真のイスラムの教えとは

大川隆法 未来への羅針盤 ワールド・ティーチャー・メッセージ No.215

 イスラム教の一部の宗派には、「ムハンマドの12番目の息子であるマフディが最終的に地上にユートピアをもたらす」という考えを信じているものもありますが、大川先生のイスラム教についての考えをお聞かせ下さい。

 

伝統を守ろうとして現代社会に合っていない宗教

 イスラム社会は、今、非常に難しい状況にあると思いますし、イランは、現在の地球にとって、「ダイナマイト」のようなものだと考えられています。世界の人々は、イランに対して非常に深刻、かつ敏感になっています。イランでは多くの人がシーア派に属しており、他の国、たとえばサウジアラビアなどはスンニ派に属しています。私の三男は、過去、1400年以上前に、シーア派と縁があります。それについては近いうちに説明されるでしょう。

 今となっては、イエス・キリストは2000年以上前に生きた人であり、ムハンマドは1400年以上、釈尊は2500年以上前に生きた人です。時代も地域も異なっており、現代の人々が、彼らに対して、「あなただったらどうするか」と聞くことは非常に困難です。「あなた」とは、その宗教の開祖という意味です。

「今、この地上で、この国で、この地域で、何をすべきか」「現在のキリスト教やプロテスタント、カトリックなどの他の宗教について、どう思うか」「ユダヤ教についてどう思うか」「日本神道や仏教についてどう思うか」、このようなことについて、信者はその答えを聞きたいと思うでしょう。

 しかし、伝統的に言っても、宗教は元々の教えや行動を守り、戒律を守ろうとし、考え方を変えたがりません。それは、宗教家にとっては非常に難しいことなのです。

 たとえば、最近、小さなパピルスの断片が見つかり、イエス・キリストが彼の「妻」の存在に言及し、彼女が自分の弟子であったことが書かれていました。

 しかし、ローマ・カトリック教会は、当然ながら、その記述を否定しました。なぜなら、これを認めると、ローマ・カトリック教会の伝統が崩壊することになるからです。ローマ・カトリック教会の神父や修道女たちは結婚できないので、彼らにとっては、イエスに妻がいたことを理解し、受け入れることは極めて困難です。それが真実かどうかについては問題ではなく、彼らはこれまでの伝統を守りたいのです。

 イランの人々、あるいはイスラム教の人々も、ムハンマド時代の伝統を守ろうとしていることでしょう。

 

他の宗教を受け入れ神の慈悲と愛を感じること

 しかし、世界は変化しているのです。

 ですから、大事なのは、イスラム教の中心的な教え、大切な点を守ることなのです。

たとえばムハンマドは、「イスラム教徒は寛容を愛する人々である」と言っていると思いますし、私もそう信じています。しかし、キリスト教徒は、イスラム教徒が寛容であるとは思っていません。

 彼らがそう思うのは、9・11のアメリカ同時多発テロが原因です。これ以降、イスラム教徒は「西洋社会の人々とは異なる風貌である」という理由で誤解されています。しかし、それは些細なことだと私は思います。

 あえて申し上げますが、どうか、こうした些細な点は気にしないで、他の宗教や、その信者の良いところを受け入れてもらいたいのです。

 今現在、それぞれの国で宗教が広がっていることは、神や仏を信じない無神論者が増えるよりも良いことなのです。宗教を信じている人とは、つまり、善人になろうとしている人、あるいは他の人々を助けたいと思っている人です。そのような人々は、神や仏に愛される資格があるのです。私はそう考えています。

 どうか小さなことを気にするのではなく、神や、あなたがたを指導せんとする、神近き存在の大いなる愛と慈悲を信じてください。

 イスラム教徒は、今、非常に難しい状況下にあると思いますが、他宗に改宗したら、殺されたり、腕や足などを切断されたりするなどという戒律は、自分たちで作ったものです。これは、現代社会では良いことではありません。人権をあまりに軽く見ていると思うのです。

 彼らは、ただ神の言葉を守っているだけですので、もし、神が今、戒律や人権などの問題に答えるなら、おそらくは、「私は愛である。私は慈悲である。その点から考えなさい。現代社会と未来社会に適応しなさい。憎しみを捨てなさい。そして、愛によって、他者からの憎しみや嫉妬を乗り超えなさい」と言われることでしょう。

 ですから、イスラム教という宗教の中心的な教えのみを考慮すべきであって、それ以外の細かな戒律は改めるべきでしょう。これが、私のイスラム教についての主な考えです。

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