光明思想

明るく生きる

 幸福の科学大川隆法総裁は、『発展思考』で以下のように説かれました。

「私は、もっとも簡単で、素朴で、そして宗教嫌いの現代人にとっても受け入れやすい信仰形態が、すなわち「光明的人生を生きる」という考え方だろうと思います。それは、明るく物事を見、考えていくことが素晴らしい人生を拓くという考えです。この単純な真実を信じてくださりさえすれば、大仰な信仰というものを振りかざさなくても、結果的には八十パーセントぐらいの成功を収めることができるのではないか、というように思うのです。たとえば、「神を信じよ」という場合に哲学的な神の概念のようなものを、抽象的に説明して鵜呑みにさせようとしても、それは喉にひっかかった薬のカプセルのようで、なかなか簡単に飲み込めるものではありません。しかし、神に至るための道はその他にもあるわけです。もし、神の持っておられる属性を身につけることが、いちばん神の側近くに行きやすいということになるならば、そうした思考のための思考、学問のための学問、抽象性のための抽象化というようなこととは無縁に、実際、神そのものを受け入れることとほとんど同じような効果が得られるのではないかと思うのです。 「神の本質は光である」と言われます。それは違った説明をするならば、私は「明るい」ということだと思うのです。すなわち人間が、あの太陽の光のように底抜けに明るく、真実、明るい思想を持ちながら生きる、ということが幸福への道であり、神に至るための道であると単純化して割り切ってもよいと思うのです。ですから、みなさん方の頭が、いろいろな考え方で複雑になりすぎているならば、いったんその頭のなかのしがらみを断ち切ってみてください。複雑に考えすぎている物事を、ちょうど蜘蜂の巣を掃除でもするように、サッと箒(ほうき)ではらってください。そして、単純に「明るく生きる」ことが出発点であるということを知っていただきたいのです。そして、「明るく生きよう。明るく見、明るくふるまい、明るく考えよう」と思うこと自体が信仰への道であり、神そのものを自らの内に引き入れる行為であるのだということを知っていただきたいのです。」

 最も初歩の教えとして、「明るく生きること」というのは大切です。その次の段階として「明るく建設的な考え方を持つと同時に、勤勉な自助努力の精神を持っていることも大事です。

 大川隆法総裁は、『繁栄の法』で以下のように説かれました。

「人間の心にはみずからの将来を決める力があり、どのような精神態度を持ちつづけるかによって人生は変わっていきます。子供を指導する立場にある人は、この点を知っている必要があるのです。「積極的で建設的な考え方、明るい考え方を持つことが大事だ」という意見がよくありますが、私も基本的には賛成です。そうした考え方を持たなければ、成功する力は出てこないと思います。物事には百パーセントということはあまりないので、プラスが出る方向で物事を考えていくことが非常に大事です。ただし、単に明るく考えればよいわけではありません。「着々と努力を重ねる」という精進の裏付けを持ちながら、明るく積極的な考え方を持つことが必要です。これがポイントなのです。光明思想型で失敗する人は、詰めの甘い場合がほとんどです。自分の努力が足りない部分を光明思想で補うタイプの人は、詰めの甘さで失敗しやすいのです。やるべきことをやらずに、「よくなるしかないのだ」などと言っていれば、失敗するのは当たり前です。要するに、自分に対して甘いのです。もちろん、心の方向性を決める意味で、積極思考は非常に大事です。積極思考を持っている人は、結局において、よい人生を送る場合が多いと思います。ただ、その過程においては、積極思考が自助努力の精神と合体する必要があると私は考えます。自助努力の精神と合体しない積極思考を持っている人は、ほとんど他力本願型であり、「神様、仏様が全部やってくれる」という考え方をしています。心の苦しみや悩みを預けてしまうという意味では、それも効果があることは事実ですし、「すぐに結果を出したい」という焦りに対する抑止力として、他力に頼るのも大事なことだとは思います。しかし、各個人を引き上げない思想は本物ではありません。それは一時的な麻酔薬や鎮静剤にはなりますが、最終的なものではないのです。したがって、明るく建設的な考え方を持つと同時に、コインの裏側として、勤勉な自助努力の精神を持っていることも大事です。そして、自助努力の精神が「神も仏もあるものか」という思想に行かないようにするために、健全な、宗教的な精神性も持たなければいけないのです。」

 光明的なものの考え方は、個人においては非常に有用で大事なものである。しかし、組織のリーダーとしては、客観的事実は変化しない以上、安易な考え方が致命的な失敗になりうる。

 天国的な思想が地獄的なものに転化することもあることを知らなければならない。

 大川隆法総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「以前、小渕元首相が国会で演説した言葉のなかに、光明思想でよく出てくるたとえ話がありました。それは、「一つのコップのなかに水が半分入っている場合に、『水が半分しかない』という見方もあれば、『半分もある』という見方もある」というものです。コップのなかの半分の水を、「半分しかない」と見るか、「半分もある」と見るかという、ものの見方によって、人生観が変わり、幸・不幸も変わってくるということは、個人においては言えると思います。これは光明思想の出発点の一つです。「与えられていることに感謝する」ということは、宗教的な観点から言えば、充分にご利益のある考え方ではあります。ただ、ここに一つ、落とし穴があるのです。「自分はこういう見方をする」というのは、個人としてはよいのですが、たとえば、一国の政治を預かる者や、一国とは言わないまでも、従業員が百人以上の会社や大きな組織などを預かる者としては、「コップに半分しか水がない」という事実そのものは変えることができないことを見逃してはならないのです。客観的事実は変化しないという点を見逃したときに、組織のリーダーとしては致命的な失敗を犯すことがあるのです。そうした失敗をもたらすものの一つが、戦争で言うと、たとえば兵姑を無視する思想です。「コップに半分も水がある」という考え方を突き詰めていくと、先の太平洋戦争のときの日本軍の考え方につながるものがあります。大勢の軍隊が移動する際の食糧ということで考えた場合には、非常に大きな問題になります。食糧の量によって、「何人が何日間、行軍できるか」ということは、だいたい計算が立ちます。それを計算しない人が指揮をとったならば、いくら「考え方一つだ」と言っても、それは死の行進になるはずです。「考え方一つだ」という思想は、個人の勇気づけには充分に使えるのですが、組織という面では違ってきます。どのくらい持ちこたえられるかを計算することは、単なる臆病の論理や、光明思想に対する暗黒思想とは違います。それは智慧の部分に当たるのです。たとえば、地震等の天変地異には、当然、人心の荒廃や天上界の怒りも影響はしますが、その被害を小さくするためには、少なくとも耐震構造を持った建物や高速道路であることが必要です。手抜き工事をしたものまで仏神が加護することはありません。仏神は、そこまでは考えていないのです。壁のなかにコンクリートが詰まっていなかったり、鉄筋が入っていなかったりするのに、奇跡によって救おうと力を尽くすような仏神はいません。やはり一定の強度が必要なのです。したがって、光明的なものの考え方は、個人を出発点としたときには非常に有用で大事なものですが、大勢の人が生き、あるいは戦い、事業をし、成功しなければいけないという局面においては、安易な考え方が失敗につながり、悪を呼ぶことがあるのです。「天国的な思想が地獄的なものに転化することもある」ということを知らなければいけません。」

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