悪魔

 悪霊とは、この世に生まれた時に「足ることを知らない欲望、愚痴、不平不満、猜疑心、欲求不満、劣等感、自己顕示欲」といった煩悩にとらわれ、反省することなくあの世に帰って迷っている魂のことである。

 悪魔とはより積極的に「人々を害し、転落させよう」という悪意を持った存在である。

 特に、この世において宗教家、思想家、政治家などリーダー的立場にあった人で、自らの権力欲のために人々を恐怖に陥れたり、大勢の人を思想的に狂わせたりした人は、死後に悪魔となっているケースが多い。

 宗教には、表現は違いますが「悪魔」と呼ばれる存在が登場する。聖書や仏典などでは、神仏の仕事を邪魔する悪魔という存在が出てきます。

 キリスト教では、イエス・キリストが荒野で40日40夜、悪魔と対決した話が出てきます。ルシフェルやベルゼベフと呼ばれる霊的存在が、「おまえが神の子ならこの石を変じてパンにしてみよ」などと、イエスを折々にそそのかし惑わしているエピソードが知られている。また、弟子の一人であったユダが裏切り、イエス処刑の原因をつくりました。

 仏教においては、釈尊が悟りを開く前に悪魔が邪魔をしてきたことが仏典などに記されている。釈尊が悟りを開く前には、マーラ・パーピーヤス(悪魔・波旬)が現れ、晩年には、ダイバダッタが仏敵となり、釈迦教団に反旗を翻しました。

 イスラム教でも「ジン」という砂漠地方の悪魔が出てくる。

 

彼らはなぜ悪魔に

 そもそも、なぜ彼らはいるのか? これは伝統的にキリスト教神学の大問題だった。「もし神がいるなら、なぜ悪魔を創造し、その存在を許しておくのか。そこが納得できないから神も悪魔も信じない」という人もいるだろう。

 実は彼らは元々人間だったが、「残念ながら、心の使い方、用い方を誤った人たち」である。そもそも、私たち人間は、いいことしか思ったりやったりできないようガチガチにプログラミングされたロボットではなく、善なる思いも悪なる思いも持つことのできる「心の自由」を与えられている。そのなかで、悪を捨てて善を選び取る修行を通して、魂を成長させることを仏神から期待されているのだ。ところがその自由性の使い方を誤って、「心が悪く腹黒いことを考えていたり、いつもいさかいが絶えなかったり、人を騙したり、怒ってばかりいたり、人を傷つけたり、悪いことを平気でしたり、このように、主として破壊的な想念や感情で生き、周りに迷惑をかけて苦しめた人たちが、死後、天国に還れずに、地獄という所で苦しみつつ暴れている。これが悪霊の正体なのです。悪魔になると、もう少し、影響力があったり、指導力があったり、悪知恵があったりします。

 悪霊は反省して回心すれば再び人間として生まれることができるが、悪魔は長年、積極的に悪を重ねてきているので、回心させることは難しい。

参考

悪魔は何を考え、何をやろうとしているのか

1 破壊的な想念や感情で生きている人間を手先にして、世の中に争いや破壊を広げようとする。そうした人間には政治的・軍事的独裁者から暴力団の類、学校のいじめグループまで、いろいろいる。

 悪魔にそそのかされた代表はヒトラーである。ヒトラーは生前、ゲルマンの森に巣食う黒魔術系統の霊にそうとう支配されており、死後は本人も地獄の最深部で悪魔になっている。スターリンやポル・ポトなど、大勢の人間を殺した独裁者も同様に悪魔になっている。

2 思想的に間違っている一部の宗教家や思想家、学者や作家、メディア関係者などの心に入り込み、彼らの仕事を通じて間違った価値観を広め、多くの人々の人生を狂わせようとする。

 ここでの一人が哲学者ニーチェ。「神は死んだ」と唱えて無神論や宗教迫害の流れを強めた彼も、死後は悪魔となって思想面で悪影響を与えている。ニーチェの少し後に出たドイツの神秘思想家シュタイナーは「現代の悪魔は活字を通して入ってくる」と言っており、これがニーチェのことである。

3 正しい宗教的価値観を広めたり、仕事を通してユートピア社会を実現しようと努力している人々を怠けさせ、失敗させ、骨抜きにしようとする。

 真実の価値観を求め、それを実践し広めようとしている人だとしたら、悪魔にとって非常に「嫌な奴」であり、隙あらば足を引っ張りたい相手なのです。

 悪霊、悪魔は神仏のアンチテーゼとなる存在だが、そもそも彼らはなぜ存在しているのでしょうか。特に、キリスト教では、「神がこの世界を創られたならば、なぜこうした神仏に歯向かう存在を創られたのか」といった問いが繰り返されてきました。

 悪霊や悪魔は神仏が意図して創られた存在ではない。彼らは本来は神仏の子として創られた人間であった。私たちの心は自由であり、神仏と同じような思いを持つこともできれば、神仏と敵対するようなマイナスの思いを持つこともできる。神仏から与えられた「自由性」を間違って用いてしまったのが、「悪霊」「悪魔」と呼ばれる存在なのです。

 

自由と自由の相剋によって「悪」が生じる

 なぜ「悪魔」と呼ばれる存在がいるのかについて考えてみます。

 神仏がこの世をつくられたのだとしたら、神仏のアンチテーゼとなる「悪魔」が生まれるのは矛盾しているようにも思えます。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『太陽の法』で、悪の発生原因を以下のように説明しています。

「悪とは、魂そのもののなかにひそむ性質ではありません。悪とは、お互いの魂の自由と自由が相剋するところに生まれたゆがみであり、ひずみなのです。

悪とは、仏の大願成就を阻害することです。あるいは、仏から自由を与えられた者同士の相剋、お互いの自由と自由とがぶつかりあって、一定の時間、ゆがみなり、ひずみが、心の世界に、あるいは、現象世界にあらわれているものにすぎないのです」

 もし、私たちが一人だけで生活をしていたら、もしくは、全員同じように行動する機械のような存在であったなら、ひずみとしての「悪」は生まれないでしょう。

 

神仏は悪を生じることを覚悟で、自由に伴う発展を肯定された

 また、「悪霊」や「悪魔」といわれる存在は、神仏から慈悲として与えられた自由を、自らの欲望を満たすために間違って発揮し、自分と他人を傷つけてしまった存在といえます。

 宗教に触れたことのない人には、禁欲的な生活を送り、奉仕活動に打ち込むシスターや、経文読誦や禅定などの修行に打ち込む僧侶には、自由がないように見えるかもしれません。

 自らに戒律を課すことも、自由の範囲が狭まるように思うかもしれません。

 日々の生活における細かすぎる戒律を強要するイスラム教などには問題もありますが、一定の戒律は、自由の中で自らの欲望をコントロールしていくために必要なものです。

 自らの欲望や本能を放置することは、自由とは違います。過ぎた食欲や出世欲、怒り、愚痴などの感情を放置しておくと、心は常に振り回された状態となります。それはまるで、暴れ馬に乗っている騎手のようなもので、自由ではありません。

 暴れ馬を放置したら、自分も振り落とされてしまい、他人に怪我をさせてしまうこともあります。騎手が馬を導くように、自分の心を自分でコントロールできることが、本当の意味における「自由」です。「自由」をなくせば、過ちを犯すことも少なくなるでしょうが、自由の中でよりよい方向性を選び取っていく喜びを味わうことができなくなります。

 大川隆法総裁は、著書『不動心』で次のように自由の可能性を語ります。

「人間は、心のなかにどのような思いを抱くかに関して自由を与えられており、その自由を行使して、自分を変えていけるようになっています。思いの自由性というものを駆使して、人間は天使のようになることもできれば、悪魔のようになることもできるわけです」

 神仏は、「悪」を生じないようにすることよりも、過ちが生じることも覚悟で、向上や幸福感など、積極的な「善」を尊重する仕組みを作られたと言えるでしょう。

 

波長同調の法則

 悪霊、悪魔は、どのようにして私たちに影響を及ぼしてくるのでしょうか。それを理解するヒントが「波長同通の法則」です。

 心から出ている波長が似ている者同士は引き付け合い、影響し合う。そのため、彼らと似たような悪しき思いを持たなければ遠ざけることができる。

 悪魔の場合は力が強いため、神仏の教えを広げようと努力している善なる人に対しても攻撃を仕掛けてくることがある。彼らから身を守るためには、宗教修行や神仏を信じる仲間との連携が必要になってくる。

 大川隆法総裁は「人間として生きたときにかなりの悪業を積み重ね、死んで地獄に行って、千年、二千年と出てきてないようなタイプの人は、普通の悪霊とは言えず、悪魔と化している」と指摘し、彼らと戦うカギとして、「日々の精進から出てくる法力を身につける」「信仰心を高め、同じ信仰を持つ仲間で戦う」といった点を挙げました。

 悪魔や悪霊に対しては、彼らが間違っているということを知識的に教えて悟らせることである。そのためにも、私たちは仏法真理を流布する努力を日夜続ける必要がある。霊天上界においても、光の菩薩、光の指導霊たちは、日夜地獄をなくそうと努力しておられます。

 大川隆法総裁は、著書『宗教選択の時代』の中で以下のように説かれました。

「悪の問題で、宗教的に最も重要なのは、悪魔や悪霊たちをどうするかということです。彼らも、かつては地上で人間として生きていた者たちです。地上での数十年の人生を緑として、地上を去ったのち、地獄に堕ちて苦しみ、そして他の人々をも苦しめている。そうした悪魔や悪霊のなかには、人が苦しむのを喜んでいる連中が数多くいます。そうした者たちに対してとるべき態度は、いったい、いかなるものなのでしょうか。それは、悪魔や悪霊に対して、彼らが間違っているということを知識的に教えて悟らせることです。それによって、みずからの足りざるところや間違いというものを学ばせるということ、これは有効な手段です。そのために、私たちも、仏法真理の知識を流布して、迷いを取り去る努力を、日夜、続けているわけです。それも、地上の人間を、その迷いから目覚めさせ、覚醒させることにより、その人間が地獄に堕ちることを防ぐとともに、その人間を虜にしようとしている悪魔や悪霊の悪行をも、取り除こうとしているわけです。彼らは、地上の人間に憑依できなくなると、地上に対する影響力を、次第しだいに失っていきます。そして、地獄への、新しい悪霊の供給がなくなっていくと、地獄界は自然に消滅していくのです。さらに、地上を去った霊天上界においては、光の菩薩、光の指導霊といわれる偉大な霊人たちが、日夜、地獄をなくそうと努力しています。ですから、地上からの悪霊の供給を止めることは、光の指導霊たちの活動を非常に容易にすることにもなるのです。実際、地上の人間をめぐって、高級霊と悪魔が〝綱引き″をしているような場合もあります。その対象になるのは、たいてい、地上において影響力の強い人間です。そうした人間が悪魔のほうに引っ張られていくと、この世の人々に害悪を流していきます。逆に、高級霊のほうに導かれていくと、その人は、この世の人たちを光明化、幸福化する方向に人生を送ることになります。こうした綱引きが、日本各地や全世界で、毎日毎日、くり返されています。それが、高級霊と悪魔との戦いです。こうしたことを通して、地上の人間は、地上の人間なりに悩み、苦しみながら、悟りを開いていくという、魂の幸福を得ています。また、高級諸霊も、知識や方法論、説得力、情熱などを、日夜、みずから磨いているわけです。これが、天国・地獄をも含めた、悪の諸相です。」

一神教に争いが絶えない理由

神はなぜ悪の存在を許しているのか

神がいるなら、なぜこの世に悪や不条理、争いがあるのか

 「悪魔」は、残忍・残虐な行為が心の底から好きだったり、自分の権力を実現して人を恐怖で支配するのが目的で、大勢を殺したり、思想で多くを迷わせるなど、影響力の大きかった人たちのなかで結果として大きな悪を遺した人たちがなりやすい。

 大きな影響力を持っているマスコミやジャーナリストのなかで、世のためや正義の実現のためではなく、自分のため、欲望達成のためだけに仕事をしている人たちは小悪魔になる。

 人間を駄目にし、堕落させていく方向に大きな影響力を発揮した有名作家、官僚のなかで、権力欲のために生き、慈悲の心がなかった人も悪魔になる素質を持っている。大勢の人に影響を与える宗教家の中でも、邪教の指導者は悪魔になって めったに成仏することはない。

 大川隆法総裁は、著書『霊的世界のほんとうの話。』の中で以下のように説かれました。

「悪霊には、普通の人間でも、心が悪かったり、悪い行いをしたりすれば、なることができます。犯罪行為をした場合だけではなく、犯罪行為をしない場合でも、悪い想念や暗い想念を持って生きれば悪霊になります。心が悪く腹黒いことを考えていたり、いつもいさかいが絶えなかったり、人を騙したり、怒ってばかりいたり、人を傷つけたり、悪いことを平気でしたり、このように、主として破壊的な想念や感情で生き、周りに迷惑をかけて苦しめた人たちが、死後、天国に還れずに、地獄という所で苦しみつつ暴れている。これが悪霊の正体なのです。悪魔になると、もう少し、影響力があったり、指導力があったり、悪知恵があったりします。悪魔の供給源は、やはり、指導的立場にある人たちです。例えば、間違った政治家や独裁者などは非常に悪魔になりやすいのです。ポル・ポトという、カンボジアの国民を二百万人も殺して骸骨にしてしまった人は、完全に悪魔でしょう。ヒトラーやスターリンもそうですが、政治家の立場で人殺しを中心に行った人は悪魔になっています。残忍な行為、残虐な行為が心の底から好きだったり、自分の権力を実現して人を恐怖で支配することが目的で、大勢の人を殺したりした人は、悪魔になりやすいのです。それから、政治系や軍事系ではなく、思想系であっても、多くの人を迷わせた人、人々を思想的に洗脳して狂わせた人は、悪魔になります。影響力の大きかった人たちのなかで、結果として大きな悪を遺した人たちは、悪魔になりやすいのです。また、悪魔にも力の大きさがあります。現代では、マスコミの人やジャーナリストのなかにも、大きな影響力を持っている人がいますが、彼らのなかで、世の中のためや正義の実現のためではなく、自分のため、欲望達成のためだけに仕事をしている人たちは、小悪魔になります。手下が五、六人程度しかいない小さな魔王でしょうが、そのようになる人が多いのです。思想家や書き手として思想を発表している人のなかにも、そういう人がいます。小説家などでも、悪い小説を書いて大勢の人を洗脳している人、人を迷わす小説をたくさん書く人で、そちらの方面の代表格になる人もいるでしょう。この世では地獄文学はそうとう流行っているので、有名な作家でも悪魔になる人はいます。人間を駄目にし、堕落させていく方向に大きな影響力を発揮した人は、やはり、悪魔になる素質を持っています。それから、官僚のなかで、権力欲のために生き、慈悲の心がなかった人も、悪魔になります。宗教家も大勢の人に影響を与えるので、邪教の指導者は、悪魔になったりして、めったに成仏することはありません。間違った教えを説くだけではなく、大勢の人を狂わせています。しかも、この世で狂わせるばかりでなく、あの世の地獄にまで引きずり込み、あの世でも信者と共に根城をつくっています。これも、悪魔、悪鬼そのものです。人の心を狂わせることは大変な罪なのです。」

 悪魔というのは、悪霊よりも悪質で、積極的に悪をなそう、この世に悪を広げようとしている地獄霊のことである。

 幸福の科学は、「仏」をいただいた真なる救世団体である。だからこそ、悪魔はなんとか邪魔をしようと立ちはだかってきて、幸福の科学は常にこの勢力と戦い続けているのです。

 大川隆法総裁は、著書『沈黙の仏陀』の中で以下のように説かれました。

「肉体生活に基づいて、心と肉体の調和が妨げられることによって、魔が立ち現れてくるような現象に見舞われることも真実ですが、いわゆる三次元世界を超えた霊界において、魔と言われる霊的存在がいることも事実なのです。この両方が、実際はほんとうにあるのです。主体性を持って生きている人間としての自分に原因があって、魔を引き込むという現象を、「己心の魔」といいます。己れの心のなかに住んでいる魔です。要するに、自分自身の心と肉体の不調和という、魔に同通する原因が己れ自身の心のなかにあることも真実ですが、それに呼応するかたちで、まるでカンテラに相照らすかのように、外部から、すなわち四次元の霊界(地獄界と言ってもよい)から、迷いを増幅させ、悟りを開こうとしている者を迷わせ、狂わせようとする現実の勢力があることも事実なのです。私はこれを発見しました。また、通常の人間であれば、心が迷ったり苦しんだりしたときに、不成仏の死者の霊、悪霊が取り憑いてきて、その人の身体をもっと悪くさせるとか、あるいは神社仏閣巡りをしていて、狐、狸等の動物霊に憑依されるというような現象はよくありますが、仏道修行をしている人、「悟りを開こう。宗教的指導者になろう」と心がけている者のところには、「悪魔」と言われる、それ相応のものが現われてくるという現象が現実にあります。」

 宗教を信じない人からは、「神仏がすべてのものを創造し、全知全能の存在ならば、悪魔に邪魔されたりしないのでは」「そもそも、なぜ悪魔の存在を生かしておくのか。消してしまえばよいのではないか」という疑問が出てくることがあります。

 キリスト教などでは、「神仏は偉大であるから、神仏の本当のお考えは人間には分からないものである」という説明がなされることもありますが、あまり納得できる内容とは言えません。

 これについて幸福の科学では、明快に答えが示されています。それは、神仏が人間に「自由」と「個性」を与えてくださったことと関係があります。

 

「悪」の存在を知ることで「神仏の正義」「神仏の心」が見える

 「悪」が生じる理由は理解できるとしても、それでも神仏の仕事を邪魔する「失敗した魂」だけは消してしまえばいいのではないか、という意見もあるかもしれません。

 私たち人間の本質は、神仏に創られた魂であり、この世に生まれてきて魂修行をしています。もし、この世で悪を犯し、大きな失敗をすれば消されてしまうことになれば、この世での修行を躊躇する魂も出てくるかもしれません。

 「永遠の生命が与えられており、失敗しても反省してやり直すことができる」という仕組みこそ、神仏の慈悲なのです。

 さらに「悪」という存在を知ることで、「正義」や「神仏の心」が見えることがあります。

 総裁は「ザ・リバティ」2016年3月号の「未来への羅針盤」で、「魔」が存在する理由を以下のように説明しています。

「実は、魔を見て初めて「正義」が分かり、「救世」とはどういうことなのかも分かるようになるのです。

違った思想があっても良いのです。その二つの思想が戦って、正しいものが勝たなければいけないのです。それによって正義が確立し、同時に降魔も実現できるのです」

「魔が出てくるけれども、降魔を通して救世主、あるいは悟りたる者が生み出されるようになる。魔が、降魔を通して、『正義とは何か』を人々に教えることもあります」

 悪魔は、そのエネルギーを、人間の欲望や怒り、嫉妬といった悪魔と同じような念いから得ています。ですから、悪魔の存在を反面教師として、「神仏の心」や「正義」を探究していく人が増えることが、悪魔をなくしていく一番の近道といえるわけです。

 悪魔というのは、悪霊よりも悪質で、積極的に悪をなそう、この世に悪を広げようとしている地獄霊のこと。

 世界中のいろんな宗教で、共通して語り継がれているけど、悪魔は本当に実在するわけです。

 そして、幸福の科学は、「仏」をいただいた、真なる救世団体であるのだけれど、だからこそ悪魔は、なんとか邪魔をしようと立ちはだかってきて、幸福の科学は常にこの勢力と戦い続けている。

 

悪魔と同通しないために

 悪魔や魔王の本質は、積極的に悪を肯定しているということ。

 幸福の科学では、この悪魔の心と正反対の考え方、つまり、「明るく積極的で建設的な心を持つこと」「愛の心、利他の心を持つこと」「人に対して親切にし、人を許す心を持つこと」を教えている。

 こうした心を持っていると、悪魔や魔王たちとは「波長同通の法則」が働かず、憑かれたりしなくなる。

 大川隆法総裁は、著書『エクソシスト入門 実録・悪魔との対話』の中で以下のように説かれました。

「この世においても、放置すると悪いことをし始める者がいるため、警察が一生懸命に警備をしていますが、あの世においても、天使や菩薩という、ある意味で警察官に当たる者たちの目が届かないところで、悪霊のさらに進化した悪魔や魔王、あるいは大魔王と言われるような者たちが、悪いことをしています。こうした、悪霊の強力化した存在である、悪魔や魔王の本質とは何かというと、それは、「積極的に悪を肯定している」ということです。彼らは、思想的に悪を肯定し、人を不幸にすることを喜びとしています。そのような気持ちを持っているのです。悪魔や魔王が地上の人間に取り憑いた場合、その人が口癖のように言い出すことがあります。自分の意識がしっかりしているうちは、すぐ、「死にたい、死にたい」と言い出します。一方、自分の意識があまりしっかりしていない場合には、「死ね、死ね」という声や、「殺してやる」という声が聞こえてくるようになります。だいたい、これは共通しています。そして、ふと気がつくと、断崖絶壁の際に立っていたり、首を吊るロープを準備していたり、刃物で自分の体を傷つけていたりするようなことが起きます。今、十代ぐらいの若い人には、リストカットなどをする人が数多くいますが、小悪魔程度の者に憑かれている可能性はあります。ただ、常識的な頭で考えてみれば、「死ね、死ね」と言ったり、「殺してやる」と言ったりする者が、天上界の存在でないことぐらいは分かるはずです。一般的な不成仏霊の場合は、自分が救われることを願うのですが、「当分は地獄から出られない」ということが、はっきり分かってきた者になると、今度は、仲間を増やすほうに行き始めるのです。例えば、受験で言えば、自分が合格できないと分かったときに、「不合格者が多いほど、気持ちがすっきりする」というようなものです。「あの人も落ちたか。この人も落ちたか」ということになると、ある程度すっきりするような心が、誰にでもあります。幸福の科学では、これと正反対の考え方を説いています。「明るく積極的で建設的な心を持ちましょう。愛の心、利他の心を持ちましょう。人に対して親切にしましょう。人を許す心を持ちましょう」ということを教えていますが、実は、これらは全部、地獄霊や悪魔の心と正反対のものなのです。こうした心を持っていると、そういう地獄の者たちとは、水と油のように同調しなくなってきます。つまり、「波長同通の法則」が働かないようにするために、正反対のものを打ち出して教え、行動するように勧めているわけです。そういう教えに護られていると、彼ら地獄の者たちとは同通しなくなってくるのです。したがって、心して、「自分の考えが、暗い、ジメジメしたものになっていないかどうか」を考えなければいけません。」

 

悪魔の正体と見破り方

 キリスト教や仏教でも、悪魔が救世主を惑わすエピソードには事欠かない。

 宗教では、「悪魔」は現実に存在するものであり、人間を不幸にするものと教えている。

 大きな事件を起こすところまではいかなくても、私たちの身近にも悪魔の影響ではないかと感じる出来事はある。たとえば、突然人格が変わって狂ったように暴れ出す人、子供を虐待していたが、突然我に返って自分の行いを悔いる親などは、単に「感情の起伏が激しい」というだけでは説明がつかない。

 このような悪魔との戦いは宗教にとって重要なテーマであり、目に見えない悪しき影響から人々を守ることが、宗教の役割のひとつであり、信頼の源でもあった。とはいえ、最近の宗教はこうした問題に対処できなくなっており、あろうことか、あの世の存在まで疑っている状況にある。

 悪魔の発生源は、人間の本性に原因のひとつがあると説く。各自に与えられた自由性は価値観の対立をも生む。だが、人間から自由を奪ってしまえば、幸福になるチャンスをも失う。

 そうであるならば、それぞれが「神様の願い」を知り、悪魔が嫌う心のあり方、生き方を実践することが大切となる。

 謙虚さや感謝、他者への祝福の心がある。また、盲点となりがちだが、体調管理や仕事能力の向上も、悪魔の影響を受けないために大切なポイントである。

 大川隆法総裁は、悪魔が入ってくる入り口として、嫉妬心、霊やあの世を否定を認めない「邪見」、うぬぼれ、自我の強さ、謙虚さのなさ、強欲、愚痴、自己保存が強い怠け心などを例として挙げています。悪魔に取り憑かれるタイプの人は、自分を反省することはなく、利己心と他罰的な念いが非常に強い傾向があります。この世には執着になるようなものがたくさんあります。しかし、家も財産も親も子供も、いずれ別れなければならない時が来て、自分ひとりであの世に旅立つ時期が来ます。船が沈みかかるときは、どんなに価値ある積み荷でも最後は捨ててください。裸一貫になって、信仰心だけを持ってあの世に還る覚悟を固めれば、いかなるものもあなたがたを支配することはできなくなります。悪魔の活動の本質は破壊です。人の不幸や世の中の価値あるものを崩壊させることに喜びを感じている、人間として最低の心境です。そういう風にはなりたくありません。未来に向かって世界を平和に幸福にしていきたいということを、心に強く願ってください。悪魔が来ているとみたら信仰心で戦うことです。どうか教団の中心部から霊流を引いてください。

 「信仰心がかちっと立っている場合は、エクソシストは成功して、悪魔は取れます。」と、悪魔の正体と悪魔から身を守る方法について説かれました。

 悪魔は、長い年月、地獄にいて、さまざまな宗教に入って惑わしてきた者なので、宗教についてものすごくよく知っており、演技で嘘をつくし、積極的に妨害するつもりで狙っている。

 こちらに慢心があると、嘘を見抜けず、完全に騙されてしまう。

 その説得は本当に難しいので、積極的にかかわることは勧めない。かかわらないのがいちばんである。

 大川隆法総裁は、『エクソシスト入門 実録・悪魔との対話』で以下のように説かれました。

「通常の不成仏霊の場合は、説得が可能です。一時間ぐらいでは、なかなか分からないことも多いのですが、説得すると少しずつ分かってきます。しかし、悪魔のたぐいになると難しいのです。悪魔というのは、千年、二千年、あるいは、それ以上の長い年月、地獄にいて、歴史上のさまざまな宗教に入って惑わしてきた者なので、宗教について、ものすごくよく知っています。そのため、説得されて分かったようなふりをしたり、恭順の意を表したり、「弟子にしてくれ」と言ったり、涙を流したりすることもありますが、彼らは、演技で嘘をつくことができるのです。こちらに慢心があると、嘘を見抜けず、完全に騙されてしまいます。  彼らは、態度がコロッと変わって、そのときだけ、説得されたように見せますが、実は、まったく改心などしていません。積極的に妨害するつもりで狙っているのです。悪魔のたぐいを説得することは本当に難しいので、悪魔とは、あまり積極的にかかわることは勧めません。かかわらないのがいちばんです。悪魔はヤクザや暴力団と同じです。例えば、この世でも、「○○組の本部に乗り込んでいって、彼らを説教する」などと言ったら、普通の人は、「やめておいたほうがよい」と言うでしょう。「いや、おれは、空手、柔道、剣道を合わせて十段だから、大丈夫だ」と言って乗り込んでいっても、生きて出てこられる可能性は低いので、好んで行くようなものではありません。やはり、“敵地”には、それなりに厳しいものがあります。  悟りのよすが、悟りのチャンスが与えられた者を一人ひとり救っていくことは比較的易しいのですが、敵地で相手を丸ごと折伏するのは、そう簡単なことではないのです。」

「己心の魔」に克って人生と仕事に勝利する

悪魔が嫌う3つの生き方

 自分の存在を隠して人間を惑わすのが彼らの手口。ゆえに、「これは悪魔の仕業だ」と見破ることが彼らに勝つ第一歩である。

 釈尊は、身・言葉・心の三つをよく自制することの大切さを挙げている。彼らの罠に引っかからないためのポイントを組み合わせると次の通りとなる。

1 言葉  嘘をつかず「正直」に

「正直で嘘をつかずに生きている人は、ちょうど、よく磨いた鏡のようなものです。悪魔は、そういう人の近くに寄っていくと、その鏡の表面に自分の醜い姿が映るので、とても嫌な感じがするわけです。悪魔は、その反対の人、すなわち、嘘をついたり、騙したり、ごまかしたりするタイプの人間がとても好きです。そういう人となら友達になれるのです。したがって、悪魔と手を切りたければ、まず、嘘のない正直な生き方を目指すことです。もし、嘘をついたり、自分を騙したり、人を騙したりするような生き方をしたときには、そのつど丁寧に反省することです」

2 身 怠け心を戒め「勤勉に努力」を

「悪魔は、勤勉な人が嫌いです。まじめに努力する人、人が見ていようと見ていまいと、こつこつと努力する人、そういう人が嫌いなのです。そういう勤勉な人は、『仏神から頂いた自分の一生を大事にしよう』としている人でもあるわけです。『何か、うまいことをやって、サボれないか』と思っている人に対しては、悪魔は簡単に罠を仕掛けられます。『酔生夢死の人生を送っている人』と言ってもよいですが、みずからの人生を無駄にし、駄目にする人、サボる人、こういう人は、悪魔の友達に近いと見てよいでしょう」

3 心 「明るく積極的な考え方

「三番目は何かというと、明るく積極的な考え方をする人、どのような苦難や困難のなかにおいても自分の可能性を見つけ出そうとする人です。そういう心の傾向性を持つ人、常にそういう考え方をする人を、悪魔は嫌います。

 悪魔は、暗くて、じめじめした人が好きなのです。悲観的で、『自分は駄目なのだ。自分の前途は真っ暗で、自分には、もう可能性はないのだ』と愚痴を言う人と、仲間になりたいのです。どのような材料のなか、どのような環境のなかにあっても、きらりと光る人生を生きることが、とてもとても大事なのです」

(「悪魔の嫌うこと」より)

 三つとも単純なことだが、どんなときも実践するのはそう簡単ではない。逆にこの三つをいつも心がけていれば、人生の安定感や仕事の実力はアップすること間違いなしでしょう。

 「己心の魔」という言葉がある。心のなかに魔を呼び込む思いがあると、外なる魔を手引きするという意味だ。私たちが自分の心によく気をつけ、悪魔の好きなマイナスの思いを去ってプラスの思いを出していくと、蚊取り線香の煙を嫌う蚊のように、彼らは寄ってこなくなる。

 自分や他人に嘘をつきたい誘惑、怠けたい気持ち、悲観的な気分などが湧いてきたら、「悪魔のささやきには乗るものか」と思って自分の心の弱さに打ち克ち、心のなかの悪魔に勝とう。

 

魔に勝つための武器  智慧の言葉と信仰心

 上記3ポイント以外にも、悪魔は私たちの「欲望」「慢心」「真理や仲間を疑う心」などに乗じてくることが多い。

・過ぎた欲望を統御する

「まず恐れというものをなくさねばならない。

 自分の心は自分の手に負えぬものだと思ってはならない。

 自分が自分ではないような、まったく魔に踊らされ、魔に自由にされるような、そんな自分であると思ってはいけない。

 自分は必ず、自分の心を統御できると思わなくてはならない。」

・自らの慢心を戒める

「自分が都合のいいように、このようにありたいと思うと、悪魔がそこに来りて、あなたがたに都合のよいことを囁いてゆく。

 そして、それを信じるようになると、次第に真実の法というものから遠ざかるようになってくるのだ。」

・猜疑心への警告

「疑いのなかに広がるものは悪魔の領域である。

 悪魔はいつの時代も、人びとの疑いのなかに入り込む。

 人びとの疑いのなかに入って、お互いの意見を合わなくさせる。

 お互いにわけのわからないことを言わせ、仲たがいをさせ、そして、引き裂いてゆく。」

(『仏陀再誕』より)

 

悪魔から逃れる方法

 信仰心によって悪魔から身を守る

 「悪」の心は、人間に与えられた自由に根ざしたものであり、100%なくすことは難しいことです。それならば、少しでも悪魔の領域を広げないように努力することが大事です。

 そのために、一番有効なことは何でしょうか。

 それが神仏への信仰です。信仰を持つことによって、神仏とつながることができます。

 悪魔は神仏の仕事を積極的に邪魔してきますが、神仏と対等に戦えるような存在ではありません。

 悪魔は神仏にかなわないことを知っているので、悪魔の仲間に引き入れたい人をそそのかし、信仰心を失わせようとします。信仰心を失えば神仏や信仰ある人たちの仲間から孤立するため、狙いやすくなるからです。

 また、神仏への信仰を持つことで、神仏に近づいていきたいという志を立てることができます。

 志を立て、謙虚に精進をし続けること自体が、悪魔から身を守ることにもつながるのです。

 神仏を信じ、その正義を知ることで、その反対にある「悪」もよりはっきりと見えてきますが、「悪」を恐れすぎる必要はありません。神仏への信仰を手放すことなく、すべてを糧として精進していくことが、私たちの魂を成長させていく道なのです。

 悪魔とは、人や社会を積極的に悪い方向に導こうとする霊的な存在である。例えば、銃乱射やテロなどで多くの人が亡くなるなど、悲劇性と話題性が大きくなる事件の場合、犯人は悪魔の影響を受けている可能性が極めて高い。

 悪魔が影響を与えやすいのは、人に対する憎しみや恨みを持つ人、排撃性や排他性を示す人、執着心や名誉心が強い人であり、唯物論的に「この世がすべて」と思っている人である。

 最も大切なのは、一人でも多くの人が「悪魔から身を守る方法」を学ぶことです。

 大川隆法総裁は、著書『悪魔からの防衛術』の中で、次の4つの方法を示している。

生活を正し、日々、精進すること

食事や運動、睡眠をコントロールし、体力をつけること

情報の取捨選択をしつつ、新しいことを勉強し続けること

仕事上の問題を解決すること

 「世のため、人のために生きよう」という思いを持って、勤勉に日々の生活を送ることが、悪魔を遠ざけ、悲劇を防ぐことにもつながる。その意味では、宗教で「人としての正しい生き方」を学び、その教えを広げることは、公益性のある活動と言える。

 

悪魔に打ち勝つ

 悪魔は、ただただ、ふっ飛ばすこと。

 悪魔とは、光の勢力が手をつないで、共同で戦うこと。

 ただし、悪魔祓いは、個人で行なうよりは、幸福の科学の支部や精舎など、霊的磁場のできている場所で、専門家である修行を積んだプロの導師が行うのがよい。

 大川隆法総裁は、『霊的世界のほんとうの話。』で以下のように説かれました。

「悪魔は、千年も二千年も三千年も、あの世(地獄)にいるので、説得されて天国へ上がることは、ほとんどありません。悪魔が憑いていて、変なことを語る人もいるでしょうが、その人に憑いている悪魔を説得しようとしても無駄であり、悪魔は、うまくごまかして相手を引っかけようとします。泣いて慈悲を乞うたり、「助けてください」「心を入れ替えました」「弟子にしてください」などと言い出したりしますが、それは嘘なので聴いてはいけません。悪魔は、涙を流すぐらいのことは平気でするのです。悪魔とは交渉をしてはいけません。ただただ、ふっ飛ばすことです。「これ以上の悪は許すまじ。悪を広げてはならない」という強い念で、ばっさりと切ることです。死んでまもない迷っている霊の場合は、説得して天国に上げることができますが、そういうかたちでは悪魔は上がりません。それだけの悪を行ってきているからです。そのため、悪魔に対しては、それ以上の悪を犯させないことが大事なのです。  悪魔自体をすぐになくすことはできないので、私は、「光の領域を増やし、悪魔を包囲していく」という方針を採っています。「あちこちに光の牙城、拠点をつくり、悪魔を包囲して、しだいに彼らのすみかを狭めていく」というかたちをとっているのです。これは長い戦いですが、悪魔も数が多いので、教団自体の勢力が大きくなっていかないかぎり、単に戦うだけでは勝てません。ただ、悪魔というだけあって、彼らは協力し合うことがないのです。これが、いちばんありがたいことです。悪魔たちが協力し合い、一体となって大勢で出てこられたら大変ですが、彼らの戦いは個人戦なのです。「これは、ほんとうにありがたいことだ」と感謝しています。地獄の悪魔が総結集すると、何百人いるか、何千人いるか、分からないぐらいの数になるので、一緒になって攻めてこられたら大変です。しかし、彼らは、仲間同士でけんかになるので、一緒に行動することはできないのです。そのため、必ず個人で来ます。悪魔は、互いに協力し合い、手を携えて行動することはなく、みな勝手に個人で動いているのです。悪魔と戦うには、光の勢力が共同戦線を張り、手をつないで共同で戦うことが大事です。個人的な関心や、そのときの状況によって、それに合った悪魔が出てくるのですが、悪魔は、攻撃がばらばらで、組織立っていません。だからこそ、こちらが組織で戦えば勝てるのです。ただ、悪魔祓いは、幸福の科学の支部や精舎等、霊的磁場のできている場所で、修行を積んだプロの導師が行うのが、いちばん効果があります。当会の信者であっても、相手が強く、こちらの霊力が足りないと、負けてしまうこともあるので、個人で行うよりは、できれば、霊的磁場のある当会の霊場で、専門家に行ってもらったほうがよいのです。」

 

悪魔祓いの秘法

大川隆法総裁は、『霊的世界のほんとうの話。』で以下のように説かれました。

「幸福の科学には、悪魔祓いの秘法の一つとして、「エル・カンターレ ファイト」という修法が下賜されています。  この「エル・カンターレ ファイト」は、行っている人に、信仰心があり、「エル・カンターレの光で行っている」という気持ちがあれば、本尊、すなわちエル・カンターレ本体のほうから霊力が出ています。「エル・カンターレの光で行っている」と思うと、悪魔の側からすれば、敵はエル・カンターレになります。このように、天上界と一体になった、組織での戦いがあります。」

 

悪魔の影響を断ち切る宗教の役割

 宗教では、「悪魔」は現実に存在するものであり、人間を不幸にするものと教えている。キリスト教や仏教でも、悪魔が救世主を惑わすエピソードには事欠かない。

 今では正式な役職名ではないが、キリスト教会では「エクソシスト」という悪魔祓い専門の聖職者がいた。

 こうした教えが連綿と説かれてきたことを見ても、悪魔という目に見えない存在を想定し、その対処法を考えたほうが建設的ではないか。

 実際、大きな事件を起こすところまではいかなくても、私たちの身近にも悪魔の影響ではないかと感じる出来事はある。

 たとえば、突然人格が変わって狂ったように暴れ出す人、子供を虐待していたが、突然我に返って自分の行いを悔いる親などは、単に「感情の起伏が激しい」というだけでは説明がつかない。

 このような悪魔との戦いは宗教にとって重要なテーマであり、目に見えない悪しき影響から人々を守ることが、宗教の役割のひとつであり、信頼の源でもあった。

 とはいえ、最近の宗教はこうした問題に対処できなくなっており、あろうことか、あの世の存在まで疑っている状況にある。

 この「悪魔」という存在は、どのような生態を持ち、どんな行動をしているのか、またそうした存在から悪しき影響を受けないためにはどんな心構えが必要なのか。こうしたテーマについて、体系的に説かれた書籍が発刊された。それが大川隆法総裁の『悪魔からの防衛術 「リアル・エクソシズム」入門』である。

 本書は、悪魔の発生源は、人間の本性に原因のひとつがあると説く。各自に与えられた自由性は価値観の対立をも生む。だが、人間から自由を奪ってしまえば、幸福になるチャンスをも失う。

 そうであるならば、それぞれが「神様の願い」を知り、悪魔が嫌う心のあり方、生き方を実践することが大切となる。

 具体的には謙虚さや感謝、他者への祝福の心がある。また、盲点となりがちだが、体調管理や仕事能力の向上も、悪魔の影響を受けないために大切なポイントだという。

 「いつもイライラする」「同僚への嫉妬や憎しみが止まらない」「憂鬱な気持ちにとらわれ、調子が悪い」という人は本書を読んで実践することで、晴れやかな心を取り戻すことが出来る。

 悪魔たちから身を守る方法の基本は、いたずらに近づかず、縁をつけないこと。

 天上界の波動に心を合わせること。

 信仰心を絶対に手離さないこと。

 大川隆法総裁は、『エクソシスト概論』で以下のように説かれました。

「1981年3月に大悟して、神秘の道に入ってから、かれこれ三十三~四年になる。悪魔祓い、悪霊祓い、生霊祓いまでいれると、いわゆるエクソシスト体験は、五千回は優に超えているだろう。私が相手しても手こずったことはあるが、負けたことは一度もない。しかし、悪魔に取り憑かれた人の魂が向こう側に同通しすぎているために、あちら側の世界に本人が引きずり込まれていった実例は何度かある。また、千年、二千年を超える悪魔になってくると、地獄の住人の信仰心を集めている手強いものもいて、追い出すことはできても、成仏させることはそう簡単ではない場合も多い。悪魔たちから身を守る方法の基本は、いたずらに近づかず、縁をつけず、天上界の波動に心を合わせることだ。人生のつまずきの原因が、悟りのよすがに昇華していくことも数多いことを知り、信仰心を絶対に手離さないことが大切だ。」

 大切なことは、悪魔に翻弄された者によって、善意なる人たちが穢されないこと。信仰心は、私たちを守る青銅の扉となり、私たちを支える鉄の柱ともなり、嵐の日に私たち支えるマストともなるのである。

 大川隆法総裁は、『宗教選択の時代』で以下のように説かれました。

「しかし、ここで、ぜひとも述べておかねばならないことがあります。それは、先ほども述べたように、悪魔の暗躍というものが現実にある、ということです。このことは、私の著書で、くり返しくり返し説いていることです。決して、フィクションでも昔話でもありません。現在ただいま、悪魔は暗躍しています。しかも現代の悪魔は巧妙であって、思想的な方向からも入ってきて、思想において人々を狂わせるということをします。無神論や唯物論を説いたり、真実とは正反対のことを発表したり、正しい宗教を迫害し、仏敵として行動したりするところも現われてきます。さらには、みずからには信仰心がないことをよいことに、他の人間の信仰心を揺さぶる人間が出てきます。そこに悪魔が入り込んで、それを増幅させます。不信感、「疑」の心を増幅して、ユートピア建設のために生きている人たちを、撹乱、妨害するような人も出てきます。悪魔の手段は、いつも「疑」と「失望」です。こういうところに入ってきます。本人が失望したところに入ってくる。あるいは、疑っているところを拡大していく。そういうことをします。大勢の人間がいればいるほど、いろいろなところで矛盾が出てきますから、その矛盾をついて摸乱したり、あるいは、弱いところにつけこんできて揺さぶりをかけたりします。これが悪魔の常套手段です。しかし、善意なる人たちには、この悪魔から逃れる方法があります。それは、信仰心を確立するということです。悪魔に翻弄されている人の顔を見てください。その人の言動を見てください。他人の悪口しか言わない。猫疑心でしか人を見ない。嫉妬心でしか考えない。やっかみ、愚痴、不平不満、そのようなことばかりをやっています。そして、信仰を失った結果、奈落の底に落ちます。死んでから地獄に堕ちるのではなく、生きているうちに、すでに地獄を体験します。その人自身の人生観が、その考え方が、すでに悪魔的なものとなってきます。ですから、大切なことは、悪魔に翻弄された者によって、善意なる人たちが穢(けが)されないことであろうと思います。信仰心は、みなさんを守る青銅の扉となるでしょう。みなさんを支える鉄の柱ともなるでしょう。嵐の日に、みなさんを支えるマストともなるでしょう。」

 

最大の武器は「信仰心」

 自分の心を正しくコントロールすれば彼らから身を守れるといっても、なかなかそれができないこともあるのが人間です。また、万一、力の強い悪魔に狙われた場合は、一般市民が暴力団と戦うようなもので、一人では勝ち目がない。だからこそ、仏神を信じる仲間に加わり、信仰によって仏神と一体となって戦うことが何より大切です。

「悪魔と戦うには、光の勢力が共同戦線を張り、手をつないで共同で戦うことが大事です」(『霊的世界のほんとうの話。』)

 また、異常性のある人格変化や幻聴・幻視、体を支配されるなどの現象が起きていて、強度の憑依が疑われる場合は、専門家の力を借りたほうがよい。

「悪魔祓いは、幸福の科学の支部や精舎等、霊的磁場のできている場所で、修行を積んだプロの導師が行うのが、いちばん効果があります。当会の信者であっても、相手が強く、こちらの霊力が足りないと、負けてしまうこともあるので、個人で行うよりは、できれば、霊的磁場のある当会の霊場で、専門家に行ってもらったほうがよいのです」

 宗教的観点から見れば、すべては永遠の転生輪廻のなかで、私たちの魂修行や霊的進化のために与えられている学びの材料なのです。仏神を強く信じて、己れの心の弱さに克ち、悪を押しとどめ、善を推し進めていくことです。

 

執着を断つ

 霊界と同通するようになったときに、特に大切なのが、執着を断つこと。信仰で仲間とつながっていること。

 悪霊から日夜おどかされているという感じが強くなったならば、霊的なものをいったん切って、実社会のなかに生きている人間としての裸の自分を、見つめ直し、自己を再確立することです。

 大川隆法総裁は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』で以下のように説かれました。

「みなさんのなかには、今後、潜在意識層が開け、霊界と同通する人もいるでしょうが、これは大変なことですから、心してください。霊界と同通していないときには、一時的な迷いや悩みですんだものが、霊界と同通してしまうと、いろいろなものが直通で入ってくるようになります。これはだれにとっても同じです。「一念三千論」のとおり、念いの方向に全部同通します。天上界という一定方向しか向かないということはなく、念いに応じたすべての方向に必ず向きます。したがって、いつも自分の心が調和されていなければなりません。そうでなければ危険なのです。心の針を常に天上界に向けるためには、執着を断つことが非常に大切です。執着を断つという修行は、道徳的に素晴らしいことだから説かれているのではありません。潜在意識層が開いてきたときには、執着を持っているとほんとうに危ないのです。ほんの小さな隙に、魔がポーンと入ってきます。魔の世界は凶暴な世界です。立場が高くなればなるほど、仕事が重くなればなるほど、ねらわれやすくなります。意図的にねらってくるので、「自分だけが偉い」というような思いを持つと、どうしようもありません。菩薩程度の魂では、悪魔の類が意図的にねらってくると、ひとりでは勝てないのです。そうしたときには仲間が大事です。信仰で仲間とつながっていることが最も大切なのです。また、信仰心があると、仏とも一直線でつながっています。そのため、悪魔の側も、その人と戦うのではなく、仏と戦わなければならないのです。したがって、悪魔たちは一生懸命、信仰心を切る方向に動いてきます。疑いを持たせ、利害のところで混乱を起こし、甘い言葉をささやいてきます。たとえば、「おまえは不利に扱われた。おまえはほんとうはもっと偉い人間なのに、正当に扱われていない。おかしいではないか」とささやいて、信仰心のところを切りにかかります。これが現代まで続いている問題です。非常に厳しい問題ですが、これにどうしても勝たなくてはなりません。そのためには、こだわりを捨てることが重要です。「自分はこれにこだわりすぎているな」と思ったときには、思いを切り替え、穏やかでとらわれのない心に持っていくことです。「さっぱりした性格になる」ということが強みなのです。また、霊的世界に踏み込んで、いろいろと現象が起きたり、悪霊から日夜おどかされているという感じが強くなったならば、霊的なものをいったん切るのです。そして、人間としての自分、裸の自分、実社会のなかに生きている自分を、もう一度、見つめ直し、自己を再確立することです。善良な市民として、まわりの人から、「この人がいてくれてよかった」「一緒に生活していてうれしい」と言われるような自分かどうかを振り返ることです。  これが個人としての最後の点検になります。この点検ができるだけで、悪霊から自分を守れます。」

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