如来

 如来という一段高い境地は、公平の原理から成り立っており、仏の子として平等に分かれてきたなかで幾転生をくり返すうちに、大いなる叡智を獲得した者である。

 如来とは仏の代理人としての機能を持っており、仏を感じさせる偉大なる存在である。

 仏を直接に見ることはできないが、如来を通して、仏の偉大な慈悲、仏の偉大なる存在というものを人間は感じ取っていくのであり、如来の存在の意味は、衆人に対する教育機能にある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「私は『太陽の法』において、「仏は人間の魂を平等に創ったが、平等だけではなく、その働き相応に評価する公平という観点からも人間を見ている」ということを語りました。その公平とは、多くの人を指導する人には、それなりの立場と役割、力を与えるということです。如来という一段高い境地は、この公平の原理から成り立っているのです。仏の子として平等に分かれてきたもののなかで、幾転生をくり返すうちに、大いなる叡智を獲得した者に対しては、それなりの立場につかせて、さらに大いなる自己実現を任せる。これが仏の考えだと言えます。そこで、如来の機能とは何かを考えると、結局、如来とは仏の代理人としての機能を持っている人と言うことができます。仏というものは、人間のように手足があって、そこここに現われて動くものではありません。仏は、この大宇宙、この広大なる多次元空間をも創出している存在ですから、それを人間が手に取って見るようなわけにはいきません。そのかわり、仏を感じさせるような偉大なる存在として、如来があるのではないでしょうか。すなわち、人びとに仏そのものを感じさせるために、如来は存在しているのです。これが如来は「存在の愛」の体現者であるということの根本の理由です。如来は「真実から来た」存在ですけれども、絶対的真理がそこにあるような存在とは、その存在自体が人間に対する愛である存在ということになりましょう。つまり、人間を大いに啓発し、啓蒙し、幸福な境地に誘いてやまない存在 それが如来なのです。ということは、如来とは光そのものでもあり、また、仏の化身でもあると言えます。人間には、仏そのものを見、仏そのものを理解し、仏そのものをつかみきることはできません。しかし、如来というものを通して、仏を類推することはできるのではないでしょうか。仏を類推し、仏の慈悲を推し量るための手本として、如来がいるのです。仏を直接に見ることはできないが、如来を通して、仏の偉大な慈悲、仏の偉大なる存在というものを、人間はやがて感じ取っていくのです。したがって、如来の存在の意味とは、結局のところ、教育にあるわけです。如来は、その存在自体が、衆人、万人に対する教育機能を持っているのだと言えます。」

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