「私的幸福」から「公的幸福」(ユートピア)へ

幸福の科学の教え 👈 クリックしてください

足ることを知る幸福

 足ることを知る幸福は、たとえて言うとブレーキであり、進歩・発展の幸福は、たとえて言うとアクセルである。長い人生行路では、どちらも時と場合に応じて必要です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『ユートピア創造論』で以下のように説かれました。

「幸福のとらえ方には、古典的な考え方が二つあります。一つは「満足」の面を中心に考えるものです。たとえば、汗を流して一日じゅう働き、家に帰ってお茶を一杯飲みながら、「きょうもよく働いたなあ」と思って満足するという幸福があります。あるいは、子供が毎日すくすくと育っていくのを見て、うれしく感じる幸福もあります。一方、幸福というものを、もっとドラスティック(過激)に、もっとダイナミックにとらえる人たちも、歴史上、数多くいました。このようなリーダーたちは、歴史の転換点においてそそり立ち、「人間の幸福は停滞のなかにあるのではない。人間の幸福は、向上を目指す、より積極的で力強いもののなかにあるのだ」と獅子吼(ししく)してきたのです。この「進歩・向上」の面を中心とする幸福は、きわめて力強いものがあります。その結果、各時代において、人類の幸福の水準そのものを引き上げてきた面があることは否めないと思うのです。しかし、古来から、「真理は中ほどにあり」と言われています。二つの相対立するものがあって、どちらにも強く心ひかれるならば、必要な面がどちらにもあることを認めなければなりません。すなわち、幸福の二つの側面は、車にたとえると、アクセルとブレーキの意味を持っているのです。人はともすれば過熱し、無我夢中の人生を生きることがあります。そうした人は、ときおり、ブレーキ役としての「足ることを知る」という幸福を知る必要があります。このような人は、人生において、ときおり挫折を経験し、「現在ただいまのなかにある幸福」というものを発見しなければならなくなります。逆に、足ることを知り、毎日、堂々巡りの人生を生きている人、その日暮らしの人生を生きている人に対しては、次のようなアドバイスが必要になります。「それだけではだめです。人生にはアクセルも大事です。アクセルを踏むことを忘れては、車は前に進みません。停まっていれば自分は安全だと思っているのかもしれませんが、あなたがいる道路を、どこだと思っているのですか。単なる田舎道だと思っているのですか。しかし、そこは高速道路かもしれませんよ。あるいは、都会の道路かもしれませんよ。」 道路の混み具合を見ながら、アクセルを踏まなければいけないときもあれば、ブレーキを踏まなければいけないときもあるのです。同じ道路であっても、車が渋滞しているときもあれば、車の量が少なくて非常に速く走れるときもあり、日によって、あるいは時刻によって、走行の仕方は違ってきます。同じように、数十年の人生のなかでは、いろいろな環境に合わせて、自分の操縦方法を変えていく必要があるのです。」

 幸福の科学はいったいどんなことを教えているのかということは外部からは中々分からないかもしれませんが、「現代における”傑出した人―偉大なる常識人”を多数輩出し、世の中を良くしていく」ということなのです。 幸福な個人を多数輩出して、世の中を変えて行こうということなのです。 また、その根底には人間は皆、神仏の子であり、幸福になる”義務”があるという確信があるのです。  しかし、その幸福とは、この世的な幸福ではありません。それは『この世とあの世を貫く幸福』なのです。私たちの求めている幸福とは、大金持ちになって豪邸に住むことでもなく、大会社の社長になって自家用機で世界中を経巡ることでもなく、有名人になって他人から羨ましがられ忙しく時を過ごすことでもないのです。私たちが求めている幸福は、そのような”この世的幸福”ではなく、この世での幸福がそのまま、あの世での幸福として約束されるという幸福なのです。そして、この幸福とは、「悟り」という名の別名を持つ幸福であり、真の幸福なのです。悟りの幸福とは、神仏が人間に与えた最大の幸福であるのです。

 大川隆法総裁は、著書『幸福への方法』の中で以下のように説かれました。

「世の中のいわゆる幸福論が、この世の話ばかりをするのに対して、幸福の科学の幸福論は、この世的に幸福であるだけではなく、あの世的視点から見ても幸福である生き方を説いているのです。それを、「この世とあの世を貫く幸福」と呼んでいます。つまり、みなさんに対して、この世で幸福感に満ちた生き方をしていただくことを願うだけではなく、死んであの世に還ってからも、幸福な生活が続くような生き方を提唱して、それを実践していただきたいと願っているのです。もちろん、これ以外の考え方もあります。この世に対して、まったく否定的な見解をとるならば、「この世でいかに悲惨な生き方をしても、あの世において幸福であればそれでいい」という考え方もあると思います。しかし、私は、そうした生き方がいちばんよいとは、必ずしも思っていません。わずか数十年ではありますが、この地上生活のなかにも、私は一定の意味合いを認めています。人間は、まったく無意味なことをくり返すだけではありません。「この世に生まれてくるには、生まれてくるだけの理由がある。この世の数十年の人生のなかにも、それなりの役割や目的がある。人間は、何かを学ぶためにこの世に生まれてきて、そこで学んだものを持って、実在の世界、本来の世界に還る存在なのである」─これが根本的な考え方なのです。したがって、私はこの世を完全に否定しているわけではありません。修行場、教育の場、魂を磨く場として、この世は非常に大切な場であるということを認めています。「この世において、魂が数多くの糧を得て、喜びを感ずることは、非常に幸福な生き方である。そして、その生き方が、あの世での幸福にもつながる」と言っているのです。みなさんは、数十年の人生というと、長いように感じるでしょうが、日数に直してみると、平均して二万数千日です。十万日も二十万日も生きるように思うかもしれませんが、実は二万数千日にすぎないのです。そして、砂時計の砂のように、毎日毎日が一日ずつ落ちていき、二万日から三万日たったときに、この世を去ることになるわけです。短いといえば、非常に短い人生です。二万数千日のあいだに、この世において、どれだけのことを経験し、どれだけのことをつかみえるか。これが非常に大事です。その貴重な経験を得るために、人間は人生を送っているわけです。そのために、この世に赤ん坊として生まれ、学校で学び、大人になると、職業に就き、結婚をして家庭を営みます。そして、病になったりしながら歳をとっていき、やがてこの世を去っていくのです。わずか二万数千日。この間を、どれだけ理想的なものにしていき、あの世に還ったときに、魂の向上になっているような生き方をするか。これが非常に大事なことなのです。」

 人間は精神的なる生き物です。それは、”思考する”、”創造する”ことで様々な創造物を創り出すことができるということでも証明できるでしょうか。この悟りの幸福を得るために、人間は永遠の愛の大河の中を永遠の魂でもって転生輪廻しながら真理(神仏の法則)の魂の学習をしている存在なのです。そして、この学びにおいて重要となってくるものは『人間・向上・幸福』の3つのキーワードなのです。一つは、「人間とは何か」を知ることです。二つには、「人間の向かうべき方向」を知ることです。三つめは、「人間は真の幸福を得ることができ、その幸福を増大させることができる」ということを知ることです。人間誰しもそれぞれ自分の良かれという思いで生きてはいるのですが、時にお互いを傷つけあい、いがみ合ったりしながら苦しみを作ることがあります。個人個人が幸福に生きようとする中に生じてくる衝突やいがみ合いをどの様に調整し、全体としていかに調和していくかということが求められているのです。こういうことを真理を学び、悟りを得ることよって個人個人が解決ができるようになってくるのです。このようなことを知るということが一つの悟りであり、幸福でもあるのです。この悟りというもの意味を真に知ったとき、そこに真の幸福が現れるのです。「悟り」―この世とあの世を貫く幸福、その幸福を得ることができるならば不動の人生を生きることができ、そういう人生観を確立できるならば、この世においても真に強く生き切ることが可能となるのです。これは、「私的幸福」の追求であり、個人の悟りの探求であり、個人の心に中に”不動心”でもってユートピアを造るということなのです。その個人的な幸福(ユートピア)が多くの人へと拡大していくことによって、世界が調和に満ちたユートピア世界がそこに実現可能となってくるのです。 だからまず、個人の心の中にユートピアを築くことなくば社会の健全なユートピア世界の実現は不可能なのです。いま新興宗教は、個人の心の中に真の幸福がない(真理を確立していない)のに、それを広げようと躍起なっていることで、社会から疎まれ、敬遠されているのです。これが、新興宗教が変なもの、おかしなものと言われている一因なのです。ゆえに、個人の私的幸福を増大させつつ、かつ公的幸福をも拡大していく方法論が必要になってくるのです。私たちの人間社会は、個人の集合や様々な組織の集まりで成り立っています。ゆえに私たちの幸福は他の人への幸福、組織や社会、国家の幸福へと目を向けていかなくてはならないのです。これが二番目の「公的幸福」の追求と言われるものです。個人の幸福「私的幸福から公的幸福」、ユートピアの実現へと向かっていく、これが幸福の科学の運動なのです。

 大川隆法総裁は、『ユートピア創造論』で以下のように説かれました。

「幸福の科学においては、目的としての「幸福」と、手段としての「科学」 この二つの追究、探究が、基本として考えられています。分かりやすく言うならば、「幸福になるためには、どのように努力していけばよいのか」を、一緒に探っていこうとしているのです。そして、私は「幸福の科学が目指す幸福には、私的幸福と公的幸福という二種類の幸福がある」と説いています。「私的幸福」とは何でしょうか。それは個人としての幸福です。もう一方の「公的幸福」とは、社会全体の幸福のことです。なぜ、この二種類の幸福が必要なのでしょうか。まず、私的幸福から話を始めたいと思います。個人としての幸福とは何なのでしょうか。それは個々人の満足のことをいうのでしょうか。それとも、個々人が声を出して笑うような状態をいうのでしょうか。あるいは、他人から尊敬されるようなことをいうのでしょうか。

 幸福には、「満足」の面を強調した静的な幸福、つまり、「足ることを知る」という意味での消極的な幸福もあれば、「進歩・向上」の面を強調した動的な幸福、つまり、「発展・成長を喜ぶ」という意味での積極的な幸福もあります。そして、この二つは、いわばブレーキとアクセルのように、人生という名の自動車の運転に影響を与えているのではないでしょうか。つまり、過熱気味な人、無我夢中の人生を生きている人に対しては、ブレーキとしての消極的幸福が勧められるべきであろうし、堂々巡りの人生を歩んでいる人、目標もなくその日暮らしをしている人に対しては、アクセルとしての積極的幸福が重要であろうと思うのです。個人としての幸福には二面性がありますが、集団の一員として人生行路を渡っていく人間にとって、ブレーキとアクセルは両方とも必要です。すなわち、集団としての人類のまとまりのためには、この両方が不可欠なのです。足の速すぎる人は、少し速度を落とす必要がありますし、休んでばかりいる人は、少しせきたてられる必要があります。個々人が自分の幸福を求めながら、同時に全体の調和というものを保っていかねばならないのです。個人個人は、それぞれにアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりして、私的幸福を味わっているのですが、社会全体としても、一つの大きなまとまり、大調和を形成しながら、進歩していくことが大切なのです。結局のところ、私的幸福は、やがて社会全体、人類全体を大調和させ、進化させていく方向へと奉仕し、公的幸福の実現のための力となっていかねばならないのです。かくして、各人の私的幸福をかなえながら、公的幸福をも形成していく方法論が必要となってきます。いろいろな時代に説かれた仏法真理、あるいはユートピア論は、つまるところ、私的幸福と公的幸福の大調和の実現に目的があったのです。」

 ゆえに、あなた自身が、一人ひとりが、愛の発電機にならなければいけません。みずから愛を発電し、愛を増幅する人が満ちてこそ、世の中は次から次へとよくなっていくのです。 愛は幸福の卵であり、幸福はユートピアの卵です。「愛から幸福を、幸福からユートピアを。そして、ユートピア社会ができたならば、そこに、また愛が満ち満ちてくる」、そういう循環がありうると私は思うのです。 

(『限りなく優しくあれ』より)

 「自分が幸福になることは全人類の幸福につながる。現時点ではまだそうなっていなくても、必ずそうなる」と考え、「自分が幸福になったならば、そのお返しとして、自分の幸福を他の人に還元していかなければならない。他の人びとを幸福にしていかなければならない」という気持ちを持つことが大事です。そういう人が増えることは、いわゆる「幸福の生産者」が増えることを意味します。その結果、いろいろなものが好循環していくのです。

(『繁栄の法』より)

信仰 に続く👈 クリックしてください

「仏法真理」へ戻る