唯物論

 唯物論的に物質のみが存在するという考え方には、「愛」という言葉の生まれてくる余地がない。

 愛が生まれてくる原点には、生きているものの尊さに対する無限の信頼がある。

 真実の人生を生きるためには、その出発点として、「霊的なる人生観」を打ち立てる必要がある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『愛、無限』の中で以下のように説かれました。

「「あの世は存在する。そして、数多くの魂が、この地上に生命を持って生まれ変わってきている」ということを認めることができない人たちは、気の毒ではありますが、人生というものを「非常につまらないものだ」と思っているのではないかと私は思うのです。自分自身の人生がつまらなく思えるだけではなく、おそらく他の人の人生もつまらなく見えることでしょう。  なぜならば、そうした人たちは、「人間は、何年か何十年かのちには、死んで土に還る存在、二酸化炭素と水に変わってしまう存在だ」と思っているからです。二酸化炭素の成分は炭素と酸素です。炭素は炭と同じ要素でできていますが、それがそれほど尊いものでしょうか。「そうではない」と私は言いたいのです。唯物論的に「物質のみが存在する」と言い張るのは結構ですが、それは、自分自身に対しても、他の人に対しても、親切なことではありません。なぜなら、その考え方には、「愛」という言葉の生まれてくる余地がどこにもないからです。  愛が生まれてくる原点には、生きているものの尊さに対する無限の信頼があります。「生きているもののすべてが尊い」と思わずに、どうして愛の気持ちが湧き起こってくるでしょうか。地球や、そこに生きている人間が、宇宙の塵にも等しい、つまらない存在であるならば、どうして愛が生まれてくるでしょうか。人間が、そうしたつまらない存在であるならば、この二、三千年、あるいは、それ以上の長きにわたる、文明・文化という名の営み自体が、わずか数十年だけ地上に生きる人間の慰み事にしかすぎないことになってしまいます。すべての宗教や道徳は、また、おそらくは哲学も、虚妄、世迷い言となってしまうでしょう。みなさんは、自分自身や他人を、そして、生きているものすべてを卑しめる、そのような思想に、心の底から共鳴できるのでしょうか。私は、それを問いたいのです。「いや、そうではありません。私は、人間の尊さ、生き物の尊さを信じます。その生命が無限なるものから分かれてきていることを信じます。  人間は、一時の仮の世である、この世だけの存在ではなく、はるかなる世界に永遠のすみかを持つ存在であり、この地上に幾度も生まれ変わってきては、また去っていき、また来たる存在なのです」  このように考えることができる人にとっては、他の人には苦悩に満ちた地上界が、きっとユートピアのごとく見え、まったく違った世界が展開していくでしょう。そのときに初めて、人生というものは、虚しいものではなく、積極的なる意味を持ったものになると思うのです。したがって、真実の人生を生きるためには、その出発点として、「霊的なる人生観」を打ち立てる必要があります。これなくしては、いくら議論を積み重ねたとしても、すべてが虚しくなるのです。それは、ちょうど、砂浜で子供が砂の城をつくるようなものです。子供の目には、その砂の城は堅固な要塞のように見えるかもしれません。しかし、やがて沖から波が寄せてきて、その上を通り過ぎたとき、砂の城は、はかなくも消え去ってしまうのです。」