キリスト教や仏教を融合した「愛の発展段階説」

 愛の教えについては、当然、キリスト教的な愛もありますが、仏教的にいえば「利他」や「慈悲」の行為であり、そうしたものを仏陀は否定していません。  よく、「仏陀は愛の行為を否定している」などと誤解されますが、それは「執着の愛」を否定しているのであって、「利他」や「慈悲」の行為を否定しているわけではないのです。むしろ、大乗仏教ではそれを非常に推進しています。そうしたキリスト教的愛や仏教的慈悲を「愛の原理」のなかで説いています。また、この愛にはレベルがあり(愛の発展段階説)、例えば、「隣人愛」や「家族愛」など、人間として当然持つべき倫理的愛として、「愛する愛」というものがあります。  そして、それを少し超えたものとして、利他的な思いを中心にした生き方、優れた人間の愛があり、「生かす愛」といいます。これは、幸福の科学で説かれている霊界の次元構造、悟りの段階でいえば、六次元的なものだと言えましょう。その上には「許す愛」というものがありますが、これは宗教的な愛の境地です。「この世において政治的・経済的に成功する」という意味での、「最大多数の最大幸福」的な弱者救済のようなものを乗り越え、もう一段、人の罪をも許すところに入っていきます。すなわち、「神仏のつくられた存在が、今世、魂修行で苦しんでいるのだ」という目で、道徳的な罪や宗教的な罪を許し、悪なる存在をも導いていこうとする「宗教者としての愛」になってきます。これを七次元的な愛である「許す愛」といいますが、仏教的には「菩薩の教え」に当たり、キリスト教的には「天使の教え」に当たります。さらに、これを超えた「存在の愛」というものがあります。これは、「如来の愛」あるいは「大天使の愛」です。このレベルまで来た人たちは、世界的な大宗教の開祖になったり、大きな思想家になったりしていますが、新しい事業を始める際、ある人を根っこにして大きな事業が始まっていくようなときに、如来という存在が出てくるのです。すなわち、その人がその時代に生まれたことで、時代が大きく変わり、よい方向に変わっていくような根源的な存在を「存在の愛」と呼んでいます。当会ではこれを八次元的な愛と言っているわけです。そして、その上の九次元的な愛として、「救世主の愛」というものがあります。イエスや仏陀、モーセなど、世界的な宗教家の魂が住んでいる世界における愛があるのです。ここについては難しいところであるので、まだそれほど十分に説かれていない九次元の宗教家も存在するようではありますが、いずれ説かれることもあるでしょう。