人間が自分だと思っている体は乗り物にすぎない

 西洋医学の考え方の基礎には、この世には物しかないという、かっちりとした唯物論の考え方がある。

 そこでは、人間の体は一種の機械と見られており、病気は機械の故障だから部品を取り換えたり修繕しなければ治らない、という考えが主流となっている。

 しかし、人間が自分だと思っている体はあくまでも乗り物にすぎず、人間の本質はその車に乗っている運転手のほうである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『『奇跡のガン克服法』で次のように説かれました。

「医学の進歩・発展は結構なのですが、西洋医学の考え方の基礎には、かっちりとした唯物論、すなわち、「この世には物しかないのだ」という考え方があります。西洋医学は、「物」対「物」、要するに、「物としての薬」対「物としての人体」という関係を研究しています。「物としての人体に、物としての薬が効くかどうか」という観点で見ているのです。そこで扱われる人間の体は、どちらかといえば、「一種の機械である」と見られています。そして、「病気は機械の故障であるから、部品を取り換えるなり修繕するなりしなければ治らない」という考えが主力なのです。それは、ちょうど、修理工場で車が修理されるような状況でしょうか。病院では、「どこかの部品が傷んでいないか。電気系統や車体が傷んでいないか」などという観点で、いろいろな検査が行われ、傷んでいるところを取り換えるなり修繕するなりされるのです。そして、「ガソリンを入れる代わりに点滴をする」というようなかたちになっています。確かに、そういう面は、ないわけではありません。しかし、私が過去に何度も述べているように、人間が「自分だ」と思っている体は、あくまでも乗り物にすぎないのです。自分の体を車に見立てても構わないのですが、あくまでも体は乗り物であり、みなさんの本質は、その車のなかに乗っている運転手のほうなのです。そのことを、どうか忘れないでいただきたいと思います。「車の性能がよいか悪いか」ということだけが、「よい運転ができるかどうか」ということにつながるわけではありません。みなさんが乗っている車は、ほとんどの場合、それほど高性能ではなく、世間によくある、ありふれた車です。とりあえず用を足せればよく、隣の町まで走ってくれればよいぐらいの車なのです。そして、「運転が上手か下手か」ということで、事故が起きたり起きなかったりしているわけです。自動的に危機を察知し、障害物をよけるような高級車ではないため、居眠りをすれば必ず他の車や家などにぶつかります。運転手が酒に酔っていれば、当然ながら、交通法規を守った運転はできません。これは当たり前のことです。車自体に関心を持つのは結構ですが、あくまでも、乗っている人間の注意力や判断力、健全さ、智慧などが、健康に生きていく上では非常に大事なのです。それほど高性能の肉体を両親から頂いていなくても、注意深く運転していれば、事故を起こさずに一生を送ることは可能です。そのことを、まず、前提として知っていただきたいのです。

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