般若の智慧

 般若心経は、釈迦弟子が書いたものであり、その意味を理解しないとその功徳はないのかもしれませんが、幸福の科学では現代語で書かれた「正心法語」というお経があり、現代人が読んでその意味が理解できます。  正心法語は釈迦意識の直接の霊指導を受け書かれたものであり、般若心経の一万倍の威力があると言われています。  

 実際、正心法語をあげると天上界から光が降りてくるのを実感できるです。

 般若(はんにゃ)の智慧を得るためには、まず、日々の修行態度を正しくしていかねばなりません。いわゆる三学という「戒・定・慧(かい・じょう・え)」を、丹念に修練していかねばなりません。日々、自ら戒め、また禅定の体験をし、そして智慧を蓄えていく。その過程で、やがて解脱(げだつ)という体験をし、解脱の結果、涅槃(ねはん)の境地を得る。この涅槃の境地を得たときに得られる、透明感あふれる深い深い智慧、これを「般若」と呼んでいるのです。それは、永らく、仏教の修行をしてきた人にとっては、“永遠の憧れ”ともいうべき言葉でした。

 般若の智慧を得るとは、どういうことなのか。それを得たら、いったいどのようになるのか。一言で表わすとするならば、「自己が観え、他人が観え、世界が観える」ということです。さらに、言葉を換えていうならば、般若の境地というのは、「生きている自分」ではなく、「生かされている自分」というものを、しみじみと悟る境地であると言えましょう。前者の「生きている自分」、つまり、「積極的に、能動的に、力強く選びとって生きていく自分」をかたちづくっていく自意識を「識」の立場とすると、「般若」というのは、「生きている自分」ではなくて、「生かされている自分」というものを深く感じとっていく境地です。 ちょうど、人差し指が人を指すことはできても自分自身を指せないように、ちょうど、刀が他のものを切ることはできても自分自身を切ることはできないように、識の立場というのは、自我がしっかりしていて、いろいろなものを分析的に見ることが得意ではあるが、自分自身を見ることは難しいのです。しかしながら、般若の立場になると、無我の立場になってくるので、自分も他人も、すべての世界が、ありありと如実にわかるようになってくる。 「ありとあらゆる現象 喜びも悲しみも、苦しみも憂いも、いろいろなことが、この世にはあるけれども、すべてのものが、実は、私の生命というものを生かしめるためにある大いなる教材なのだ。そういう大いなる教育の場なのだ」ということを知る。この世ということの意味を知る。この世がなぜあるのか、私がなぜ今ここに生きているのか、いかにして生まれ、いかにしてこの世を去っていくのか。これを知った智慧が般若です。  識の立場というものは、もう少し狭いのです。この世の中で、より優れたるものをつかみ取っていく、優れたる自己となっていくための修行に必要な知恵、それが識です。これは、人間としての自己確立、自己形成、自己発展にとっては非常に大事なものですが、あくまでもまだ視野の狭いところがあります。  

 般若の悟りを得てきますと、霊界をも含んだすべての世界のなかで、生まれ、生き、死に、あの世に還り、また生まれ、生き、死ぬ。そういう転生輪廻の流れのなかで、自己というものをつかみ、さらに他の人の人生というものをつかみ、自己と他人とが同時代の同期生として魂修行をしながら生きている、という現実を知ります。  

 そして、この世的には、色々と辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあったとしても、そうしたものは、すべて実体のあるものではなく、あくまでも物質世界という教室で、実験として、自らの魂修行のために行なわれている、ということを知るようになります。 即ち、般若の智慧の段階においては、「一切が無常である」ということを知っています。また、「一切が無我である」ということを知っています。  

 この世のすべての事物が、肉体が、諸現象がすべて、無常なるもの、常ならず変転していくものであることを知り、また、存在しているように見えるすべてのもの、森羅万象が、実は無我、すなわち、「本来の存在ではなく、大宇宙の意志によって、一時期、仮に現象として現わされているものであって、それはあくまでも魂修行のための教材にしかすぎないのだ」ということを知る。こういう境地が、実は悟りの境地であり、般若の智慧ということでもあるのです。  

 今は般若心経で学ぶより、幸福の科学で、正心法語や真理の学習をする方が断然悟りを得られるのです。仏法真理を学び、正心法語を理解すれば、悟りの智慧を得ることは誰でも可能なことなのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「般若の智慧を得るためには、まず、日々の修行態度を正しくしていかねばなりません。いわゆる三学という「戒・定・慧」を、丹念に修練していかねばなりません。日々、自ら戒め、また禅定の体験をし、そして智慧を蓄えていく。その過程で、やがて解脱という体験をし、解脱の結果、涅槃の境地を得る。この涅槃の境地を得たときに得られる、透明感あふれる深い深い智慧、これを「般若」と呼んでいるのです。それは永らく、仏教の修行をしてきた人にとっては、“永遠の憧れ”ともいうべき言葉でした。般若の智慧を得るとは、どういうことなのか。それを得たら、いったいどのようになるのか。  ひと言で表わすとするならば、結局、「自己が見え(観え)、他人が見え(観え)、世界が見える(観える)」ということです。さらに、言葉を換えていうならば、般若の境地というのは、「生きている自分」ではなく、「生かされている自分」というものを、しみじみと悟る境地であると言えましょう。前者の「生きている自分」、つまり、「積極的に、能動的に、力強く選びとって生きていく自分」をかたちづくっていく自意識を「識」の立場とすると、「般若」というのは、「生きている自分」ではなくて、「生かされている自分」というものを深く感じとっていく境地です。ちょうど、人差し指が人を指すことはできても自分自身を指せないように、ちょうど、刀が他のものを切ることはできても自分自身を切ることはできないように、識の立場というのは、自我がしっかりしていて、いろいろなものを分析的に見ることが得意ではあるが、自分自身を見ることは難しいのです。しかしながら、般若の立場になると、無我の立場になってくるので、自分も他人も、すべての世界が、ありありと如実にわかるようになってくる。「ありとあらゆる現象 喜びも悲しみも、苦しみも憂いも、いろいろなことが、この世にはあるけれども、すべてのものが、実は、私の生命というものを生かしめるためにある大いなる教材なのだ。そういう大いなる教育の場なのだ」ということを知る。この世ということの意味を知る。この世がなぜあるのか、私がなぜ今ここに生きているのか、いかにして生まれ、いかにしてこの世を去っていくのか これを知った智慧が般若です。識の立場というものは、もう少し狭いのです。この世の中で、より優れたるものをつかみ取っていく、優れたる自己となっていくための修行に必要な知恵、それが識です。これは、人間としての自己確立、自己形成、自己発展にとっては非常に大事なものですが、あくまでもまだ視野の狭いところがあります。般若の悟りを得てきますと、霊界をも含んだすべての世界のなかで、生まれ、生き、死に、あの世に還り、また生まれ、生き、死ぬ そういう転生輪廻の流れのなかで、自己というものをつかみ、さらに他の人の人生というものをつかみ、自己と他人とが同時代の同期生として魂修行をしながら生きている、という現実を知ります。そして、この世的には、いろいろと辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあったとしても、そうしたものは、すべて実体のあるものではなく、あくまでも物質世界という教室で、実験として、自らの魂修行のために行なわれている、ということを知るようになります。すなわち、般若の智慧の段階においては、「一切が無常である」ということを知っています。また、「一切が無我である」ということを知っています。この世のすべての事物が、肉体が、諸現象がすべて、無常なるもの、常ならず変転していくものであることを知り、また、存在しているように見えるすべてのもの、森羅万象が、実は無我、すなわち、「本来の存在ではなく、大宇宙の意志によって、一時期、仮に現象として現わされているものであって、それはあくまでも魂修行のための教材にしかすぎないのだ」ということを知る こういう境地が、実は悟りの境地であり、般若の智慧ということでもあるのです。」

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