「仏陀」と「ヘルメス」

 幸福の科学大川隆法総裁は、過去世にて、2600年前のインドで「仏陀」(お釈迦さま)として教えを説かれた。

 そして、それだけではなく、4000年以上前のギリシャでは、「ヘルメス」としても教えを説かれた。

 このヘルメス神の繁栄・発展の教えと、その霊天上界からの指導によって、古代ギリシャから流れ出した西洋文明が創られてきた。

 大川隆法総裁は、『愛から祈りへ』で以下のように説かれました。

「現代では、ヘルメスはギリシャのオリンポス十二神の一人であり、芸術や文学の神であるとともに、富と繁栄の神でもあると言われています。私は、大川隆法という表面意識、地上に出ている人間としての意識だけがすべてなのではありません。表面意識の奥には潜在意識といわれる部分があります。そして、潜在意識の部分は実在世界に存在しており、個性を持っています。  実は、私の潜在意識のなかに、このヘルメスの部分があるのです。それを「部分」と呼ぶのは語弊があるとすれば、「一つの記憶」といってもよいでしょう。かつてギリシャの地に生まれ、ヘルメスとして生きた時の記憶、その個性としての記憶が、現在ただいまも生きている人のごとく、私に語りかけてくることができるのです。人間の本質がいかなるものかを認識するうえで、これは非常に大事なことです。結局、人間の魂は一つの手のようなものなのです。手は手のひらと五本の指でできており、そのなかで、人差し指は人差し指、小指は小指としての分かれた意識があります。しかし、全体としては、手という統一概念で結ばれているのです。同じように、私には霊的世界にいくつかの個性があり、それぞれは互いにつながっていて、一つの霊体をつくっているのです。かつてギリシャに生まれたヘルメスは、実は私の潜在意識の一部なのです。そのため、その記憶を出してきて、その個性で語ることが可能であり、本書では、そうしたヘルメス部分の証明もかねて、さまざまな話をしているのです。実在界において、ヘルメスはおもに二つの役割を果たしています。 つは、繁栄、発展をつかさどる役割です。ギリシャにおけるヘルメスの繁栄が、現在まで西洋文明の繁栄を創ってきたという事実があるのです。  ギリシャに端を発した西洋文明が、あれほどまでに繁栄したのは、その背後で、ヘルメスがバックアップを続けていたからです。  ヘルメスのもう一つの役割は芸術的な部分です。ヘルメスは文学や絵画といった芸術系統の指導もしてきました。そのなかでも、愛が一つの核になっています。この愛には、キリスト教的な愛とは多少違った部分があることは、すでに述べたとおりです。ヘルメスの愛の概念は美と知を両面に備えているものなのです。ただ、いまから二千年近い昔に、イエスがイスラエルの地に肉体を持ち、法を説いた時には、イエスの説く愛の教えを、ヘルメスの意識が霊的にかなり指導していたという事実があります。それが真実の姿なのです。  このように、ヘルメスの意識は芸術と富という極めて感性的な部分をつかさどっていますが、おもしろいことに、これと対極と思われる部分、すなわち、知の部分、悟りの部分、哲学的な部分をつかさどっている仏陀意識も、同じ霊的生命体のなかにあるのです。こうした両面を持ちながら、全体としてのバランスをとっていると言えましょうか。」
 

「愛は風の如く」

 吹き渡る温かい風は、どこからともなく吹いてきて、どこへともなく吹き抜けていく。

 透明な風は、さわやかな風は、仏の無限の愛に似ている。

 「愛は風の如く」という言葉には、大川隆法総裁の強い 念い が込められている。

 総裁は、『愛の原点』で以下のように説かれました。

「愛についても、私は数多く語ってきました。私は愛という言葉がとても好きです。幾つもの法、数多くの教えをみなさんに説いていますが、「ただ一つの教えを取れ」と言われたら、私は躊躇(ちゅうちょ)なく答えます。「それは、愛の教えである」と。私がこの地上に下りてきたのも、この地上に下りて、みなさんと共に生きているのも、みなさんに法を説いているのも、この愛ゆえにです。仏は愛であり、その愛を私はみなさんに分け与えていきたいと思うのです。ほんとうは、仏の愛を待っている人が全国各地にいるのです。一億二千五百万人が待っているのです。あるいは、世界六十億人が仏の愛を待っているのです。いま、こうした時代に私は生をうけ、生きています。そして、仏からのプレゼントを、できうるならば一人でも多くの人に手渡したいと思います。一人でも多くの人の靴下のなかに入れて歩きたいと思います。しかし、袋に入るプレゼントの数は知れています。それが、サンタクロースのいちばんの悲しみです。無限の愛を与えたくとも、無限の愛を与えるすべがない。それがいちばんの悲しみであるとも言えましょうか。私は、ときおり、このサンタクロースであることをあきらめ、「風の如くでありたい」と思うことがあります。「愛が、サンタクロースのプレゼントのようなものではなくて、吹き渡る風のようなものであったなら、どれほど素晴らしいか」と思うことがあるのです。「あの風の如くなりたい。風の如く、どこからともなく吹いてきて、どこへともなく吹き抜けていく、そうした愛の力でありたい」と思うのです。この日本の一角から、大川隆法という名の風が、幸福の科学という名の風が吹きはじめて、音もなく吹き抜けていく。透明な姿で、その存在を知られることなく吹き抜けていく。そのときに、「ああ、風が吹き抜けていったのだな」と人々に感じていただけるような自分でありたい。そうした幸福の科学でありたい。そう思うことがあります。風の如く、どこからともなく起こり、どこへともなく吹き抜けていくようでありたいのです。日本のいろいろな所から起こり、吹き抜けていく、透明な、さわやかな風でありたいのです。そして、ときには、冬の温かい風でありたい。人々がマフラーを首に巻き、コートの襟を立てるときに、温かい一陣の風となって、人々の心のなかを吹き抜けていきたい。そのようにも思います。「愛は、風の如く、無限定でありたい。無限でありたい」と、強く強く願うのです。」

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