奇跡が起きないときとは

 自分としては人生の一大事であったとしても、あんなに祈ったのに願いがかなえられなかった、奇跡が起きなかった。そんなときは、仏からその信仰的事実が自分に下されたということである。そこに、自分の考え方や生き方を軌道修正するための教訓が現われているのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『宗教選択の時代』で以下のように説かれました。

「この世に生きている人間は、自分の本来の使命と目的を、完全に悟りきることはできません。いかなる目的を持って、いかなる計画を持って、この世に生まれてきたかということは、この世を去ってあの世に還らなければ、百パーセントはわかりません。したがって、三次元において、「自分はこのようになったほうがよい」と思って祈っても、その祈りがかなえられる場合と、かなえられない場合とがあります。そして、かなえられた場合は、「この願いは、仏が願う方向と同じであったために、かなえられたのだ」と思い、一方、かなえられなかった場合は、「願いがかなえられなかったという事実が、信仰的事実として自分に下されたのだ」と思わなければならないのです。たとえば、中学生が試験の問題を解く時に、「仏よ、この間題の答えを教えてください」と祈るとします。そして、それに対して答えが下ってきて、それを解く、そういうことだけをくり返すことが、ほんとうに仏の心に適ったことかどうかは、想像すればわかると思います。仏のほんとうの願いからすれば、その子に対して、やはり、「優秀な子になってほしい。勉強のできる子になってほしい。いい学校にも進んでほしい」と思っているでしょう。しかし、そうした願いがあるからといって、答えをすぐに霊示によって下ろすようなことは、まずないであろうということは、みなさんも想像できると思います。そのとおりです。自分が出した答えが正解か不正解かは、やがて試験の成績が返ってきた時にわかります。その時に、自分の不充分なところを反省して、努力精進する子には道が開け、そうでない子、すなわち、仏に祈ったけれども答えが与えられなくて、「だから仏は信じない」と考える子には、残念ながら、ますます悪い結果が現われてくるであろう、ということが想像されるわけです。大切なことは、こういうことです。この世において、その立場において、「自分の願っていることが、ほんとうに仏の心に適(かな)っているかどうか」ということは、なかなか人間にはわからないことがあります。その願いが仏の心に適うものであるならば、奇蹟が目の前に開けてくることを祈ることはよいでしょう。しかし、もし、それが現われてこないものであるならば、現われてこないなかに、仏の御心があります。仏の念いがそこにあるのです。「あなたは、ここから何かを学びなさい」という教訓が、そこに現われているのです。そして、その教訓を得ることなくして、その人には、次の課題、次の関門が与えられないこともあります。ですから、一つひとつが、必ずしも最終的な成功ではないということです。いったんは失敗に見えたことであっても、実は、その人の考え方や人生を軌道修正するために、非常に大事な、示唆に富んだ現実であることも多いと言えます。」