党を結成させ、1924年には社会主義国家「モンゴル人民共和国」を建国させるなど、着々と共産主義を広めた。

 そこで、満州の日本軍部は、ソ連からの宗教弾圧を警戒していたイスラム教徒やチベット仏教徒などと協力し、共産主義に対する防波堤を築こうとした。「満州」はその要であった。

 清朝が倒れて行き場を失くした満州族を救う意味もあり、日本軍部は、1932年、清朝最後の皇帝・溥儀を元首とする「満州国」を建国(満州事変)。その後もモンゴルやウイグルに反共産主義国家をつくろうとした。

 一方、ソ連は、1935年、日本と国民党を戦わせ、日本と大陸を共産化する計画をまとめる。ソ連の操り人形である中国共産党は、1937年、北京近くにいた日本軍と国民党軍を銃撃。双方を勘違いさせ、両軍を軍事衝突させた(盧溝橋事件)。

 だが、日本の敗戦後、共産主義国と自由主義国が対立する「冷戦」が世界を覆い、中国共産党の独裁国家が生まれたことを考えれば、日本の大陸への関与は「反共」の意味合いが強かったと言える。

 日中戦争は、1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国国民党軍が衝突したことで、全面戦争へと発展した。戦後の日本では、「盧溝橋事件は日本側が侵略するために仕掛けた」という主張がなされ、日中戦争は日本の侵略戦争か否かの論争が起きている。

 これに関し、当時の首相であった近衛文麿の霊は次のように述べた。

 「盧溝橋事件はあくまで日本が起こしたように見せかけて、実は、中国が先に手を出してきたのだ。『あれ(盧溝橋事件)を中国が仕掛けていて、こちらが何もしない』ということであれば、満州をはじめ守れないだろう? それでは、『腰抜け内閣』と言われるではないか。だから戦わざるをえなかったのだ」(『「首相公邸の幽霊」の正体』参照)

 中国側の策謀によって日本は戦争に巻き込まれたというわけである。

参考

 先の大戦での日本軍の評価について、国論が割れています。特に、支那事変(日中戦争)については、侵略者として日本を位置づけた「村山談話」をはじめ、日本軍は悪魔の軍隊であったかのような根強い意見もあります。

 

南京事件(1927年3月24日)

 「南京事件」とは、中国大陸の統一を目指していた中国国民党の軍(国民革命軍)が、南京を占領した際に日本を含む外国の領事館や住宅を襲い、略奪や殺害などを起こしたものです。

 事の発端は、日本の森岡正平領事が、国民党軍に抵抗の意思がないことを示すため、領事館の武装を解除したことです。「日本が無防備である」と悟った一部の国民党軍は、突如として領事館を襲撃し、物品を奪ったり、守っていた日本兵を負傷させるなどして乱暴狼藉を働きました。しかし、日本側は国際協調の方針を優先し、反撃しませんでした。

なぜ日本軍は南京に行ったのか

済南事件(1928年5月3日)

 こうした弱腰外交が、次なる事件である「南京事件」につながりました。

 事件が起きた原因は、国民党軍のトップである蒋介石が、済南(山東省)の治安維持を約束したことを受けて、日本側が警備を解いたことにあります。日本側が武装解除した直後、国民党軍は約束を反故にし、日本を襲撃。略奪や強姦、殺害等のあらん限りの蛮行を行ったのです。これに対し、日本軍は中国側に反撃し、済南を占領することで事件を終結させました。

通州事件(1937年7月29日)

 北京郊外で「冀東防共(きとうぼうきょう)」自治政府の保安隊が、婦女子を含む日本人居留民を襲撃し、約260人を虐殺した事件です。この時、中国側の殺害方法が日本人の常識的な感覚から見ても、あまりにも猟奇的なものだったため、日本の対中感情の悪化につながりました。

 その後、日本は中国との間で、できる限りの譲歩案を盛り込んだ和平交渉(船津工作)を行おうとしました。しかし、蛮行事件はやまず、全面戦争に踏み切りました。

 このように、支那事変(日中戦争)前の中国大陸では、多数の日本人が殺されたため、日本軍(特に満洲の関東軍)が大陸に軍隊を派遣し、戦線を拡大させた経緯があるのです。

 事変中の日本が掲げていたスローガンが、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(暴虐な支那を懲らしめよ)であったことも、そうした事情を反映しています。中国大陸への介入には、「野蛮な民族をどうにかしたい」という国民の強い世論があったと言えます。

 しかし、歴史教科書や平和主義を称する左翼陣営では、なぜか日本側の被害に注目することはありません。そこには、侵略者としての日本を印象づけたい思惑があるのでしょう。ですが、それは歴史を正しく見ない不誠実な態度と言わざるを得ません。中国大陸に介入した日本には一定の正当性があり、「侵略」とは言い切れないのです。

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