正命

 もし、きょう一日で、人生がおしまいだとしたら。

 きょうの夜中の12時には、お迎えが来て、あの世に還らなきゃいけないんだとしたら。

 それで果たして悔いのない一日を、自分は送ってきたか。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「だれにとっても、一日は二十四時間、一年は365日で成り立っています。また、だれもがやがては地上を去ることになっています。大多数の人は百歳まで生きることさえできません。人間は一日の枠のなかで何時聞かを睦眠にとられ、さらに何時聞かは食事など生活に必要な時間にとられます。そして残された時間が、仕事の時間だったり、自分のための時間だったりするのです。だれに対しても一日が同じ枠として与えられているという事実は、恐るべきことです。生まれつきの才能などに関係なく、だれに対しても同じく24時間が与えられており、その24時間をどう使うかによって、その人の人生が決まっていくというのは、このうえなく公平なことだと私には思えます。この24時間を使って、ある人は一国の宰相となり、ある人は大学者となり、ある人は思想家となりますが、ある人は単なる無為徒食の輩となることがあります。この差は、時間という観点から見たときには、結局、「時間の中身をどのように充実させていったか」ということに起因するのです。したがって、正命(しょうみょう)を現代的に翻訳し直すならば、「どのように一日を生きているか。どのように24時間を使っているか」という考え方になります。また、「24時間の積み重ねである毎月毎年を、どう生きているか」ということにもなります。ここで私は大事な事実を指摘しなければなりません。それは、「時間を貴重なものだと考えるならば、一日の枠を一生として考え直し、そのなかで時間をいかに使うべきかに、思いを巡らせなければならない」ということです。たいていの人は、「きのうがあったように、きょうがあり、きょうがあるように、あすもあるだろう」と楽観していますが、あすの生命があるという保証はないのです。もし、きょう一日で、きょうの夜中の十二時で、みずからの人生が閉じてしまうならば、さあ、どうしますか。あなたはどう生きますか。「しまった」と思うことのほうが多いのではないでしょうか。結局、正命とは、「きょうで生命が終わると考えたならば、おそらく自分はこのように生きただろう」という観点なのです。こうした観点から見たとき、反省すべき点が出てくるはずです。あちらにもこちらにも、さまざまな可能性があったのに、その可能性を捨てて生きていた自分を思い知らされるのです。要はこの一点です。「一日を一生と思い、その一日で死んでしまうと思ったとき、はたして悔いのない一日であったか」という観点から、一日の出来事や自分の言動を判断していくことです。これを続けることによって初めて、「正しく生活をしている」と言うことができるようになるのです。」

 「正しい生活」については、「身業(正業)」「口業(語業)」「意思業(正思)」を統合して、調和した生活をすることが理想です。

 反省のチェックポイントとしては、「仏のくださった24時間を活かし切ったか」という点がある。

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