正見

 一日が終わるときに、呼吸を整えて心を調律し、みずからの内に深く入っていく。

 その段階で、一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみる。

 自分が見てきたことが真実に近い見方ではなかったとしたら、その根本原因をたぐっていき、原因を見いだしたならば、それを取り除いていく。

 大人になるまでの歴史を振り返ってみると、誰もが自己実現できなかったことの多さに驚くものであるが、一定の年齢を超えると、それで良かったのかなと感じるようになる。

 誰もが行きたがるような道に行きたいと思うのに、その道が塞がって行けなくなってしまう場合があったとしても、それは自分にとって幸福な道ではない可能性が極めて高い。

 この世とあの世を何度も転生輪廻している自分が、今世、地上に生を享けた理由は、一生を通して新しい個性を得ることにあるから、他の人と同じでなくてよい。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『勇気の法』で以下のように説かれました。

「次に、「自分の人生を、突き放した目で見つめ直してみる」ということを挙げておきたいと思います。少年・青年期から大人になるまでの歴史を振り返って反省してみたならば、誰もが、おそらく、自己実現できなかったことのあまりの多さに驚くだろうと思います。それぞれの時点で、「こうなりたい」と思いながら、多くのことがそうはならなかったことを感じるでしょう。しかし、一定の年齢を超えると、自己実現できなかったことに対して、「まあ、それで良かったのかな。それで自分は自分なりの道を発見できたのだろう」と感じるようになるのです。若いころには、何かを願っても叶わない場合がほとんどです。その願いのなかには、自分の気持ちからストレートに出てきたものもあるでしょうが、「友達が、そう言っている」「友達が、みな行きたがっている」「両親が、そう願った」など、他の人たちの価値観に影響されているものが多いのです。人生には分かれ道がたくさんありますが、人間は一つの道しか歩けません。何本もの道を同時に歩くことはできないのです。誰もが行きたがるような道に「自分も行きたい」と思ったとしても、その道が塞がって行けなくなってしまう場合があります。そういうときには、悲しい思いをします。しかし、しだいに自分の道というものがはっきりしてきて、「わが道を歩む」ということの大切さが分かってくると、「自分は自分の道を歩むしかない。それ以外の道では満足できない。自分の人生を、他の人の人生と置き換えなくて良かった」ということを感じるようになるのです。この世とあの世を何度も転生輪廻している“あなた”という存在が、今世、地上に生を享けた理由は、一生を通して“初めての個性”を得ることにあります。新しい個性を得るために生まれてきた人生なのですから、他の人と同じでなくてよいのです。「人との違いを楽しむ。そのユニークさを楽しむ」という気持ちを持たなければいけません。「誰もが行きたがる所に行く」ということは、ある意味では、苦しみの多い人生へと追い込まれていくようなものなのかもしれません。誰もが行きたがる所は、あなたにとって、幸福な道ではない可能性が極めて高いのです。  したがって、突き放して見るような目も一つ要るわけです。」

 

「人間の悩みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるい分けしていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、みずからの内に深く深く入っていく必要があります。そして、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。ここが見方の分かれるところなのです。この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。」

 

正見 3つの観点

 正しく見るということには3つの観点がある。

1 自分を取り巻く他の人の姿を正しく見ることができたか。

 神の心のような鏡に映ったとして、それと寸分違わずに見たか。

2 自分自身を正しく見ることができたか。

 自分を甘やかしていなかったか。

3 他人と自己との間に発生した事件を正しく見たか。

 こうした反省をすることによって、心のなかに眠っていた仏性が次第しだいに目覚めてくる。正しく見るということが深まるにつれて、他人が違ったふうに見えてくる。(『ユートピアの原理』より)

 

正見 縁起の理法で見る

 ものごとには原因・結果が必ずあり、その原因・結果の法則が実は「縁起(えんぎ)なのです。「因」(直接原因)があり、それに「縁」(間接原因、補助因)が加わって「果」(結果)が出、そして「報」(報い)が来ます。仏教的人生観というのは「因・縁・果・報」の考え方なのです。そして、この考え方というのはほかの原因もあるでしょうが、基本的には「自己責任の原則」に戻ってくることはまず間違いありません。

 「人生における現在の苦しみの原因は基本的に自分にある」ということです。

 自分が現在苦しんでいるのには、苦しむだけの理由がやはりあるということです。

 自分の過去について、両親の段階から辿(たど)ってきて、結婚や子供、職業など現在までのいろいろなことを ずーっと点検してみて、その原因をよく分析すれば、苦しみの理由がわかります。

 苦しみの理由がわかったならば、そこでよく自分の内を見つめてください。

 たとえば、自分の欲によって起こされている苦しみならば、その欲の部分を根元からバシッと切らなければいけません。

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