死後、あの世に持って還れるものは「信仰」しかない

信仰は、最後にあなたに残るもの

 この世には、素晴らしいものがたくさんありますが、「最後は信仰を取る」という姿勢を採らなければいけません。この世的なものは、この世を去るときに、全部、捨てていくものであり、最後にあなたに残るものは信仰しかないのです。死んで、あの世に持って還れるものは、心しかありません。しかし、確かに心は持って還れますが、その行き場所には天国もあれば地獄もあります。天国に行く心も地獄に行く心もあるのです。したがって、「死んだあとは、家、財産、家族、友人、持ち物、名刺など、すべてを失うのであり、あの世に持って還れるものは心しかない」という事実は、さらに踏み込んで言うならば、「あの世に持って還れるものは信仰しかない」ということになります。信仰を持っていれば、あの世において、あなたがたが行くべき所は、はっきりと固まります。信仰こそが、あなたがたが天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件です。さらには、天使になるための条件なのです。(『霊的世界のほんとうの話。』)

 肉体が人間のすべてではなく、肉体のなかには「魂」がほんとうに入っている。死を境にして魂は肉体から離れて、あの世に旅立つが、その行き場所を決めるのは、この世での生き方そのものである。

 宗教家や霊能者が、この世とあの世の仕組みを教えても、それを信じるか信じないかは、各人の自由に任されている。

 証明可能な科学実験のようなものであれば、信仰はそもそも必要がないが、生きている間は経験できないために、宗教は信仰を要求している。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『死んでから困らない生き方』で以下のように説かれました。

「今、みなさんは肉体に宿って生活をしていますが、肉体が人間のすべてではありません。肉体のなかには、昔から言われているように、「魂」がほんとうに入っているのです。(中略) しかし、死を境にして、魂は肉体から遊離します。肉体は、火葬場で焼かれて埋葬されますが、魂のほうは、肉体から離れて、あの世に旅立ちます。(中略) そして、あの世での行き場所を決めるものは、この世での生き方そのものです。(中略) あの世が、すっきりと見えたり分かったりしない理由は、やはり、この世の生活に支障が出るためです。そのため、いつの時代にも、宗教家や霊能者などが出てきて、この世とあの世の仕組み自体をきちんと教えるようになっています。ただ、「それを信じるか、信じないか」は、各人の自由に任されています。そして、「目に見えない世界や、目に見えない善悪などの存在を信じることができるかどうか」ということで、「魂的に向上しているか、堕落しているか」が、今世の修行として測られることになるのです。(中略)  あの世には、仏や神、あるいは天使、如来・菩薩といわれるような尊い存在もいれば、普通の人間霊もいます。そして、人間霊には、善良な人と、善良ではなかった人がいます。  さらに、悪魔といわれるような存在もいます。これは、千年以上も地獄から出てこないような人たちです。彼らも、もとは人間として生まれたことのある存在ですが、はっきり言って、生前、悪いことばかりを考え、積極的に人を害そうとしたような人たちなのです。(中略) この世では、フェアでないこともありますが、あの世の世界というのは、かなりフェアに判定が出るのです。神、仏の創った世界は、決して、人間の生き方を裏切るようなことはありません。この世で苦労したら、「損をした」と思うかもしれませんが、その苦労が、それなりに正しいものであれば、あの世で報われることになります。一方、この世で楽をして、「うまくいった」と思ったとしても、それが正当なものではない場合は、死後、あの世で必ず反省させられるようになるのです。  これが真実の世界観であり、宗派を問わず、宗教を問わず、洋の東西を問わず、全世界で認められている考えなのです。(中略)  この世とあの世の真実について、いろいろと述べてきましたが、すべての人が私と同じような経験をすることはできません。そのため、宗教には、信仰というものが必要になります。何度でも証明できる科学実験のようなものであれば、信仰は、そもそも必要がありません。(中略)ここに、宗教が、信仰というものを要求する理由があります。もちろん、死んでからは、何人も同じような経験をするのですが、生きている間は、経験できません。したがって、宗教指導者たちの教えることを受け入れるしかないわけです。それが、信仰の意味です。

 

 

 肉体が人間のすべてではなく、肉体のなかには「魂」がほんとうに入っている。死を境にして魂は肉体から離れて、あの世に旅立つが、その行き場所を決めるのは、この世での生き方そのものである。

 宗教家や霊能者が、この世とあの世の仕組みを教えても、それを信じるか信じないかは、各人の自由に任されている。

 証明可能な科学実験のようなものであれば、信仰はそもそも必要がないが、生きている間は経験できないために、宗教は信仰を要求している。

 

 大川隆法総裁は、『死んでから困らない生き方』で以下のように説かれました。

「今、みなさんは肉体に宿って生活をしていますが、肉体が人間のすべてではありません。肉体のなかには、昔から言われているように、「魂」がほんとうに入っているのです。(中略)  しかし、死を境にして、魂は肉体から遊離します。肉体は、火葬場で焼かれて埋葬されますが、魂のほうは、肉体から離れて、あの世に旅立ちます。(中略) そして、あの世での行き場所を決めるものは、この世での生き方そのものです。(中略)  あの世が、すっきりと見えたり分かったりしない理由は、やはり、この世の生活に支障が出るためです。そのため、いつの時代にも、宗教家や霊能者などが出てきて、この世とあの世の仕組み自体をきちんと教えるようになっています。ただ、「それを信じるか、信じないか」は、各人の自由に任されています。そして、「目に見えない世界や、目に見えない善悪などの存在を信じることができるかどうか」ということで、「魂的に向上しているか、堕落しているか」が、今世の修行として測られることになるのです。(中略)  あの世には、仏や神、あるいは天使、如来・菩薩といわれるような尊い存在もいれば、普通の人間霊もいます。そして、人間霊には、善良な人と、善良ではなかった人がいます。さらに、悪魔といわれるような存在もいます。これは、千年以上も地獄から出てこないような人たちです。彼らも、もとは人間として生まれたことのある存在ですが、はっきり言って、生前、悪いことばかりを考え、積極的に人を害そうとしたような人たちなのです。(中略)  この世では、フェアでないこともありますが、あの世の世界というのは、かなりフェアに判定が出るのです。神、仏の創った世界は、決して、人間の生き方を裏切るようなことはありません。この世で苦労したら、「損をした」と思うかもしれませんが、その苦労が、それなりに正しいものであれば、あの世で報われることになります。一方、この世で楽をして、「うまくいった」と思ったとしても、それが正当なものではない場合は、死後、あの世で必ず反省させられるようになるのです。  これが真実の世界観であり、宗派を問わず、宗教を問わず、洋の東西を問わず、全世界で認められている考えなのです。(中略)  この世とあの世の真実について、いろいろと述べてきましたが、すべての人が私と同じような経験をすることはできません。そのため、宗教には、信仰というものが必要になります。  何度でも証明できる科学実験のようなものであれば、信仰は、そもそも必要がありません。(中略) ここに、宗教が、信仰というものを要求する理由があります。もちろん、死んでからは、何人も同じような経験をするのですが、生きている間は、経験できません。  したがって、宗教指導者たちの教えることを受け入れるしかないわけです。それが、信仰の意味です。」

 

最後は信仰を取る

 最後は信仰を取る、という姿勢を採るべきである。

 死んであの世に持って還れるものは心しかないという教えを、さらに踏み込んで言うならば、あの世に持って還れるものは信仰しかない。

 信仰こそが、天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件であり、さらには、光の天使になるための条件である。

 

 大川隆法総裁は、『霊的世界のほんとうの話。』で以下のように説かれました。

「この世には、素晴らしいものがたくさんありますが、「最後は信仰を取る」という姿勢を採らなければいけません。この世的なものは、この世を去るときに、全部、捨てていくものであり、最後にあなたに残るものは信仰しかないのです。過去、私は何度も、「死んで、あの世に持って還れるものは、心しかない」ということを説きました。確かに心は持って還れますが、その行き場所には天国もあれば地獄もあります。天国に行く心も地獄に行く心もあるのです。したがって、「死んだあとは、家、財産、家族、友人、持ち物、名刺など、すべてを失うのであり、あの世に持って還れるものは心しかない」という教えは、さらに踏み込んで言うならば、「あの世に持って還れるものは信仰しかない」ということになります。信仰を持っていれば、あの世において、あなたがたが行くべき所は、はっきりと固まります。信仰こそが、あなたがたが天国に入る鍵であり、天国の門であり、天国に住むための条件です。さらには、光の天使になるための条件なのです。」

 総裁は、『奇跡の法』で以下のように説かれました。

「人間が自助努力をしているとき、同時に、それを超えた大いなる他力もまた救いの手を差し伸べているのです。大きな慈悲がいつも臨んでいることを忘れずに、その慈悲と手を結ぶような自助努力をしていくことが大切です。このような世界観を持つべきだと思います。したがって、信仰と成功は対立するものではないのです。信仰を否定すれば成功するわけではありませんし、反対に、何らの自助努力もせず、成功の方法論をまったく無視して、信仰だけで成功できるわけでもありません。人間が修行の目的でこの世に生れてくることを考えれば、自助努力はやはり必要であり、創意工夫し、智慧を磨くことが大切です。しかし、同時に、地上の人間を助けようとする力が働いていることも忘れてはいけません。ただ、「自分を助けようとする力が働いているから、何も努力しなくてよいのだ」という甘え心では、高級霊の波動も近寄ってこなくなります。「天はみずから助くる者を助く」という言葉のとおりなのです。  天は、自助努力の精神、セルフ・ヘルプの精神を持っている人をこそ、手助けしたいのです。(中略)  そして、自助努力や創意工夫をしているなかにも、実は他力は臨んでいるのです。努力をすればするほど、インスピレーションがわいてくるようになりますが、インスピレーションには他力的な要素がかなりあるのです。(中略)  ただ、インスピレーションを受けるためには、地上の人間の側に、それを受け止められるだけの力が必要です。(中略)  したがって、インスピレーションを受け取れるだけの器をつくる努力が必要です。そうした努力を継続していくなかに、よいインスピレーションが下りてくるようになるのです。(中略)  そのインスピレーションを逃さずにつかみ、天上界の高級霊に感謝し、さらにまた、努力、精進を重ねていくことです。このくり返しが成功を生んでいきます。」