幸福の科学の修行

 現代は仏法真理がふんだんに説かれ、悟りの道がはっきりと示されている。誰であっても他の時代の十倍も二十倍もの確率で光の世界に還る可能性が開かれている。

 幸福の科学では、「仏法真理を学習し、その内容を理解し、それによって自分の心をよく調(ととの)えるということを、日々実践していきなさい」という、極めて常識的な修行方法を説いている。

 もっとも、その方法は簡単ではあるが、すべては自己管理に任されている。みずからが日々決意し精進していかなければならず、それを持続することは難しいのです。

 大川隆法総裁は、著書『ユートピア創造論』の中で以下のように説かれました。

「そして、菩薩への道は、幸福の科学の出現によって、きわめて容易な道として開かれたのです。みなさんが別の時代に生まれたならば、どのように修行をすればよいか分からず、山のなかを歩きまわってみたり、滝行をしてみたり、経文の意味もよく分からないままに写経をしてみたりと、さまざまな修行をしていたかもしれません。このように、どうすれば悟れるのかが分からない時代が、千年も二千年も続いてきました。その間に、みなさんは何度も生まれ変わっているのですが、そうした時代においては、高い悟りを得て菩薩の世界に還ることが容易ではなかったのです。しかし現在は、仏法真理がふんだんに説かれ、悟りの道がはっきりと示されています。こうしたときだからこそ、みなさんには、他の時代の十倍も二十倍もの確率で、光の世界に還る可能性が開かれているのです。この事実を歴史的な目で見て、自分がいま立っている地点を知ったならば、それは喜び以外の何ものでもありません。他のものをすべて捨て去っても惜しくないほどの、きわめて得がたい機会であることが分かると思います。しかも、幸福の科学の修行たるや、難しいことは決して説いていません。「スーパーマンのようなことをしなさい」とは言っていません。「睡眠を削れ」「一日じゅう山のなかを歩け」「書物を丸ごと暗記せよ」などと言っているわけではないのです。幸福の科学では、「仏法真理を学習し、その内容を理解し、それによって自分の心をよく調(ととの)えるということを、日々実践していきなさい」と、極めて常識的な修行方法を説いているのですから、非常に簡単な道なのです。もっとも、方法は簡単ではありますが、それを持続することは難しいのです。一見、人目につくような難しい修行を申し渡されると、得意になり、他の人たちの目もあるため、その修行に五年十年と打ち込むことを決意する人がいます。また、それは実際にできないことではありません。ところが、きわめて常識的で日常的な修行方法であればあるほど、日常生活のなかで甘えが出て、みずからの堕落を招くようになるものなのです。また、容易な道であるからこそ、自分なりの甘えから、自分に都合のよい方向へ持っていこうとする人たちも出てきます。これは、修行が進んでいるかどうかということが、他の人びとの目によって厳しく監督されているわけではないからです。すべては自己管理に任されており、怠けるも自由、精進するも自由であって、だれも厳しいことを言ってはくれません。そうした環境のなかで、みずからが日々決意し、精進していかなければならないのです。」

 悟りを得るためには、極端な修行をするのではなく、かといって、この世的な快楽に身をまかせていてもダメなのであって、精神を強め、高める意味での修行は必要。

 つまり、戒律によって自分を律すること。毎日しっかりと勉強すること。ある程度、身体を鍛えること。そういう、刻苦勉励し、克己精神を養う修行は大事です。

 大川隆法総裁は、『沈黙の仏陀』で以下のように説かれました。

「『悟りの挑戦(下巻)』の第1章「中道からの発展」において、「苦楽中道」について述べました。「極端な修行のなかに悟りはない。また、この世的な快楽のなかにも悟りはない。中ほどに真理がある」という話です。たとえば、極端なヨーガの修行などを見てください。一日中、滝に打たれて、いったい何を智慧として得ることができるでしょうか。あるいは、インドの修行者のなかには、茨の上に寝たりする人もいます。茨の上に寝て、その痛みをこらえて〝解脱″しようとしている人もいます。また、土のなかに潜ってじっとしている人もいます。水のなかに潜って息を止めている人もいます。そうした行者がたくさんいますが、「肉体を苦しめることによって、はたして智慧が現われるのかどうか」ということを問うてほしいのです。実際に、みなさんが深い洞察、直観を得られるときというのは、そういうときではなくて、リラックスしているときではないでしょうか。リラックスして、心が調和されて、明るく、温かく、伸び伸びとしている、そうした受け身の状態、受動的な状態にあるときに、智慧が得られるでしょう。ひらめきや霊的な直観というのは、くつろいでいるときに得られるものです。ですから、そのような激しい修行のなかで得られるものではないのです。ところが逆に、快楽のほうに走り、この世的に単に居心地がいいほうに走って、修行をしなくなると、人間は精神力が弱ってくるのです。意志の力が弱ってくると、悟りを得る力が失われていきます。そのような、この世的に何もかも満たされた快適な生活だけをしていると、修行をしなくなって意志の力が弱り、また悟りが得られなくなってくるのです。ですから、修行もまた必要なのです。難行苦行というような、肉体を苦しめるところまでの修行をしてはいけませんが、精神を強める意味での修行は必要です。戒律によって自分を律する。あるいは毎日しっかりと勉強する。ある程度、身体を鍛える。あるいは刻苦勉励し、克己精神を養う。こういう修行は大事なのです。それであってこそ、精神を高めることができ、悟りを得ることができるのです。適度に修行があって、適度に休めるなかに、偉大なる智慧が現われてくるのです。中道というのは、そうしたきわめて実践的な立場から得られたものなのです。贅沢三昧のなかでは、悟りは得られません。また、肉体をいじめているだけ、苦しみのなか、激痛のなかで、それを堪えようとしているだけで、どうして智慧が生まれてきましょうか。やはり、瞑想状態 心静かに穏やかにして、よろこびに溢れてくる状態にしないと、なかなか智慧は湧いてこないのです。そのような状態にしたときに洞察が湧いてきて、自分も他人も一視同仁にすべてを見る智慧が湧いてくるのです。」

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