一即多・多即一

 七次元菩薩界と異なり、八次元如来界では、霊というのは知性あるエネルギー体であり、姿、形なき光の束であることを、知識的にだけでなく生活実感としても知っている。

 「一即多・多即一」という如来界の法則は、意識の作用の数だけの数が存在するのであり、それを統一する意識体のみがその実態を知っている、というものである。

 八次元如来界では、視覚的にはバラバラで相矛盾しているように見えるものが、直感的統一でひとつになる、絶対矛盾的自己同一ということが可能な世界なのである。

 「一即多・多即一」というのは、一般には、華厳経で説かれた思想と説明されていると思います。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「七次元の菩薩界では、まだ人間としての姿をとって、あの世でも修行しているのです。人間には、手が二本あり、足が二本あり、着ている衣服もあって、髪形もあれば、目鼻だちもある。こういう具合にしか自分自身を認識しえない段階にあるのが、大部分の菩薩です。人間の姿、形をしていないと、やはりあの世でも落ち着かないのでしょう。ですから、彼らは徳性が高く、指導力も非常に高い方がたなのですが、その力には、どうしても、人間的な霊力の限界があるのです。しかし、八次元の如来界に入ってくると、少し事情が異なってきます。如来界の人たちは、自分たちが、人体の形をした霊魂ではないことを知っております。それは、長年の転生の過程で、人体に宿ったという記憶でしかないのです。また、如来たちは、霊というのは、知性あるエネルギー体であり、姿、形なき光の束であることを、知識的に知っているだけではなく、生活実感としても知っております。ですから、地上に住んでいる人間で、もし如来としての悟りを得ている人がいるとするならば、如来界の法則に気づいているはずです。如来界の法則とは、「一即多・多即一」の法則なのです。つまり、この世界では、数でいう「一」というのが、客観的認識としてはありません。ですから、「二かと思えば、それが「十」であり、「万」である。「千」かと思えば、「二であったりするのです。客観的事実ではなく、絶対的な存在、すなわち、意識の作用の数だけの数が存在するのであり、それを統一する意識体のみが、その実態を知っているのです。もう少し、わかりやすく説明しましょう。たとえば、ひとりの如来がやるべき仕事が十あれば、十人となってあらわれ、一万あれば、一万人となってあらわれるということです。しかし、たとえ一万人としてわかれ出ても、それをひとりとして認識する統一した意識があるということでもあるのです。近年、日本に生まれた京都学派の哲学者である西田幾多郎(1870年~1945年)という方は、哲学的研究の結果、こうした如来界の法則について、気づいていたようです。もちろん、彼自身が、本来、如来界の人間であったために、彼自身の潜在意識が、そうした世界があるということを教えていたのだともいえます。 この八次元如来界では、絶対矛盾的自己同一ということが、可能な世界なのです。視覚的には、バラバラで相矛盾しているように見えるものが、直感的統一でひとつになるような世界、それが如来界なのです。哲学者・西田幾多郎は、その生前において、この如来界の悟りを、どうやら部分的には得ていたといえます。」

「仏法真理」へ戻る