ギリシャ的愛

 愛には、キリスト教的な愛以外にも、ギリシャ的な愛がある。

 ギリシャ的愛とは、愛のなかに美があり、愛のなかに知があるというものです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『愛から祈りへ』で以下のように説かれました。

「いまから四千年あまり前、ギリシャの地に「ヘルメス」という光の大指導霊が出たことがあります。このヘルメスは、『ギリシャ神話』ではゼウスの子供とされていますが、実は、ゼウスより数百年も前にギリシャの地に降り、法を説いた実在の人物だったのです。  ヘルメスが説いたのは主として「愛」でした。私の記憶の底には、かつてギリシャに生きた記憶があります。その時に説いた教えの記憶もあります。かつて説いた教えを、こうしたかたちで、現代の日本において復活させることができることを、とてもうれしく思います。したがって、本書で説かれる愛は、決してキリスト教的なる愛ではありません。それはギリシャ的なる愛なのです。四千年以上の昔から、ゼウスの時代を経て流れてきたギリシャ的愛の精神。それほどのようなものかを、私はお伝えしたいのです。ギリシャ的愛の精神とは、単に人を愛するということのみではなく、愛のなかに美があり、愛のなかに知があるというものでした。現在、愛を美や知と一緒に考える人はいないだろうと思いますが、ギリシャ的な意識や教え、光のなかでは、愛はすなわち美であり、また、愛はすなわち知でもあったのです。知ることは愛することであり、美しいことは同時に愛でもある。愛のなかには、すべてのよきものがふくまれる。それがギリシャ的なる愛の精神だったのです。こうした愛の精神が、ゼウスの時代には明朗なる人間性の解放へとつながり、それはアポロンに受け継がれました。また、時代が下り、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが出たときにも、知を愛するという意味での「愛知者」が数多く出たのです。ギリシャの精神とは、ひと言でいうと、「愛のなかに美と知がある」「愛のなかに美と知が内包されている」ということです。「美しさのない愛、また、知的側面のない愛は、ほんとうの愛とは言えない」というのが、ギリシャ的愛の精神なのです。もちろん、単なる男女の愛を、ギリシャ的愛のなかにふくむこともあります。しかしながら、美しさという基準で見た時、男女の衝動的な愛は許されないものとなるでしょう。また、知という側面から見た時には、智慧のない愛、盲愛や溺愛は許されないでしょう。  ゆえに、真の愛の精神とは善そのものでもあり、すべての世界をよきものとしていかんとする力でもあるのです。「愛は叡智の別名でもある」ということを知っていただきたいと思います。」

 

愛から祈りへ

「愛を得るために祈ったとして、それがいかほど魂のプラスになりましょうや。何かを与えられるために祈ったとして、それを主がどれほど喜びましょうや。もちろん、主は「すべてのものを与えたい」と思っていますから、そうした祈りに対しても応えはあるでしょう。また、道が開かれることもあるでしょう。しかし、「祈りから愛へ」というプロセスは、極端な他力以外の何ものでもないと言えます。そこには、人間を向上させるプロセスがふくまれていないからです。むしろ逆であって、「祈りから愛へ」ではなく、「愛から祈りへ」というプロセスこそが大切なのではないかと私は思うのです。  この「愛から祈りへ」というプロセスは、結局、こういうことなのです。まず、愛を実践してみせること。思いや行ないにおいて、愛を実践してみせること。愛の種をまき、それに水をやり、育て、刈り入れるという行為を、まず、みずから実践してみせること。これは一つの自力でもありましょう。自力行としての愛の実践を行ないながら、しかして祈りへと歩んでいくことが大事だと言っているのです。つまり、「みずから、やれるだけのことをやり、果たせるだけの使命を果たし、それでなお祈ることあらば祈ってみよ」ということなのです。そうであれば、主の御心にかなうことでしょう。しかし、みずからがまずやるべきこともやらずに、祈りばかりしていて、いったい何が解決するというのでしょうか。「きょうの食事を与え給え」と祈るかわりに、しっかりと働くことです。働く者には糧が与えられるでしょう。それと同じように、主の統べる国において、霊の世界において、しっかり働くということは、すなわち、愛の実践行為に生きるということなのです。愛の実践行為に生きて初めて、そこに日々の感謝が生まれ、日々の感謝が報恩のための祈りを生んでいくのです。そして、その報恩のための祈りは、さらに高度な自己実現をもたらすための指針を下してくれるようになります。すなわち、「愛から祈りへ、祈りから自己実現へ」 このプロセスこそが大切なのです。愛を実践することにおいて、心の喜びを得、感謝する。主に感謝の祈りを捧げる。報恩の祈りをなす。そうすることによって、一生懸命に生きている毎日が、さらに高度なものとなるように、その祈りに対する応えが与えられるのです。その結果、みなさんの人生には、幸福になるしかないという「幸福の循環」が始まっていきます。あるいは、「成長の循環」「幸福の拡大再生産」が始まっていくのです。」

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