幸福の科学はなぜ「科学」?

 いま学校で教えられているのは、「現代的科学」という名の一種の宗教にすぎない。「化学や物理学の式で表せるものによって すべてが証明でき、それで表せないものは存在しない」というような考え方は、それもまた一つの信仰にすぎないのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『神秘の法』の中で以下のように説かれました。

「みなさんに知っていただきたいことは、「幸福の科学の『科学』という言葉の意味は、決して、実験を行う科学、実証的な科学と同じではない」ということです。それは、やはり、信仰の科学なのです。信じるということの科学なのです。「心の法則」という意味での科学であり、「思いというものが、どのような働きをするか」という意味での科学であり、あるいは、「この世とあの世を貫いている法則とは何であるかを探究する」という意味における科学なのです。私たちが立脚しているのは、もともと、見ることも聞くことも触ることもできない世界です。しかし、「その世界こそが本来の世界である。この世は仮の世であって、小さな世界であり、この世を包み込む大きな世界があるのだ」ということを私は説いています。  この世で学んだ勉強や経験だけから見れば、そのようなことを言っている人は非常におかしく見えるでしょう。そのようなことは、教わったこともないからです。それを信じるよりは、「人類の文明は、わずか数千年ぐらい前から急に発達した」ということを信じたほうが楽でしょう。  また、「なぜか、偶然にタンパク質のかたまりができて動きはじめ、なぜか、それが合体して大きくなり、なぜか、それがトカゲやカエルになったり、鳥になったり、チョウなどの昆虫になったり、あるいは、晴乳類になってクジラや人間になったりする」ということを信じられる人生、それでごまかせる人生のほうが、ある意味では楽かもしれません。これは、現代的科学という名において一種の洗脳が行われ、〝信仰〟も立っているのだということです。「化学や物理学の式で表せるものによって、すべてが証明でき、それで表せないものは存在しない」というような信仰が押しつけられています。しかし、実際は、ほとんど調べることもできないのに、「計算の上で、そうなる」「証拠から、そうなる」などと言われているだけのことなのです。「ビッグバンは、計算上、このくらいの時期に起きた」と言っても、「なぜ無から有(有)に転じたのか」という問題は、いくら物理学をひねくり回しても解決不可能です。 そこから先は信仰の世界であり、仏や神に関する世界なのです。人間についても同じです。「環境によって動物の肉体が変化していく」ということは、ありうることですが、そもそも、「材料をばらまいておいたら、偶然に建物ができ上がる」というようなことは、この世ではありえないのです。それは、家を建てたことのある人なら分かるでしょう。セメント、水、砂利、レンガ、鉄筋などを広場に置いておき、百年か千年たてば、家が建つでしょうか。そんなことはありません。家を建てるには、必ず、「家を建てよう」と思う人の設計図と、それを建てる人の努力が要るのです。それがないのに、家が建つはずはありません。したがって、人間についても、「創ろう」と意図した存在があったということ、そういう思いがあったということ、それを創ろうとする努力があったということです。それ以外にはないのです。このように、科学の名においても、信仰を否定する科学と、この世的なるものを乗り越えようとする、もう一つ大きな「霊界の科学」とがあるのだということを、知っておいていただきたいと思います。」

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