西洋と中東の摩擦の元凶 「十字軍」

キリスト教十字軍の問題  

 現在の中東を巡る紛争の背景には、キリスト教「十字軍」の問題が大きく横たわっています。これは、中東の西洋観および西洋の中東観をつくりだしたものとして重要です。  

 「十字軍」というのは、一般には、紀元後1000年代の終わりから1200年代半ばまでの西欧のローマ・カトリックが、西欧諸侯を動員して、中東、特にイエルサレムやエジプトにあったイスラーム勢力を攻撃した軍を意味します。ローマ法王は、自分に対抗するキリスト教内の活動・分派にもさまざまの十字軍を形成して相手を虐殺していますので、ローマ法王の軍隊というのが実態です。この十字軍の評価に関しては、攻めたのはローマ・カトリックというキリスト教勢力で西欧人です。現在の欧米キリスト教徒にとっても、これは聖地の奪回戦」であり祖先の武勲と理解されることがほとんどです。一方、攻められた方のイスラームとすれば、西欧人に攻められ多くの同胞が虐殺された事件となります。

 「歴史学」という学問は、近代になって西欧人によって西欧中心につくられたので、これまでの十字軍についても、聖地奪回のための聖戦という評価で語られてきたと言えます。一昔前までは「キリスト教の宗教的熱情」「騎士魂の発露」などと言われていたのですが、冷静な科学的歴史が言われて、西欧中心史観の反省もなされるようになり、十字軍についても、法王の権力の拡大、封建領主の領地の奪取、イタリア商人の利得の暗躍、アラブ人蔑視と撲滅など、醜い思惑によっていたことが判明しています。ただし、宗教的熱情や騎士魂の発露が全くなかったわけではなく、一部にはあって美談の類もあるのですが、これは騎士個人のレベルにあったことで、十字軍を派遣した法王には見られないものでした。それは十字軍の有り様そのものが証明していることです。

 

第一回十字軍  

 1096年から1099年までの遠征となります。一般的な教科書によると、1000年代に入って東アジアを故郷とするセルジュク・トルコが西に進出してきて、イスラーム帝国を支配するようになり、さらにビザンティン帝国に侵略してきたことが発端とされます。ビザンティン帝国とは、ローマ帝国の西域がゲルマン民族に占拠された後、東に存続した「後期ローマ帝国」の別名で、コンスタンティノポリス(現在のトルコ領の「イスタンブール」)が首都でした。ビザンティン帝国はうち続く内外の国難に疲弊しており、皇帝ロマヌス四世の時に西進してくるこのセルジュクの勢力に惨敗してしまいます。かろうじて後を引き継いだアレクシオス皇帝がセルジュクの西進を食い止めますが、彼はこのままでは再びセルジュクの攻撃があり、今度は危機的になると判断し、分裂していたとはいえ、同じキリスト教であり強大な力を蓄えていた西欧のローマ教会に援助を申し込んだ。そこで、教科書では、そのビザンティンの要請に応えて時の法王が十字軍を結成した。しかし、当時のローマ教会は決して他人のために動くような勢力ではありません。まして、ローマ教会はビザンティン教会とはケンカ別れしたものでその後も険悪のままでしたから、身銭を切って助けるなどと思う方がどうかしていたのですが(事実、第四回十字軍はビザンティン帝国を裏切ってここを侵略してしまうのですがそれは後の出来事でした)、当時の皇帝アレクシオスは頭の切れる皇帝で、ローマ教会は動くと踏んでいたようでした。それは、ローマ教会の内部事情が問題で、長年にわたっている法王とゲルマン皇帝との間の権力闘争があり、法王グレゴリウス七世は自分の組織確立のための軍隊聖ペテロ軍まで設立して、聖戦の概念を高めようとしていた。一方、イベリア半島ではクリュニー修道院が主導してイスラーム領となっていたイベリア半島を奪回しようした運動「レコンキスタ軍」が形成されていました。いずれにせよもここで法王は力を示さなければならず、レコンキスタで鼓舞された宗教的情熱によるイスラームからの国土奪回運動は、イエルサレムなどパレスチナ地方にも適用されるだろうと、ビザンティン皇帝アレクシオスは考えたようです。さらに、聖地イエルサレムには西欧からもたくさんの巡礼者が訪れていました。イスラームは、もともとキリスト教を母体にしていて、ユダヤ・キリスト者も同じ経典の民と見なしていたので、この巡礼者に手を出すことはありませんでした。実際、歴史的事実としてアラブ人ではないセルジュク・トルコでさえ、この巡礼者に手をだしたということは何一つ確証されていません。それなのに、セルジュクによる迫害ということが十字軍結成の一つの要因とされてきたのです。これはローマ教会を動かす口実でしかなかったと言えますが、これは見事に功を奏した。レコンキスタを主導するクリュニュー修道院出身の時の法王ウルバヌス二世は、皇帝ハインリッヒ四世が北イタリア戦役で苦境に陥っている時、会の優位を確立するチャンスと見て、1095年に十字軍の結成を呼びかけたのでした。法王が皇帝を超えた軍の形成・支配者となるチャンスとみたからだとされています。ウルバヌス二世は、この十字軍の参加者には罪の許しを与え、留守中の財産は法王権をもって保護するとしたので、多くの参加者を得ました。もちろん、宗教的熱情に燃える人々もたくさんおり、そうした宗教的一団は1096年8月に出発と決められた日時以前に勝手に進軍を開始してしまい、攻めて行ったのはよいけれど、正規の軍隊ではなかったので、セルジュクに惨敗を喫してしまいます。8月に出発する正規軍の方は、騎士たちが主体でしたが、もちろん、騎士としての名誉心を持って参加した者も居たが、全体としては、彼らの目的は領地の奪取・確保が主体だったことが判明しています。それゆえ行軍の途上いたるところで略奪が繰り返され、ビザンティン帝国との間に確執が生じています。しかし、ビザンティン帝国にしても独力ではセルジュクを押し返せない弱みもあって妥協していかざるをえませんでした。こんな軍隊なので、騎士たちの間の勢力争い・内部分裂もしょっちゅうでした。たとえば、南イタリアのボヘンムンドなどは、アンティオケア地方を奪取するとそこの領主として収まってしまい、イエルサレム進軍を拒否しています。土地の野望をはっきり示している事実で、また、アルメニア地方を巡っても騎士たちの間に醜い争いがありました。しかし、1099年には残った騎士たちでイエルサレムの進軍は進められ、イエルサレムを奪取します。これについて、歴史家は、当時のイスラームはアラブとセルジュクの間の抗争があり、まとまっていなかったことが大きな原因と見ていますが、どうもこの十字軍たるものが良く分かっていなかったとも考えられています。まさか自分たちイエルサレムのイスラーム住民を敵として攻めてきたとは思いもしていなかったということです。なぜなら、これまでもキリスト教徒はたくさんきていたし、それに対して何も悪いことはしていなかったからです。しかし、結果としてこの時、女・子どもを含め、アラブ人と見るとキリスト教徒であっても見境なく虐殺されていったのであり、その大量虐殺は現代にまで大きな禍根を生むことになってしまった。現在アラブ・イスラームの人々が「十字軍」と聞くと、この時の大虐殺が思い出され、キリスト教徒は我々イスラームを虐殺しにくるという観念にむすびついてしまうとされます。結果として、十字軍はここを奪取してイエルサレム王国その他三つの王国が建設され、また、この時「テンプル騎士団」「ヨハネ騎士団」が結成されたのでした。この段階で、従来は巡礼者の保護を目的としていた医療団体であった「ヨハネ騎士団」は、対イスラームのための軍隊に変貌していった。

第二回十字軍  

 1147年から1149年の遠征となります。これは、セルジュク側の反撃」が起きてきたことが原因です。しかし、結果的に十字軍の敗北で、ほとんど何の成果も上げることができませんでした。すなわち、第一回十字軍の成功によりイエルサレムを奪取して、そこに十字軍によるイエルサレム王国を築き(ロレーヌ出身の騎士ゴドフロワが王として君臨)、この地方一帯をさらに拡大占領していくなどの勢いを示していました。しかしビザンティン帝国からしてみると、こうした十字軍の動きは、裏切り、領地の占領でしかなく、反十字軍の機運が高まってしまうわけです。ビザンティン帝国のアレクシオス皇帝の依頼は、聖地の奪回だけであり、そこに十字軍が居座るなどとは全く予測もしていなかったと考えられます。十字軍に居座られて王国まで建設され、さらにそれが拡大などとはビザンティン帝国領への侵略以外の何者でもないとなるわけです。こうして、1195年、そのビザンティン帝国の反十字軍の機運に乗じたセルジュクによって、アンティオケアが攻撃され、1144年にはエデッサが陥落してしまう。そこで、イエルサレム王国は、法王に援軍としての十字軍の派遣を要請したわけです。ドイツ王コンラート三世とフランス王ルイ七世とが赴きますが、連戦連敗となってしまいます。他方、シリア地方にあったセルジュクの一派ザンギー朝の二代目ヌール・ウッディーンは、イスラームの統一のために、十字軍に対するジハード(本来の意味はイスラームのために「努力する」という言葉で「攻撃に対する防御」や「伝道」に力を尽くすことをいう)」を宣言し、この第二回十字軍の撤退の翌年、ダマスカスをも奪回し、こうして法王の十字軍とイスラームの全面戦争となって、第三次から八次まで繰り返されてくることになった。当時の文書によると、イスラーム側は、「十字軍」の何たるかを知らず、訳がわからないままに、フランク騎士団の来襲とのみ思っていたことが判明しています。それは、イスラームにしてみると、キリスト教徒は同じ経典の民であり、キリスト教徒としてイスラームに敵対」してくるなど考えられないことだったからです。実際、キリスト教徒の巡礼はこれまでもたくさんやってきていたし、それに対して危害を加えたという事実もありませんでした。イスラーム側から見ると、この十字軍は、自分たちアラブ人の大量虐殺、フランク騎士団の占領でしかなかったので、イスラームから「ジハード」が宣言されていったというわけです。そして、この十字軍が現在どれほどの禍根を生んだかも理解されてきます。

第三回十字軍  

 1187年、ついにイエルサレムはイスラームの手に奪回されます。それを成し遂げたのはセルジュクに代わって、エジプトから出たアイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーンでした。こうして、再びイエルサレムの奪回のために組織されたのが「第三回十字軍」で、1189年から1192年の遠征をいいます。

第四回十字軍  

 1202年から1204年のこの十字軍は、「十字軍の隠れた性格」を明確に示したことで良く知られています。彼らは、聖地イエルサレムの奪回どころか、同じキリスト教国として後方援助の役目を担っていたビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスを略奪し、ラテン帝国などを建設してしまい、膨大な富と文化遺産とを西欧に奪っていったのです。ベネツィアのマルコ大聖堂の正面に据えられている古代ギリシャの四頭の馬のブロンズ像は、その時に略奪されたものの一部であることは有名です。これは、ビザンティン帝国のキリスト教をひきついでいる正教キリスト教が、今以てカトリックを許せないでいる犯罪的裏切りでした。

第五回十字軍  

 1217年から1221年までの遠征軍とします。法王に対する反対勢力があると見た法王イノケンティウス三世は、そうした反法王勢力への処置として、新たな十字軍の形成を企図して、1197年に結成との宣言をしたものです。

第六回十字軍  

 1228から1229年のフリードリッヒ二世の遠征とします。彼は、戦闘手段に訴えずに、巧みな外交手段に出て、政治的な安定を求めていたエジプトに譲歩させて、十字軍によるイエルサレムの奪回に成功した。ところが、法王は、フリードリッヒ二世がイスラームを撲滅してこなかったことに激怒し、どなりつけ、フリードリッヒ二世とのとの仲はますます悪くなっていった。ここでの法王の態度は、十字軍の目的の一つを明確にしています。もちろん、それは、アラブ・イスラームの撲滅でした。こんなのが十字軍の目的だったわけで、皇帝フリードリッヒ二世はそれを拒絶したわけですが。

 以上のような状況では折角のフリードリッヒ二世の努力も水の泡で、ほどなく再びエジプトに奪回されてしまった。

第七回十字軍  

 1248年から54年までのエジプト遠征。大敗北を喫して終わっています。

第八回十字軍  

 1270年の遠征。ルイ九世はイスラームに対する十字軍の指揮をとり、エジプトへと出発しますが、チュニジアのカルタゴについたところで病死してしまい、こうしてこの十字軍も失敗に終わる。その後、1291年にはアッカもイスラームに奪回されて、十字軍は足がかりも失い、これをもって十字軍は消滅したと言えます。

 

十字軍の意義  

 この十字軍の意義についてはマイナスだらけで、西欧側にとっては、法王と皇帝とのさらなる確執の要因社会的混乱、法王の権威の失墜、さらに、ベネツィア商人の侵略と略奪による商人階級の台頭とか、やがて来たる封建体制を崩壊させる要因を用意しただけとも言えます。また、ビザンティン帝国にとっては、最初の思惑通り、セルジュクの侵略は止めることができたけれど、こともあろうに、十字軍に侵略されて、帝国の崩壊の遠因となろうとは思いもしなかったでしょう。最大の問題は、西欧とイスラームとの間の抜きがたい敵愾心、西欧人のイスラーム恐るべしの感覚、イスラーム側のキリスト教徒は経典の民・同胞ではないとの認識などを作り上げてしまったことが、現在の西洋と中東との関係の悪さの大きな要因になっていると言えます。また、ここに、カトリックの腐敗と堕落を見ることができて、これ以降活発化してくる異端裁判、魔女狩り、そして免罪符などのカトリック教会の腐敗の下地をここに見ることができます。確かに、歴代の法王の中には、正当な防衛は認めるけれど、攻撃は禁止という理念を持っていた法王もおり、また、皇帝の中にも、第六回のフリードリッヒ二世のように、皇帝でありながら武力に訴えず、外交手段でことを解決しようという皇帝もいました。そうした法王や皇帝ばかりであったなら、こうした問題はおきなかったでしょうが、残念ながら、歴史は逆に動いたわけでした。

 

イスラーム側の認識  

 イスラームの側も、キリスト教に対する不信と敵意が醸成されてしまい、これ以降、イスラーム圏内のユダヤ教徒やキリスト教徒に対する締め付けが厳しくなり、そのため、エジプトでは多くのコプト・キリスト教徒が、イスラームに改宗せざるを得ない状況に追い込まれました。こうした歴史が現代に至って相互不信を生んでいて、この十字軍というのは、本当に取り返しの付かない禍根を生んでいたと言えます。それにもかかわらず、ブッシュ元アメリカ大統領は、自分の為していることは十字軍」などと口走っていたわけで、その認識の愚かさもさることなら危険きわまりないと言える。

宗教 

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