知に裏付けをされた愛

 幸福の科学大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「そうです、愛にも発展段階があるのです。愛の発展段階の第一段階として、まず、「愛する愛」があります。この愛する愛は、ある意味では、もっとも愛らしい愛だといえます。すなわち、それは親の子に対する愛であり、子の親に対する愛であり、男の女に対する愛であり、女の男に対する愛であり、友人に対する愛であり、さらには、隣人に対する愛です。もっとひろくいえば、社会に対する愛、共同体に対する愛も、この「愛する愛」にふくまれます。「愛する」といっても、やはり、与える愛であることにはかわりません。つまり、愛する愛の基礎にあるのは、その人が当然関心をもってしかるべきものに対する愛だからです。その人が関心をもってしかるべきものに対して好意を与えるということが、愛する愛なのです。これはもっとも根本的、かつ、一般的でありながら、実際には、けっこう困難な愛だといえます。地上世界が、この愛する愛に満たされたならば、少なくともこの世は、はっきりとした天国となるでしょう。愛する愛とは、すべての人に期待できる愛であり、すべての人が、愛する愛のすばらしさを生来的に理解することができます。つまり、人間は生まれつき、愛を与えることに関して、幸福感を感じるようにできているからです。しかし、問題は、愛する愛をつねに理解するだけでなく、それをいかに実践するかです。この愛する愛が真に実践されれば、地上は三次元でありながらも、そのまま実在界の五次元善人界へと変貌するはずです。つまり、この愛する愛の実現が、地上天国への第一歩なのです。愛の発展段階の第二段階には、「生かす愛」があります。「愛する愛」は、だれにでも可能な愛であり、その実践だけが問題なのですが、この「生かす愛」は、だれにでも実践できる愛ではありません。なぜならば、人を生かすことのできる人とは、すぐれた人であり、自らの才能と努力とによって、人を導けるまでに自分というものをしっかりとつくっていなければ、真に人を生かすことはできないからです。つまり、生かす愛とは、すなわち、導く愛なのです。ですから、その愛の実践の前提として、まず、優秀な人格を築いておかねばなりません。なぜならば、盲人は盲人を手引することができないからです。川の水が上流から下流に流れてゆくように、この生かす愛もまた、上流から下流に流れてゆく愛だといえます。生かす愛とは、知性の愛であり、理性の愛なのです。ですから、高き知性によって、人間と社会の本質を見抜き、すぐれた理性によって、その問題解決のメスをふるうことのできる人でなければ、真に人を導くことはできないのです。こうして生かす愛の体現者は、魂的に退化していこうとする者に対しては、「教導の怒り」を示して正しい方向に導くこともあります。そうしなければ、真に人を生かすことはできないからです。この意味において、「生かす愛」とは、実在界の六次元光明界の愛だということができます。生かす愛を実践できる地上の指導者も、もちろんおります。しかし、その心は、すでに六次元世界に通じているということです。」

 いろいろと親切にしたり優しくしても幸福になれないのは、“慈悲魔”になってしまうからである。

 愛には「人を生かす」という働きが入っているが、その働きは、世の中を深く知り、人の心の本質を知り、仏の心の本質を知らなければ、なかなか分かるものではない。

 この「知」の裏付けがない愛は、もろく、はかなく、崩れやすいものである。

 大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「人に対して、いろいろと親切にしたり、優しくしたりするけれども、結局のところ、なかなか幸福になれないという人がよくいます。なぜ幸福になれないのでしょうか。それは“慈悲魔”になってしまうからです。そうしたことが往々にしてあるのです。とにかく、人によかれと思って、いろいろと世話を焼くのだけれども、相手にはいやがられ、自分も漠然としたむなしさを感じる人。相手に尽くしているにもかかわらず、相手には感謝もされず喜ばれもせず、自分としては、むなしい気持ちを抱きつづけて生きている人。こうした人はかなり多いでしょう。それは慈悲魔になってしまうことが原因なのです。愛は非常に簡単で容易に見えて、その実、非常にむずかしいものなのです。それは、愛のなかには「人を生かす」という働きが入っているからです。そして、人を生かすという働きについては、やはり、人びとや世の中のことを深く知り、人の心の本質を知り、仏の心の本質を知らなければ、なかなか分かるものではないのです。したがって、「知に裏付けをされた愛は、ほんとうに世のすべてを生かしめ、はぐくみ、発展させていく愛であるが、知の裏付けがない愛は、もろく、はかなく、崩れやすいものだ」と言うことができます。

 愛というのは、相手を優しく包んであげるものではあっても、甘ったるいだけのものではない。むしろ厳しさを見せる面もある。

 だからといって、いつも厳しいだけでは困るわけで、場合によって使い分けが必要になる。

 総裁は、『仏陀の証明』で以下のように説かれました。

「正当な批判のなかには、相手を生かす面があります。相手のことを、親身になって真剣に考えている場合には、正当な批判として言ってあげなければいけないこともあります。知っていても言わずに、そのままでいたために、相手の人が崖から転落することもあるので、その前に、「やめておきなさい」と言わなければいけないこともあるのです。人生の失敗を見ていると、やめるべき時に、「やめなさい」というひと言を誰も言ってくれなかった、ということがほとんどです。「その道はやめておきなさい」「それはだめです」というひと言が、その人を救うことがあります。そうした忠告は、相手にとっては耳障りなので、言いにくいのですが、やはり、「その道は行き止まりです。やめておきなさい」と言ってあげるべきなのです。たとえば、友人が〝脱サラ″をして、ある事業を起こそうとしているとします。しかし、その人の経験や見識、力量、評判などを見ると、「これは失敗するのではないか」という感じが自分にはしたので、「どのようにして、その会社を起こすのですか」と訊いてみたところ、「これはだめだ」と思ったら、「あなたの資金計画は甘い。客がその半分ぐらいしかいないと思って計画を立て直し、それでもやれるぐらいでないと、今はやめておいたほうがいいですよ」と言ってあげなくてはいけません。あるいは、「銀行から金を借りるというが、あなたは貯金をどのぐらい持っているのですか」「そうですか。十年も働いて、それだけしか貯金が貯まらないのですか。そんなことでは、この事業は成功しないのではないでしょうか」と、相手にとっては嫌なことでも、言ってあげなければいけないこともあります。それが、その人を救うことがあるのです。逆に、それを言わなかったために、子供は学校へ行けなくなり、奥さんは里に帰るというように、一家が不幸になることが現実に起きるのです。これが、一年後に相手の人を待っている姿かもしれないのです。もちろん、脱サラをして成功する人も、なかにはいますから、「この人は成功するかもしれない」と思える人に対しては、「応援するから頑張れ」と言ってあげないといけないこともあります。しかし、「会社でうまくいかないので腹が立った。一旗揚げてやろう」と、反逆の気持ちから飛び出す人がいますが、この場合には、たいてい失敗します。会社でも非常に評判がよくて、成功しているような人の場合には、独立して事業を起こしても成功する可能性がありますが、評判が悪くて会社からたたき出されるような人が独立しても、普通はあまりうまくいかないものなのです。こうしたことを人生の智慧として学んでくると、他人に対して、厳しいことでも、だんだん言えるようになります。ですから、厳しくて少し耳が痛いことでも言えるようでないと、真に人を導くことはできないということです。これは大事なことです。」