愛の発展段階説

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 キリスト教では、愛に4種類の愛「エロス」「ストロゲー」「フィーリア」「アガペー」があると説かれています。 幸福の科学では、愛とは「与える愛」であると教えていますが、その「与える愛」にも段階があるのです。

 愛の発展段階説とは、「本能の愛」⇒「愛する愛」⇒「生かす愛」⇒「許す愛」⇒「存在の愛」⇒「救世主の愛・仏神の愛」と、その段階の高まりに連れて愛も深く大きくなっていくという思想なのです。

「本能の愛」  

 先ず最初に「本能の愛」があります。「本能の愛」とは、キリスト教でいうところの「エロス」、人間としては最低限の愛であり、努力以前の愛、生まれつきの愛です。ちょうど親犬や親猫が自分の子供を愛するように本能的づけられている愛。人間では、両親、兄弟、夫や妻、子供など家族や肉親への愛、あるいは男性であれば女性、女性であれば男性という異性への愛。  これらを「本能の愛」と言います。愛というと、男女間の愛をイメージするかもしれませんが、こうした愛は愛の入り口にすぎないのです。しかし、この本能の愛も「愛して欲しい」というような、相手を縛る愛、執着とか渇愛(タンハー)になってくると、地獄的な愛ともなります。「本能の愛」は、少なくとも魂修行の目標とするようなものではなく、人間として当然の愛なのです。「本能の愛」というのは、より高次元の愛に目覚めるためのきっかけとしての愛であって、必要最低限の愛なのです。これをきっかけとして、「もっと高度な愛、精神的な愛に目覚めなさい」という、仏の慈悲であるのです。

「愛する愛」

 「本能の愛」の次に「愛する愛」というものがあります。この「愛する愛」というのは、キリスト教の愛においては「ストルゲー」、イエスが説いた「隣人愛」に該当するでしょうか。「隣人愛」というのは、「縁あって人生の途上で出合った人たちを愛しなさい」ということです。「愛する愛」って何? という方もいるかもしれません。「本能の愛」の上にある「愛する愛」とは、「隣人愛」のように、縁あって人生の途上で出会った人たちを愛していこうとする段階の愛なのです。 両親や家族というような縁ある者への愛を超え、人生の途上で会う人たち、直接の利害関係のないような人たち、学校とか、会社とか、社会の中とか組織とかで出会う他の人々への愛に目覚めた段階の愛なのです。いわゆる、幸福の科学で言うところの「与える愛」と呼ぶ基本的な愛が「愛する愛」です。 欲しい、手に入れたい、愛されたいというものは「奪う愛」であって、愛の本質というのは、「与える」ものであり、「人に与えるもである」ということを悟っている境地の愛なのです。 「見かえりを求める愛」は本当の愛ではありません。これは「奪う愛」という地獄的な愛なのです。「愛する愛」は、家族とか異性とかへの愛よりは、少しばかり努力を伴う愛であり、霊的な目覚めが必要な愛であって、より高次な愛とも言えます。そういう意味では、「愛する愛」というのは、もっとも根本的で一般的な愛であるのだけれども、実際に行うにあたっては、けっこう難しい愛なのです。しかし、「愛する愛」は全ての人が実践可能な愛であり、「自分がしてほしいように他人に接する。自分がしてほしくないことは他人にしない」、「笑顔と思いやり、優しい言葉、親切な行為」こうした愛を、日常の場のおいて出会う人たちに対して、普通のこととして実践できることが天国に還るための条件なのです。  そもそも、人間というのは愛を与えることで、幸福感を感じるように”創造”されているのです。  だから愛を与えることで魂が喜ぶのです。この「愛する愛」が地上に満ちたなら、少なくともこの地上世界は、はっきりとした天国になるのです。

「生かす愛」

 更には、「生かす愛」の段階があります。キリスト教では、「フィーリア」にあたるでしょうか。これは一言で言えば、指導者の愛、リーダーとしての愛です。「生かす愛」とは「育み生かすこと」、「人を高めていくこと」を喜びとするような愛なのです。他の人を霊的に成長、飛躍させるよう導く愛が「生かす愛」なのです。つまり、「生かす愛」というのは「他の人を導く愛」、「指導者としての愛」、「リーダーとしての愛」、「教育者としての愛」のことを指します。  真に人を導き生かすためには、智慧がなければなりません。導く相手の悩みや問題や本質を見抜く洞察力、そして原因結果のプロセスを見抜く知性と理性の力が必要なのです。 ゆえに、他の人たちを導き、生かすことができる真のリーダーになるには、優秀な人でなければ不可能なのです。周りの人に自分の面倒を見てもらわないといけないような人間は、人を導くことなどできないのです。その人が、政治家であるか、経営者であるか、学者であるか、芸術家であるか、その分野を問わず、人を導くためには、普通の人以上に努力精進し、自分の知力、理性、そして愛と勇気を高めてきた人でなければ真に人を導くことはできないのです。いずれの分野のリーダーにあるにせよ、人を導けるだけのスキルや才能や器というものを向上させる必要があるのです。その意味で、「生かす愛」というものは、「愛する愛」と違い、誰にでもすぐに実践できる愛というわけにはいかないのです。その下地として真理知識と愛が必要とされてくるのです。そうした、知性、理性、洞察力を身につけるだけの鍛錬が必要だし、そうした鍛錬の結果、リーダーとなれるだけの能力、資格、資質を備えなければいけないのです。

知に裏付けをされた愛

「許す愛」

 そして、次の段階にあるのが「許す愛」です。「許す愛」とは、善悪を超えて人々を包み込むように愛するという境地に達した宗教的な境地です。  もちろん、「許す愛」と言っても誤解してはいけないのですが、「何でも許す」「悪を認める」ということではないのです。「生かす愛」の段階において、「善悪」「正邪」「優劣」「進歩と後退」という真理を十分に学び尽くし、人々を善導していくということを実践し、更には、悪というものを単に裁きの目で見るのではなく、善導し、救済していく愛なのです。悪魔に対しては、「教導の怒り」いうものでもって正しい方向に導く愛でもあるのです。 人を愛し、生かし、導くことは可能でも、この「許す愛」の境地にはなかなか到達できないものなのです。自分も何らかの試練や辛酸を経験しており、理解することができなければ許すことはできないのです。他人を許そうとする段階は、他人の悪というのが小さく見えてくる段階であって、これが自分と対立するような敵と見えしときは、まだなかなか許せるものではないのです。ところが、愛と悟りが高まり、人間の器が一段大きな宗教的境地に飛躍することで、釈尊が慈悲の目でもって衆生を見たように、優しい目でもって人々を見ることが可能になってきます。 このように才能を超えた「徳」をもってはじめて出現する境地、それが「許す愛」なのです。これは、単にこの世的に優れているという基準だけじゃなくて、もう一段大きな宗教的な境地に達していて、善悪を超えて人々を包み込む愛なのです。人間というのは、地球という環境の中で、悪を捨て善を取る「魂の学習」をしているのだけれど、それを超えた世界には、それらを包含する大きな愛があるということなのです。だから、「人を許す境地」というのは、「人を生かす境地」よりも大きなものであり、仏により近い境地と言えるでしょう。人間の霊的進化の速度というのは、どれだけ多くの寛容さをともなうか、ということで計れると言い換えることができるでしょう。この許す愛の境地に達した人は、仏教的には「菩薩」、キリスト教的には「天使」と呼ばれ、「許す愛」というのは、菩薩(天使)の境涯のことなのです。そして、菩薩、天使といった人たちの主たる関心は「利他」であり、心において「愛」、行いにおいて「奉仕」です。  自分のためではなく、他の人々の幸福のために、人々を救うために生きる。そうした境地なのです。

許す愛 詳しく

「存在の愛」

 更に、この上の段階として「存在の愛」があります。仏教でいうところの慈悲の境地です。その存在自体が愛であるということです。

慈悲

 この「存在の愛」というのは、仏教でいう「慈悲」であり、キリスト教的にいえば「大天使」の愛です。人類史にそそり立つ偉人の愛であり、「時代精神」としての愛が「存在の愛」なのです。「許す愛」が徳高い宗教家の愛とするなら、「存在の愛」というのは、人類史にそそり立つ偉人の愛であり、この世の光であり「時代精神」なのです。「存在の愛」というのは、もはや一対一の愛ではなく、一対多、あるいは放射線のように発散されている愛なのです。単に自分のまわりにいる人だけを照らすのではなく、時代を越え、地域を超え、灯台のように光り続ける愛、何百年、あるいはそれ以上経っても人類の歴史の中で燦然とした光を放っている人たち、そうした人類史の中でも大山脈のような人の愛なのです。

 「存在の愛」というのは、「その人の存在そのものが愛である」という愛なのです。その人がこの世に存在するだけで、その人が人々の人生のある瞬間を通過するだけで、人々を転迷開悟させるような、人々の人生を一変させるような、人々を廻心に導くような愛なのです。たまたま同じ時代に、その人がこの地上で生きているだけで、世界が明るくなり、人類に希望の灯が灯されるような、そうした人の存在、それが存在の愛です。その人が誰かを愛するからそれを愛だと言うのではなく、その人が美しい言葉を語るから、それを愛と呼ぶのではなく、その人が優しくしてくれるから、それを愛だというんではないのです。その人の存在自体が愛であり、愛そのものが存在しているかのような人格をもった人。こうした人が「存在の愛」の体現者といわれるのです。「許す愛」が徳高い宗教家の愛とするなら、「存在の愛」というのは、人類史にそそり立つ偉人の愛であり、この世の光であり、「時代精神」なのです。8次元の存在の愛(如来)としては、天上界には500人ほどいるようで、哲学者だとヘーゲル、プラトン、ソクラテス、カント、西田幾多郎、仏教系では天台智顗や空海、西行法師、キリスト教系ではバプテスマのヨハネや聖アウグスチヌス、中国では老子荘子や墨子、政治家ではガンジー、リンカーン、聖徳太子、芸術系ではレオナルド・ダ・ビンチやマーラー、バッハ、科学者ではアインシュタインやエジソンといった魂たちが「存在の愛」の体現者です。如来というのは根本的な思想を遺せる人で、独自の思想で十分に文明、文化を創っていくことができる人たちであり、そうした如来が、文化的な高み、時代の高みをつくるために地上に出て、大きな「法」の中心、あるいは文化や芸術の中心となって活躍し、時代を押し上げていくのです。誰でも一時的にはこのそれぞれの立場において小さな存在の愛になれる可能性はあります。それぞれの立場における太陽のような存在と言えば分かるでしょうか。「あなたがいてくれたお陰で幸せでした」というのが、この「存在の愛」小さなものに当たるでしょうか。この世には、あなたを必要としている人が必ずいるはずで、「貴方は必要とされて今ここに存在している」という事実を知ってください。ですので、どのようなものに対しても、無償で光を与える太陽のような、存在の愛の人を目指していただきたいと思います。  

 そして、この上に私たち人間の目標とすべきではない、「救世主の愛」、「仏神の愛」というものが存在します。この「存在の愛」の上には、人類としては最高の「救世主の愛」というのがあるということを知っておいてください。ただ、これはもはや、人間が修行の目標とすべき愛ではないのです。というのも、この愛の段階というのは、仏神によって命じられた道具として、最高の代理人として選ばれた人の愛だからなのです。「存在の愛」の上には、「仏の愛」あるいは「仏の大悲」があり、仏神の人類に対する大きな導きの愛、進化を願う愛があるんだ、という認識で満足すべきなのです。

 愛とは、このように「広く深く高みのあるもの」です。そして、私たち人間の本質は「魂」であり、「心」という霊的な存在なのです。 その霊的な存在は、あの世においては、「信仰と愛と悟り」によって住む階層(次元)と表裏の 霊層が違ってくる。これが霊的な真実なのです。

 本能の愛⇒4次元(幽界)  愛する愛⇒5次元(善人界)  生かす愛⇒6次元(光明界)  許す愛⇒7次元(菩薩界)  存在の愛⇒8次元(如来界)  救世主の愛⇒9次元(宇宙界)  

 あの世を分けている次元というものは「愛の発展段階」に応じて分かれているのです。そして、この愛の発展段階説は、世界宗教幸福の科学の核であり、平等知のキリスト教と差別知の仏教を架橋し、東西文明を融合、そして新文明建設のために精神的支柱となる偉大な思想であるのです。

キリスト教や仏教を融合した「愛の発展段階説」

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